第一章 世 ~The LORD'S own People~
アーリスは約40億人の人口と高度文明を持つ、闇の中、蒼く輝く星である。
年代はER(エンドレスロード)
この世に神と言う存在が無くなった年からを期限とする暦。現在1999ER。
アーリスが幾度も向かえて来た世紀末——。
ここ、カナリーグラスは有名な大学と、その系列の医療センターのある大きな街である。
大学の名は ウィルアーナユニバーシティ。通称ウィルユニバースと呼ばれている。
大学の中央ホールに記者会見となる台座とマイクがセッティングされ、マスコミ関係者が続々と集まり出す。
ウィルユニバースから今世紀最大の発表が、今日、行われるのだ。
「センパーイ! 先輩もきてたんですかぁ?」
「珍しいっすね。先輩がこんな仕事熱心なの。しかも古代生物生存論の証明の会見に来るなんて。まさか信じるんスか?恐竜は生きている、そんな安っぽい説を」
「あらぁ、いいのぉ? 会見始まる前から安っぽい説なんて言っちゃてぇ。相手はあのウィルアーナなのよぉ、ねぇ、先輩」
「恐竜なんて今の御時世、嘘に決まってるじゃないっスか。多分、バイオテクノロジーによる生命体って所じゃないっスか? ねえ、先輩?」
「そんなの政府で禁止されてるじゃないのぉ。それをこうもあからさまに会見開くぅ?」
「なら、本物の恐竜を捕まえたって言うんスか? そんな嘘丸出しの記事、誰が読むんスか。ここはあのウィルアーナっスよ! 政府と裏で手を組んでたって変じゃないし、その方が面白い記事になるっス」
「だったらぁ、どうして会見なんて場を開く訳ぇ? 政府と手を組んで、変な生命体生み出して、それでわざわざマスコミ連中呼ぶぅ?」
「それはっスね、あ、痛っス!!」
でこピンを食らったのだ。
「まだ何もわからないのにジャーナリストが噂語るな。そんなだからオカルト、ヌード、風俗、ゴシップって言われるんだウェイブは!」
「でも先輩も嘘臭い恐竜の話、聞きに来たんっスよね?」
「俺は別の取材。こんな時でもない限り、ここの大学内部は侵入しにくいからな。得にうちは」
「そういえば、どうしてウェイブってウィルアーナに嫌われてるんっスかね?」
「——さあな。」
「所で先輩は何の取材なんですかぁ?」
「ああ、古代生物生存論よりも面白い説をだした奴のアポなし独占インタビューだよ」
「それって何の説ですかぁ?」
男は煙草をぺッと吐き捨て、履き潰した黒の革靴で煙草を踏み潰した。そして新しく咥えられた煙草の口元がニヤリと笑い、言った。
「DEAD END」
大学系列で並ぶ医療センター、ウィルアーナホスピタル。
会見が行われ様としている大学とは裏腹に静かな時間が流れる。
「——B2カードをお持ちの方、第3診察室にお入り下さい」
今、20代前後位の男性と女性と小さな男の子が第3診察室に入って行った——。
ここウィルアーナホスピタルで治す事の出来ない病気や怪我は諦める他はない。
白衣を着た二枚目風のその男——。
デスクに向かったままの姿勢で、患者となる男の子には見向きもせず、吐いたセリフは
「入院させますか?」
だった。
男の子の後ろにいる男性と女性は互い顔を見合わせ、不安を隠せない表情になる。
最初に尋ねたのは女性の方だった。
「あの、先生、それはどういう事なんでしょうか?」
しかし、男はその質問を無視するかの様に、関係があるとは思えぬ事を尋ね返した。
「セカンドはYHWHと書かれてますが、何と発音を?」
「それに発音などありません」
女性は当然のように、そう答えた。
「そうですか、失礼しました。ファーストの方が患者はヤソ君、その母がミリアムさん、父がジョセフさん、読み方はそれで、よろしいですか?」
「はい」
女性、ミリアムが頷いて答えた。そして、
「あの、それで、先生、ヤソの腕は治るんでしょうか?」
そのミリアムの質問に、男は初めて患者達に、顔を向けたが、答えは ——
「さあ?」
「さあって、あんた!!」
ジョセフが怒るのも無理はない。
「ヤソ君は91年生まれですね。」
「さっきから何が言いたいんだ! 名前や生まれた年を聞いて何がわかる! ちゃんと診てくれ!」
その時、ナースが一人来て、何かを男に手渡した。
「レントゲンです。ヤソ君の肩から腕、指先にかけて、両手、両腕、骨に異常はありません。一応、脳波の方も検査しましょう。神経の方も調べます。しかし、どこにも異常は見られないと思います。つまり、これは一種の奇形です」
——奇形。その意味、普通と違う、不完全な形。
「先生? 奇形って? 奇形ってなんですか? ヤソの手は治らないんですか? この間迄は動いてたんですよ! 治して下さい! 先生! 先生!」
ミリアムは隣の診察室にまで響く、十分な声で訴える。
「正直に言いましょう。最近、急に腕が動かなくなった、手の指が開かなくなった、手が腕が使えなくなった、そのケースの症状でここを訪れる患者は多く見られます。その全ての患者が91年生まれの子供達です。そして皆、検査の結果、身体のどこにも異常はありませんでした。つまり、どこか悪いのではなく、手が動かない、それが普通の状態であるんです。進化、退化、水や空気の環境問題、ウィルス、様々な説が出ています。中には宇宙人の人体実験という説もあります。つまり、結果は何もわからないと言う事ですよ」
「あの・・・・・・ヤソは・・・・・・治らないって事ですか・・・・・・? ヤソは・・・・・・奇形児に・・・・・・なるんですか・・・・・・?」
ミリアムは声を震わせ、泣き出してしまうが、ジョセフの方はまだしっかりしている。
「私が先程、奇形と言ったのは——。いえ、やめときましょう、私の意見は説として発表してませんし、決して、笑顔になれる話になれませんから。最も良い結果へと繋がる説は今の所出ていませんが——」
その患者の症状については何も明らかになっていない。そして学者達が出した意見の中に正しいものがあったとしても、それは良い結果に繋がるものではない。ウィルアーナでそう言われれば希望は失われたも同然。ミリアムが泣き崩れ様とした時、
「そうそう、この患者にとったら良い説が1つだけありました」
男は思い出したように、態とらしく言った。
「馬鹿馬鹿しい説は幾つもありますが、その中でも最も目を引く説です。まだ研究生の男なのですが、確か、DEAD END、そう言ってましたねぇ」
「デッドエンド?」
「私はその説を過小評価してまして、余り覚えてない為、詳しく説明はできません。興味があるならば、直接、その男に逢い、話を聞くのも可能ですが?」
「聞かせて下さい! ヤソにとって、いい話ならば、是非!」
「そうですね、入院の事も、その後で決めましょう。只、その男は医学生ではないんですよ。生物学生です。まぁ、バイオ関係に大きな変わりはありません。ですから、彼の説も全くの嘘ではないのですが、要は何人の者が彼の説を信じるか、その説にどれ程の証明がつくのか・・・・・・今の所、誰の信用もない、何の根拠もない説です。まぁ、それはいいとして、彼の名はウィルティス・シンバ——」
ウィルユニバースミーティングルーム。
ここはどこよりも緊迫した空気が流れていた。
急激に増える動植物と急速に減る動植物についての会議が行われている最中である。
全く発表はされてないが、アーリスの生態系が確実に狂い始めていた。
今迄、絶滅が近く、天然記念物として保護されていた動植物が子を産み続ける。その反対に死に絶えていく、今迄、栄えた動植物。
アーリスは終わる、そう言える学者や研究員は誰もいなかった。
しかし、それに近いものは考えられ、この原因不明の出生率と死亡率の増加と低下を解明する為のプロジェクトチームを組むよう、連邦政府がウィルアーナに指令したのだ。その裏では莫大な予算が動いていた。それはどんな手段でもいい、関係者以外、誰にも知られずに元の生態系に戻せと言う事だった。
古代生物生存論。ある日、楽園と呼ばれる大陸で、ウィルアーナの生徒の手により恐竜が捕らえられた。しかし、学者も研究員も、政府までもがソレを重大な事とはとっていない。この狂い始めている生態系の中で狂った爬虫類がいても、然程、不思議ではない。それよりもマスコミにアーリスの生態系が狂い出してるのを知られ、大衆に流されるのを恐れた。事実の公表は社会を乱す為、政府は何の発表もする気はない。ウィルアーナの方も、この年の出生率、死亡率の記録は残さぬよう、とっていない。
捕らえられた恐竜はマスコミの目を欺くものとして今世紀最大の発表となる。
そして会議は生態系を正常の戻す為の案とプロジェクトチームのメンバーを決める事。
その重大な会議の中、一人、白衣も着てなければ、制服も着ていない、私服の男がいる。テーブルに頬杖などをし、欠伸までしている太々しい姿。眠そうな目でぼんやりしているが、学者や研究員達を睨んでもいる。
「生物学生代表で来ているウィルティス・シンバ。そんな態度で、どういうつもりだ!」
一人の学者が、そう怒鳴るとザワっと空気がどよめいた。
——あれがイオン博士の息子?
——あいつがこのウィルアーナ全ての継承者となる者?
——おい、でも学生って? イオン博士の息子なのに低い地位(レベル)だなぁ。
——噂だが、親子関係うまくいってないらしいぞ?
——思い出した、あいつ、確か、授業に余り顔出さないのに、テストでは必ずトップクラスの成績の奴だ。
__へえ、流石、ウィルティス・イオンの息子って事かな。
口々騒めきが止まらない。
ウィルティス・シンバ、その名はイオンの息子という事でウィルアーナでは有名である。
「研究生が会議に出席できるなど、本来ならば有り得ないのだ。しかし今年の研究生は出来がいいと聞いている。だから、それぞれの学部から一人ずつ代表として来てもらっている。ウィルティス君、キミは生物学の研究生の代表者、言わば選ばれし者だ。それを何だね、そんな態度を続けるならば出て行きなさい!真面目に来ている、皆に迷惑だ!」
シンバは言われるままに席を立つ。出て行くつもりなのだろう。しかし、この態度に再び騒めきが沸いた。
——おいおい、本気で出て行く気なのか?
——真似できないねぇ、やる事が違うよ、流石、イオン教授の息子だね。
——イオン博士の息子ってだけだろ? なのに感じ悪すぎ。
——でも、ちょっとカッコよくねえ?
何が聞こえて来てもシンバの表情は変わらない。悪口も誉め言葉も聞き飽きているのか、それとも、そんな事には拘らないのか。
シンバはサラサラのブラウンの髪で前髪が長めのツーブロック系のスタイルをしている。瞳は左右、異なる色を放っている。左目がアンバー、右目がアクア。そして、表情はあるよりはないが、それは今の状況がそうしているのだろう。
「待ちなさい! ウィルティス君!」
出て行こうとするシンバを、一人の研究員が止めた。
「キミはイオン教授の息子さんだ。キミの行動は生物学生全員の信用を失わせるだけでなく、イオン教授の名を傷つける事になるんだよ。何か不服があるなら言いなさい。その上での行動なんだろ」
シンバは溜め息を吐く。その溜め息には「馬鹿馬鹿しい」と言葉が交じっていた。学者や研究員は、その溜め息交じりの言葉を聞き逃さなかった。
「何が馬鹿馬鹿しいと言うのだ! 現代、2000年に向けて、アーリスを元に戻そうと言う事の何が馬鹿馬鹿しい!? 命を生み、育んだ、母なる星アーリス。今、生態系が狂い、死の星となろうとしている。2100年には人類も危機となる。まだ遅くはない。急速に減る動植物をうまくコントロールし、子を産ませ続け、生態系を元に戻す。キミもわかるだろう?」
「で? 急激に狂うまま増える動植物は殺すのか? そんなの全然わかんねぇよ」
シンバは、そうセリフを吐き捨てると、学者、研究員、研究生、そこにいる者、全員を睨みつけた。
「俺の意見だ。絶滅しようとしている動植物の保護は必要ない。増える動植物にも手を出すな。
理由その1、この星で生きて行けないから死ぬ。それを生かしても生きれないものは生きれない。生きるものは生きる。
理由その2、もう、そっとしておいてやれ。
理由その3、この星は元には戻らない。お前達が計画し、実行しようとしている事は人為選択だろ。それは元に戻そうとしているのではなく、余計、壊してるんだ。こうやって、足掻けば足掻く程、壊れるんだよ」
「今、足掻かなければ、いつ足掻くのだ! このままでは2100年に人類は危機を迎えるんだぞ!」
「2100年って、俺、生きてないし、未来の人類がどうなろうと俺の知った事じゃない。そんなの未来の人類が考える事なんじゃないの? 尤も、未来に今の人の存在があれば、の話だけどね。ははは、笑える」
「ふざけるのもいい加減にしないか、ウィルティス君! イオン博士の息子だからと言って偉そうな意見を述べるんじゃない!」
「面白いね、ソレ。まるで研究生は意見を述べちゃいけないみたいじゃないですか? そうか、俺はウィルティス・イオンの息子という立場上、研究生でも意見を述べれる訳だ。そういう特権もアリなんですね、有効に使わないと! ははははは」
シンバの笑い声が馬鹿にされたように会議室に響き、浴びせられる。一人の研究員が怒りを抑えきれず、立ち上がったが、近くの学者に無理矢理、落ち着かされ、座らされた。
「——ウィルティス君、キミはまだ研究生だ。我々、学者や研究員への口の聞き方に気をつけなさい。それと研究生らしく制服を着用しなさい。何度も言うが、キミは研究生なんだ。その自覚を持ちなさい」
「以後、忘れなければ、そうします」
感情のない口調でそう答え、シンバはミーティングルームを出ようとした時、
「ウィルティス」
と、そのドアの近くに座っていた医学研究生代表のヴァイス・レーヴェに呼び止められた。
「先程の理由その2だが、あれは理由ではなく、キミの私情だろ。イオン博士の息子ともあろう者が私情の意見を述べるとは。あぁ、そういう特権もある訳だ、それは有効に使った方がいい」
シンバはレ—ヴェを睨み、レーヴェもまたシンバを睨み見た。最初に視線を逸らしたのはシンバ。何も言い返さず、無言でドアを開け、ミーティングルームを後にした。ドアを閉め、5メートル程、歩いた所で、ドアの開く音がして、振り向くと——
ザタルト・エノツ。
シンバの幼き頃からの友人であり、良き理解者でもある。誰が見ても2人は親友だとわかる。
エノツは視力が弱く、眼鏡を掛けているが、なかなかの容姿をしている。現在、科学生として、ウィルユニバースにいる。
「いいのか? 会議」
「何言ってんの。研究生交えての会議は中断だってさ。これから政府のお偉いさん達も来るから、失礼になるといけないからって。そうなったのはシンのせいだろう?」
「会議中断終了か。良かったじゃないか、くだらない話で退屈だったろ?」
「またそんな事言って、真面目で優等生の僕に同意見求めるのはやめてくれよ」
「エノッチが真面目で優等生?」
「あれ? なにか疑問でもあんの? シン? この間貸した500ゲル、今直ぐに返してくれてもいいんだけど?」
「あぁ、いや、流石、真面目で優等生のエノッチ。女がほっとかないね」
「シン程じゃないよ」
「いーや! その眼鏡、俺よりイケてるって!」
「そう言われてもな。出来れば、身に付けてる物より僕自身を褒めてほしいなぁ。例えば、シンより、長い脚とか、カッコ良過ぎる顔立ちとか、ね」
「成る程ね。イケてるね、その——・・・・・・」
シンバは考え込む。考えて考えて、考えながらクルリと背を向け、歩いて行く。
「おい、なんだよソレ! 僕のイケてるとこってないのかよ!」
エノツはシンバに追いつき、2人、笑いながら歩いて行く——。
今ミーティングルームから出て来たレーヴェが、シンバとエノツの歩いて行く後姿を見て、無表情で反対方向へと歩いて行った。
——ブレイクルーム。
シンバとエノツは自販機で飲み物を買い、2人、椅子に腰を下ろす。
シンバはエノツの持っていた教材をパラパラと捲り見始めた。
「紙で持ってんだね」
「一応、コンピューターにもダウンロードしてあるよ。でも空間に浮き出たモニターより、紙のが好きなんだよね。こう・・・・・・捲る感じとかさ」
「へぇ」
「シンは、そういう拘りないの?」
「俺? 俺はあんまヤル気ないから、拘りも何も・・・・・・ていうか、俺もサイエンスの方が良かったなぁ」
「僕はエレクトロニクスの方へ行きたかったよ。自分の好きな学部に行けないって、ヤル気なくすよねぇ」
ここ、ウィルアーナユニバーシティーの生徒となる者は難題な試験を突破した後、約40億個ある脳細胞と、その複雑な精神の脳髄をコンピュ—ターで調べられ、各、どの学部に向いているのか、どの学科に適しているのか、その結果により進む場所が決まる。試験だけが良くても、脳のあらゆる知能指数が一定以上であり、プラス何かが優れていなければ研究生にはなれない。つまり、努力だけではウィルアーナユニバーシティーの生徒にはなれない。
そしてシンバはバイオ関係に、エノツはサイエンス関係に向いていたのだろう。
「なあ、シンはさ、あのドラゴン、どう思う?」
「ドラゴン?」
「あの捕らえられた恐竜だよ」
「ああ、恐竜ね」
シンバは頷きながら、まだ教材を捲り見ている。
そして、その教材に何か挟んである物を見つけた。
——なにこれ? 手紙? 今時? 誰からだよ?
シンバはそれを開いて見た。
『 DEARザタルト・エノツ
私は天文学のBクラスを担当している研究員です。ザタルト君の存在を知って、何故、私が科学の研究員ではないのかと悲しく思います。ザタルト君は年上の女性は興味ありませんか? 私はザタルト君より年上ですが—— 』
「あのドラゴン、やっぱり古代生物じゃなくて、この時代に生まれた新しい生物なのかな。それとも進化? 何にしても急激すぎるよ。なあ、聞いてる? シン? 聞いて・・・・・・うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!?」
「うわっ!? 何だよ!? 大声で!?」
「何だよはコッチのセリフだ! なにやってんだよ、勝手に!!」
エノツは慌てて、シンバから教材と手紙を奪い取った。シンバはニヤニヤしながら、
「なにそれ? ラブ? レター? とか言う奴?」
わかってる癖に聞いてみた。エノツは何も答えないが、耳まで真っ赤にしている。
「ははは、マジかよ、エノッチ、かぁわいい!」
「からかうなよ! ・・・・・・ラテには言うなよ」
「ラテ? ああ、言わないよ・・・・・・多分」
「多分ってなんだよ!」
「それにしても今時手紙なんて渡す奴がいるんだな。しかも手書きだったぞ、そんな奴、この大学内でいるんだな。ビックリだ。まぁ、コンピューターでのやりとりじゃないってのが新鮮でいいけどさぁ、なんか、重そうで面倒そう。俺なら一夜限りだけがいいや」
「一夜限りって、そうやって取っ変え引っ変え女を食ってると、いつか自分が泣くよ?」
「でも俺は食った覚えはないんだけどな・・・・・・」
「え?」
シンバは飲み物を一気に飲み干す。その時、ある男が現れた。
「ウィルティス・・・・・・シンバ? 君だね?」
シンバとエノツは、座っている為、その二枚目風の男を見上げる。
「あんた誰?」
シンバが、そう尋ねると、男は作った笑顔で、
「見てわかりませんか?」
と、尋ね返した。白衣と男の首から胸ポッケトにある聴診器。
「医者」
シンバはそう答えた。
「・・・・・・ええ、私はウィルアーナホスピタルで医師をしている、ルシェラゴ・フレダ—という者だが——」
フレダ—は白衣の襟を軽く直す。
「探しましたよ? ウィルティス君? 御休憩とはいい御身分ですねぇ」
「休憩時間に休憩して何が悪い」
「いいえ、悪いなんて言ってませんよ、休憩をも惜しむ研究生の中、流石、余裕ですねと言う誉め言葉ですよ」
「——俺に何か用?」
フレダーは頷いて、後ろにいるジョセフ、ミリアム、ヤソの紹介を始めた。
「ヤソ君は私の患者だ。HA91の患者だよ」
HA91。1991ERに生まれた子供達の手(HAND)、腕(ARM)が動かなくなった事をHA91と言う。医師や研究員などの専門記号で一般的には使われない用語である。
「そして、患者の保護者であるミリアムさんとジョセフさんだ。キミの説を聞きたいそうだ。私が話してあげるべきなのだが、生憎、私はキミの説を覚えていない。余りにも下らなすぎて」
シンバはそう言ったフレダーを見上げたまま、何食わぬ顔をしているが、かなり怒りを露わにした瞳をしている。アンバーの瞳とアクアの瞳、どちらにも映るフレダー。
「あの、聞かせてください」
シンバとフレダーの間にミリアムが入った。
「患者は担当医に従うべきだ。担当医が下らないと言うならば、患者は、その説を聞く必要はない」
その時、ブレイクルームに入って来た男。
難い表情で白衣をピシッと着こなし、シンバ達の所にツカツカと近づいて来る。
エノツは立ち上がり、フレダーと一緒に、その男にペコリと頭を下げる。
彼こそが現在ウィルアーナを受け継いでいるウィルティス・イオンである。シンバの父親であり、博士であり、教授であり、その地位を得るだけの人間性はある。
「シンバ、自分の説に自信がないのか?」
「・・・・・・いいえ」
「ならば、説を聞きたいと言う人の為に話してあげなさい」
シンバは座ったまま、口を閉じていたが、誰もが黙ったまま、シンバを見下ろしている事に耐えれなくなり、立ち上がり、口を開いた。結局、イオンに従うようになる。
「——形態を変えているだけだ」
シンと静まる。
「あの? どういう事ですか?」
ミリアムが首を傾げ、尋ねた。
「この星に適した形態に姿を変えようとしているんだ」
「この星に? それでヤソはどうなるんでしょうか?」
「さあ。どうなるかまではわからない」
「そんな! ヤソは治らないんですか?」
ミリアムは縋るように、シンバに詰め寄る。
「治る治らないじゃない。そうだな、ヤソ君は助かる、そう言えばいいのかな」
「助かる? 助かるって?」
わかるまで問い掛けようとするミリアムにシンバは面倒だと溜め息を吐く。
「Noah'sArkと言う御伽話を、幼い頃に聞いた覚えがあって、その話がきっかけで思いついた説なんです。知っていますか? Noah'sArkの話を——。
その地に主はなく、堕落し、不法に満ちていた。しかし、ノアは無垢な人であり、主を崇めていた。主はノアに言われた。
——箱舟を造りなさい。
ノアは家族と動物一つがいずつを、造った箱舟に乗せ、大洪水から逃れた。
ノアは主に選ばれ助かった。
ヤソ君は、言わば、選ばれし者なんです。例えば、この星に何かあったとして、生き残る者は、その時に適した形態の者となる。子供達の腕や手が形態異変を起こし、変化が終了した時、アーリスに何かが起こる。俺はそう考えている。形態を変えるという箱舟に乗れなかった俺達の方がDEAD ENDを迎えるんだ」
ミリアムは沈黙になり、そんな彼女の肩をジョセフがそっと抱き寄せる。
——なんだ? このジョセフって人、随分と冷静に見える。
シンバはジョセフを妙に思い、見る。
「下らないな」
フレダ—が聞こえる呟きを吐く。
シンバが何か言う前にエノツが言い放った。
「そうでしょうか。説や論などと言うのは0.1%でも確立があるなら100%に持って来る可能性があります。信じる信じないは人それぞれですが、僕達は研究者として信じる事から始まるんだと思います。それで疑いがあるからこそ、何かが発見できるんだと思います。僕はシンの意見も、他の人の意見も、自分の意見と考えが違うと疑って見ても、下らないとは思いません」
「——キミは?」
フレダーはエノツを見る。
「科学生Aクラスのザタルト・エノツと言います。ライフサイエンスの成績は悪くない方です・・・・・・多分」
「ザタルト君、キミの意見は尤もだ。しかし全ての解決の糸口にもならず、後一歩及ばず、中途止まりの説程、下らないものはない。説とは、せめて自分の中で全て見極め、完全だと仕上げた上で出すものだ」
「俺の説が中途半端で終わってるってのかよ!」
吠えるシンバをエノツが押さえる。
「シンの説は中途半端じゃありませんよ。動植物だけじゃない。人の出生率もコンマ1ケタ単位で年ごと減り続け、新生児は身体異常を持ち生まれるのが普通の世の中となっているんです。そして91年に生まれた子供達が、地区、環境、飲食物、関係なく腕が動かなくなってきている。共通点は同じ年代生まれという事と、このアーリスに生まれたという事です。そして、ここ最近、アーリスには科学数値では表せない異変が起きています。今現在のテクノロジー全般を使っても予知も予測も不可能なんです。もしかしたら本当に、この星に何かあり、その形態に合うものだけが生き残るかもしれませんよ」
「この星に何かあり、ですか? まぁいいでしょう。一歩及ばずの方が面白い時もある。自分の馬鹿さ加減にいつ気付くか、楽しみです、ウィルティス君」
フレダーは肩を動かし、嫌な笑いをする。
「——行こうぜ、エノッチ」
「う、うん」
エノツはそこにいる者達に軽く頭を下げ、教材を持って、シンバの後を追い、ブレイクルームを出る。
「シンバ!」
エノツの後、イオンも直ぐにシンバを追いかけ、呼び止めるが、シンバは無視し、行こうとする。
「待ちなさい! シンバ!」
「——何ですか、イオン博士」
足を止め、振り向いたものの、シンバのイオンに対する口調と視線は冷たく、鋭く尖っている。憎しみが漂う嫌な空気の中、エノツは遣り辛さを感じる。
「会議の事だが、台無しにしたそうだな」
そのセリフにシンバがイオンを、より一層、鋭く睨んだ瞬間、エノツが間に入る。
「あの、違うんですよ、シンは只——」
「いいんだ、エノツ君。ここでは親子関係の甘さを捨て、研究生としての注意を——」
「ここでは? 他では親子みたいな事言うんですね。俺は認めない。あんたが親だなんて死んだ方がマシ」
「やめろよ、シン」
エノツはシンバの肩を持ち、後ろへ引くが、シンバはイオンに牙を向く事をやめない。
「俺は会議を台無しにした気はない。意見を述べただけだ。それとも研究生は意見も述べれないのか! 一体何しに俺達は会議に呼ばれたんだ! 研究生の中で選ばれた代表者なんだろ? それとも俺は違うのか? あんたの息子だから選ばれたのか? だから見知らぬ医者からも馬鹿扱いなのか? うんざりなんだよ」
「——シンバ」
「気安く呼ぶな! あんたとこうして話してるだけで、周りが俺をどう思うと思う? 大体あんたが注意しなければならないのは、俺ではなく、研究生の意見も聞かない、しかも馬鹿扱い迄する研究員や学者、医師の方じゃないのか! 大体なんだよ、あの医者! 患者に俺の説を聞かせに来たなんて嘘だろ! 俺は真剣に説を出した! 空想的かもしれないが、俺は間違った説は出してないと思ってる! 馬鹿にされるなんて屈辱もいいとこだ!」
イオンは何も言わない。シンバはこの沈黙にも苛立ち、しかし、これ以上は気が違える程、怒り狂いそうなので、その場を立ち去る事にした。イオンは行ってしまうシンバの後ろ姿を見つめる。今、ペコリと頭を下げるエノツが目に入り、イオンは困った顔で、苦笑いした——。
「シン、シンってば! 言い過ぎだよ」
「言い足りねぇよ。これでも結構抑えたんだ、同じ空気吸ってるのも狂いそうなんだよ!」
「——うん」
「大体、なんで俺だけに注意してくんだよ」
「——うん」
「俺も悪いけど、俺が全て悪い訳じゃねぇだろ!」
「——うん」
「あいつはいつだって俺を俺じゃない誰かにしようとしてるんだ。俺は俺なんだよ! 変われねぇよ!」
「——うん」
「なんか・・・・・・」
「うん?」
「怒り、おさまってきた」
「うん」
シンバは頷いてばかりのエノツを見る。エノツは「なに?」という風にシンバを見た。
「やっぱ、お前、俺の扱い方うまいわ」
「そりゃあ、シンとは付き合い長いからね」
エノツは笑う。
「でも、シンがお爺ちゃんの話を説に出すとはね、驚いたよ」
「お爺ちゃん?」
「Noah'sArkの話をしてくれたお爺ちゃんだよ」
「そうだっけ?」
「シン、覚えてないの?」
「ああ、子供の頃、聞いた話として覚えてて、誰に聞いたとか迄は覚えていない」
「僕とシンとラテで、よく遊んだ公園のベンチに、いつも座ってたじゃないか。いつからだろう、お爺ちゃんの話を聞きに行かなくなったのは」
エノツは懐かしく、昔を想う——。
「お爺ちゃん、元気かなぁ」
「もうトックだろ」
「なんて事言うんだ! 酷い奴だな!」
「どうでもいいだろ、そんな事。それより、あのジョセフって人・・・・・・」
「患者の父親?」
「ああ、あの人、なんか、自分の息子が大変な時に、随分と落ち着いて見えた。まるで他人事のように冷静だったけど、父親ってのはあんなものなのかな」
「そうだった? そこまで患者や患者の保護者を観察しなかったけど、色々あるんだよ、きっと」
「そうか、そうだな」
シンバは直ぐに納得した。
——色々ある。色々あるんだろう。
「シンは——」
「ん?」
「シンは何故イオン博士を——・・・・・・お父さんを、あんなに嫌うの? いつから?」
「——色々あるんだよ」
そう答えたが、シンバ自身、何の記憶もない。幼い頃、虐待を受けたとか、父親の見たくない場面を目撃してしまったとか、嫌な思い出も、悲しい思い出もない。その反対に良い思い出も、楽しい思い出もない。だから、どうして父親をこんなにも憎いのか全くわからない。怖い位、自分を知らない。
——俺は誰なんだろう?
不意にそう思う時がある。
その時、シンバとエノツの前に一人の男が立った。咥え煙草に汚い黒のジャンパー。絶対にウィルアーナとは関係のない人だと、見て直ぐにわかる。
「キミ達、ここの研究生?」
「はぁ・・・・・・」
エノツが頷いた。
「キミは? 制服着てないけど? 研究生?」
男はシンバを見る。シンバは黙っている。
「まぁいいや。あのさ、ウィルティス・シンバって人、知ってるかな?」
シンバとエノツは2人顔を見合い、その男を見た。男は怪しくないよと、ニッコリ笑う。
「あんた誰?」
そのセリフ、今日は2回目——。
男はポケットから名刺を出し、シンバに渡す。
『シャイン出版社 報道二課 ウェイブ担当 ラハン・アフェ』
エノツも名刺を覗き見る。シンバは名刺を見ると男に返した。
「記者会見となる中央ホールは向こうですよ」
「ああ、いいんだ。俺はウィルティス・シンバって人の話が聞きたくてね。ウェイブって雑誌、知ってる?」
「——知ってます。お世話になってますから」
「お。ウィルアーナの生徒が役に立つ記事が偶にあるだろ? あれは俺が——」
「いえ、ヌードの方」
「・・・・・・ヌード? ああ、そう、ね」
アフェはボリボリと頭を掻く。
「僕もウェイブは知ってるけど、その記者がシン・・・・・・バ君に何の用で?」
「キミ達も知ってるだろ? 91年生まれの子供達の手や腕が動かなくなった事。91年生まれだから、6,7歳の子だ。ニュースの報道では環境汚染によるホルモンのバランスの崩れ、となっている。ある雑誌では放射能、新型ウィルス、新陳代謝による原形質分解と、様々な説を取り上げられている。そこで、うちの雑誌ではウィルティス・シンバ君の説を取り上げ様と思ってね」
シンバとエノツは2人顔を見合わせる。
「シンバ君の意見を聞きたいんだ。ねえ、キミ達に尋ねるけど、シンバ君とは友達?」
2人とも何も答えない。
「キミ、さっき、ウィルティス君、ではなく、シンバ君、そう言ったよね? キミは友達だな」
アフェはエノツをじっと見る。エノツはシンバをチラッと見て、苦笑い。
「答えてくれよ、シンバ君って、どんな感じの人なのかなぁ?」
「えっと、どんなって、えっと・・・・・・その、あの・・・・・・」
「いい奴ですよ」
シンバが答えた。アフェは、そう答えたシンバを見る。
「格好いいし、性格もいいし、スポーツもできるし、頭もいい」
「へぇ、そりゃ凄い! パーフェクトだな! で? キミはシンバ君の説をどう思う?」
「——いいんじゃないですか」
「うん、そうか、いい、か。いいと思うか。俺もね、俺なりに色々調べた。年々、出生率が減り、オスの精子の数も減ってきている。それなのに91年だけ、人間の出生率が爆発的な記録を出している。その子供達が身体の一部に異常を持ち始めている。
DEAD END——。
子供達の形態変化が終了した後、アーリスに何かが起こる。それは説ではなく、予言ではないか?」
——予言?
「悪いけど、ゴシップ誌に付き合ってる暇はない」
シンバはアフェの横を通り抜け、一歩、二歩、その時、アフェに、
「シンバ君」
そう呼ばれ、シンバは振り向いた。アフェはニヤリと笑い、一歩、二歩、シンバに近づく。
「キミに逢う迄に、キミの事を聞いて回ったんだ。キミがシンバ君と直ぐにわかった。左目がアンバー、右目がアクア、見れば一目でわかると教えてもらった。でも、キミの事をいい奴だと答えた人はいなかったな。格好いいも性格がいいもスポーツができるも、誰もそんな事は言わなかったよ」
シンバはどうでもいいと、そんな態度。
「只、頭がいいとは皆言っていたな」
アフェはウェイブの新刊に自分の名刺を挟み、シンバの手に持たせた。
「又、キミの話を聞きに来るよ」
「お、おい。こんなゴシップ誌いらねぇよ!」
「でもヌードは世話になってるんだろう? その新刊のモデルもなかなかいい。それに、キミの説よりも、本当は10年前の話を聞きたいんだ」
——10年前?
「うちがゴシップ誌と言われるようになったのは10年前の事件を記事にしてからだ。俺が初めて書いた記事だったんだがな。あれから10年、丁度いい時期だろ? リベンジにはさ」
アフェはクルリと背を向け、立ち去る。
「——シン、10年前って?」
「知るかよ。俺達、10年前は8歳だぜ? 8歳の時に何があったって言うんだ。俺の覚えてる8歳の頃っていったら——」
『シンちゃん、シンちゃん、階段から落ちたんだって。シンちゃん——』
病院のベッドの上で目が覚めたら、ラテが泣きながら、そう言っていたっけ——。
「階段から落ちた・・・・・・事件かな」
「ははは、それで記者が来るの? 売れてるアイドルでもないよ」
「だな。さて、帰るかな」
「え? 帰るって生物学、授業ないの?」
「あるけど、出ない」
「そうなんだ。なんか今日はイライラしてるね?」
「別に。これ以上、知らない奴に呼び止められるのが嫌なんだよ。じゃあな」
シンバは軽く手を上げ、歩いて行く。その背中が呼び止めてほしそうで、
「シン!」
思わず、エノツが、そう呼ぶと、シンバは振り向いた。
「あ、いや、今日はコンビニのバイト、休みなの?」
「——あぁ」
「じゃあ、もうアパートに戻るの?」
「——あぁ」
「そっか。明日はちゃんと授業に出るんだろ?」
「——あぁ」
「・・・・・・シン、実は、あの女性の事で苛立ってる?」
シンバは無言で首を振り、再び、背を向けた。エノツがその背に声を掛ける事はなかった。
シンバは大学を後にする——。
寄り道はせず、真っ直ぐに駅に向かい、地下鉄に乗った。席は一人分、調度空いている。うまい具合座れた。
——定期が明日で切れる。
目の前に立つお婆さん。シンバは何も言わず席を立ち、隣の車両へ向かう。どこも席は空いていない。ドアに凭れ、腕時計を見る。
__あの女性。俺の右目と同じアクアの瞳の女性。
彼女を初めて見た時、恐怖を感じたが、彼女に惹かれて止まらない自分もいた。
確かに彼女はとても美しい。だが、俺には惹かれる理由がない。そう、恐怖を感じている自分になら納得がいく。
それは数日前の事だった——。
生物学の研究生は、リーフウッド大陸に向かった。海に囲まれた大きな島大陸。そこは楽園とも言われている場所で、この世界で、唯一、人の手が加えられていない緑多き大陸である。そこでは新種の動植物の発見も多ければ、全滅したと思われる動植物の再発見も多い。そして人のない、その大陸で文字も見つかっていた。
ルティア文字——。
ウィルアーナの無音航空機で生物学生は楽園へと降り立った。
全くの未開発地なので森林の奥へ入ると迷い、出て来れなくなる。その為、生い茂る草木の奥深くへ入る事は自殺行為だが、それでも人は、一歩、一歩、確実に奥へと迫る。
——ここもまた汚されていく。
このアーリスで人間にできない事などないのではないだろうか。
あれは幼すぎて、夢のように覚えてる頃。
世界の果てが見たかった。
高いビルの上、世界を見下ろし、見渡した。
光が届く所に、全て形造られた物が並び、光がなくなると、夢に見る星よりも手に届くネオンの方が綺麗だった。
この世界に果てなんてないんだ。
幼い俺の体の中で、何かが消えてしまった。
そう、描いていた夢と希望が消失したんだ。
それでも人は生きて行ける。
自分を求めてくれる、誰かがいれば、それだけで、歩み続けられる。
月明かりの中、小さな子供がこんな夜更けに一人、世界の果てを探して冒険をしてた。
親は怒るだろう。
怖くて帰れないから、窓から、家の中の様子を覗いたけど——。
いいんだ、差し伸べてくれる手はひとつあれば。
なのに、欲しいものは全て欲しいんだ。
人は希望をなくしても野望は残る。
ヒラヒラと目の前を舞う蝶に、ハッとして、気付く。
——昆虫、か。
その美しい羽の色と模様は見た事がない。
「おい、ウィルティス。こっちに蝶が飛んで来なかったか? 新種かもしれない」
「ああ、あっちへ飛んでいった」
「サンキュー!」
何人かの研究生がシンバの指差した方向へ走ってゆく。シンバは、その場から離れ、人気のない場所で手の中の蝶を放した。
「もう見つかんなよ」
ヒラヒラとシンバのまわりを舞う蝶。その時、足場が土砂崩れとなり、そこから10メートル程、滑り落ちた。
「うわあぁぁぁーーーーーー!?」
10メートル程落ちた位で、その悲鳴は大袈裟だった。
「なんだ? どうした?」
その大袈裟な悲鳴を聞きつけた連中が直ぐに駆けつけて来た。
「大丈夫か? 待ってろ、今ロープ・・・・・・を・・・・・・おい・・・・・・おい、あれ、なんだ?」
土砂崩れとなった場所から何か発見したらしい。シンバは落とされたロープで上へ登り、自分が落ちた場所より、更に下を覗き見る。土砂崩れの所為で、かなり下迄開けて見える。シンバは運良く大きな木の根に落ちたようだ。
そして、シンバが、研究生達が、目にしたものは——。
「あれはビレッジ?」
「どうしてリーフウッドにビレッジが? この大陸に人が生存してたってのか?」
「これって恐竜なんかより大発見だろ? もしかしたらルティア文字を使った文明の人類かもよ!?」
嬉し喜ぶ研究生の中、シンバは一人、複雑な表情をする。
そしてビレッジへ向かう。
しかし、ビレッジはシンバ達が来る事を知っていたかのように、呪われた運命を見せた。
「おい・・・・・・人が死んでる・・・・・・」
あちこちに散らばる死体の山と生臭い血。
今、殺されたばかりのようだ。
その村はアーリスに存在しながら、アーリスの文明文化とは違っていた。皆死んでいる為、空となる家の中に勝手に入り、その村の者達がどんな生活をしていたのか覗く。
原始的で機械文明が存在しない。
壁に貼られた美しいタペストリーで、この村に神が存在する事を知る。
機械文明の代わりに宗教文明が発達した独自の文化を築いている。
そして、礼拝でも行う場だろうか、ビレッジの中央、広い場に一人佇む女——。
女はシンバ達に背を向けている。長く、美しい黒髪が風で揺れている。女は、その髪をフワッと流しながら振り向いて、今、シンバ達の方を向いた。
——アクアの瞳。
彼女の顔や民族衣装のような服に飛び散っている血、そして手に持たれた刃物からポタポタと下に落ちる生々しい血よりも、そのアクアに輝く瞳が、シンバには印象的に映った。
彼女は高貴的な美しさに、その冷めた表情が、また神々しく、シンバを見定めるかの様に、真っ直ぐ、偽りなく見つめる。
今、初めて出逢ったふたり。
まるで約束されたような出逢いであるかのように、二人は出逢った。
アクアの瞳に、シンバは運命を見る——。
「ひいぃぃっ!」
一人の研究生が彼女に脅え、麻酔銃を向けた。
「やめろ!」
シンバは、その研究生の手を持ち、銃口を下へ向けさせ、彼女から目を離した一瞬——。
「йяцы」
彼女は何か囁いた。
しかし、彼女の言葉は誰にもわからない。勿論、シンバにも理解不可能だが、
「うん、わかったよ」
彼女に頷き、シンバはそう答えていた。
女はそのまま気絶した——。
そして彼女はウィルアーナユニバーシティーに調査材料としている。
彼女の喋る言葉を言語学の研究員がほっておく筈もなく、彼女の身に付けている珍しい鉱物を化学の研究員が黙っている筈もない。勿論、民族学の学者が動かない筈もなければ、生物学の研究員が指を咥えて大人しく彼女を見守る程、欲のない奴等ではない。
——そして俺は後悔している。
彼女との出逢いと、彼女を助けられない、その運命を悔やんでいる。自分が壊れ、消えてしまいそうな程、彼女を見ていると、俺は俺でなくなってしまう恐怖に駆られる。それでも身を委ねようと、彼女に惹かれてゆく。でも、俺は俺でありたい。このまま、ウィルティス・シンバでありたい。
本当の俺はどっちなんだろう——。
——PM3:52
ジギスタンの駅で下りた。
カナリ—グラスから3つ目の町。
明日で切れる定期が自動改札を通る。プラットホームを出て、北口の階段を下り、自転車置き場で自分の自転車を探す。白いボディにブレーキの切れた自転車。キーを外し、籠に貰ったウェイブを雑に乗せて、跨って、ペダルを踏む。
——バイクほしいな。バイト増やすかな・・・・・・
アパートへ戻る前に、いつものパン屋に寄ったが、休み——。
夕食はなしとなる。
——腹減ったなぁ。いいや、疲れた。寝てしまおう。
シンバは駐輪場に自転車を止め、アパートの階段を駆け登る。エレベーターは故障中だが、故障でなくても使わない。狭い中にいるより5階迄走って上る方が気が楽。
502ルーム。
「?」
鍵が開いている。そっと開けると部屋の奥から美味しそうないい匂い。シンバの表情が一気に明るくなる。
「おかえり、シンちゃん!」
「ただいま、ラテ。じゃねぇだろ、俺ん家で何してんだよ!?」
とは言うものの、嬉しいシンバ。しかし、その感情をうまく外には出さない。全く気のない態度をラテに見せる。
クルフォート・ラテ。
ショートボブの髪型でキュートな彼女も、エノツ同様、シンバの幼き頃からの友人である。ラテの得意とする弓道は父親仕込みで、その弓を射る術は、かなり確かなものである。しかし、父親とはよく喧嘩をする。
「聞いてよ、シンちゃん、ムカツクのよ」
「——またかよ」
「だってねぇ、親父ったら、私の部屋に勝手に入るんだよ! 許せないでしょ!」
いつもはパパと甘えてる癖に、喧嘩すると、すぐこれだ。
「——ラテだって俺の部屋に勝手に入ってるじゃないか。似た者親子だな」
「似てなーーーーい!」
ラテは大声で吠える。そして妙な微笑をし、シンバに一歩近づいた。
「それでねぇ、家出してきちゃったぁ」
「——またかよ。」
シンバは溜め息を吐きながら、部屋の奥へと入り、ソファに腰を下ろす。そして手に持っていたウェイブの新刊をパラパラと捲り見る。
「あっ、又、エッチぃ本買ってぇ」
「買ってねぇよ、これは貰ったんだ」
「嘘ぉ」
「嘘じゃねぇよ」
「ふぅん。じゃあさ、最近、この部屋に女連れ込んだっしょ〜?」
——ッ!?
「・・・・・・連れ込んでねぇよ」
「嘘ぉ」
「嘘じゃねぇよ」
シンバはウェイブを見ながら、何食わぬ顔。
「嘘じゃない? あれぇ? この長い毛はなんざんしょ? 私のでもなければエノッチのでもないし、勿論シンちゃんのでもないもんね〜?」
ラテは長い毛を一本、手に摘み持っている。シンバは雑誌をパタンと閉じ、ラテとその毛を見る。
「いいだろ、女連れ込もうが何しようが、ここは俺の部屋なんだ! 何が悪い!」
こうなったら開き直り、逆ギレしかない。
「別に悪いなんて言ってないよ? でも嘘言うのはよくないっしょ〜? 嘘はイカンよ、嘘は。ね?」
——そのセリフは気がなさすぎだろ・・・・・・。
ニッコリ笑い、勝ち誇った顔をするラテに、シンバは疲れ気味の溜め息を深く吐く。
「ねぇ? お腹すいてるでしょ?」
そう言われ、シンバは小さなテーブルの上に一杯並んだ料理に目をやる。
「いつもながら美味そう」
「うん、ママに教わったからね!」
「おばさんの料理、美味いもんな。ラテの手料理が美味いのは母親譲りと、ちょっとした努力か」
「うん! それと、恋だね!」
「こい?」
「うん、だって恋しなきゃ、ママに料理教えてもらう意味ないじゃーん」
「・・・・・・そういうもん?」
「そういうもんだよぅ! 好きな人に手料理を食べてもらう、乙女の夢でしょお! そうだね、シンちゃんやエノッチは私の料理が美味いかどうかの実験台だね!」
「俺達はお前のマウスかよ」
「いいじゃない。可愛いラテちゃんの手料理が食べれるんだから。ね? ネズミちゃん」
「・・・・・・可愛い?」
「もう! 細かい事に疑問を持たないの! さ、早く、座って座って!」
「作り過ぎじゃねぇ?」
「いーのっ! 今日は特別なの!」
「特別?」
「いーのっ! 乾杯しよ? ジュースだけど」
「何に乾杯するんだよ?」
「いーのっ! さあ、早く座って。ね?」
「あぁ」
今日のラテの手料理はいつもと違う。そのビッグボリュームと派手な盛り付けにシンバは疑問を持つ。
——今日、何の日だっけ?
ラテは笑顔で食事しながら、色んな話をする。
幼い頃の2人の想い出。
エノツの事。
家族の事。
観たい映画の事。
図書館でのバイトの事。
弓道の大会が近いという事。
今日一日の出来事。
シンバは楽しそうに話してくれるラテに嬉しく思う。
「あ、見て、シンちゃん、月が出てるよ」
開けっ放しのカーテンの窓の外、目の前にあるビルと、そのビルより高くある三日月——。
「月の話をしようか」
「月の?」
「ああ、月はね、年々、少しずつ、アーリスから離れてるんだ。アーリスの引力が弱まってるから」
「引力って重力?」
「ああ、まぁ・・・・・・月の重力とアーリスの重力が距離的に、調度引き合ってるんだ。つまり綱引きみたいなもんかな」
「ふぅん。アーリスが持ってる綱を離しちゃうのね? そうすると、重力が弱くなって、体重が減る!」
「体重は減らない。軽くなるんだ」
「軽くなるの?」
「無重力になると、物は宙に浮く」
「それって空を飛べるって事? 嬉しい!」
「はは、俺達は死んでるよ。5千億以上も未来の話だ。それに月がなくなると言う事は時間の長さがなくなってしまう」
「時間の長さ?」
「月は約1ヶ月でアーリスを一回りする。その時の月の満ち欠けによって知られる、1年の12分の1の長さ、その期間は月で数えられた区切りとなっている。それがなくなってしまう。それに潮の満ち引きも狂う事になる。そうなると、アーリスの生態系は手に負えない程、狂うだろうな。そうだな、アーリスが月を手放した時、本当の終わりってのが来るのかもしれない」
「そうなの? なんか、色々、大変なんだね・・・・・・」
「あ、いや、5千億以上も先の話だぞ?」
「うん・・・・・・でも、なんか・・・・・・」
ラテは例え5千億先でも、空を飛べるかもしれないと夢を持った。しかし、それは現実の中で夢にもならないと知ってしまった。俯いてしまうラテに、シンバは後悔する。
——空を飛べるかもしれない。
それだけで良かったのだ。シンバは、夢のない自分が嫌になる。
「そうだ、昔ね、人は月に住む事を考えたんだ」
月について、明るい話題を切り出そうと考えたシンバ。ラテは顔を上げ、シンバを見る。
「年代はAnno Domini、AD。まだ、この世に神が存在する暦だ」
「AD? すごい昔。そんな昔に月に住む事を考えたの?」
「あぁ、今となっては消え失せた科学技術となってる、その時代。科学は今より高度だったらしい。人は星間連邦国家を築き上げ、アーリス以外の星を生存可能な星に開拓したり、生存できる星を発見したりしてたらしい。人類の宇宙開発の始まりだ」
「すごぉい! それで?」
ラテの表情が興味で明るくなる。
「人類は深い闇の宇宙の下、灰褐色の月砂と岩ばかりの月面に最初は基地を造った。その基地を核に様々なドームが建設された。そのドームには月をアーリスと同じにする為の今の科学技術以上の技術を投入されたロボット達が中央基地からの指令を待っていた。ロボット達は人間が踏み入る事の出来ない月の屋外作業を代行する。先ず、空気だ、水も必要だ」
「開拓が始まったんだね!」
「ああ、月面に植物を植えるという所迄、開拓は進んだが、そこで月面開発は中止となった。2500AD、だったらしい」
「どうして?」
「わからない。残存する古い記録には、月面開発を試みた——、とだけしか記してない。何故、開拓を中止したのか、記録してない。考えられる事は何通りかある。記録を残せない程の異変が起きたのか、又は記録を残せない程の愚かな行為があったのか、記録をとる迄もなく、それは最初から無理な事だったのか。何にせよ、現在、月に行って住もうなんて奴、いないからな。」
「ふぅん。でも、私、月に行ってみたい!」
「行ってどうする? 何もないんだぜ?」
「基地が残ってるかも」
「——そうだな」
アーリスから飛ばした人工衛星がとらえた月面の映像には基地などない。いや、怪しい影や人類が手を加えたのではと思う跡地などはあるが、それらは単なるクレーターとも言える。
年代がADの頃、どれ程の技術があり、どれ位の文明を築いていたのか、わからない。
人類の言語は不思議な事にアーリスにいながら、アーリス語ではなかったと言う。
世界各地に人種と共に言葉は違い、翻訳機などが存在し、文化も違ったらしい。
言葉も文化も統一されたのは年代がADからERに変わる辺りかららしい。
恐らく、人を区切る宗教観がなくなったからだろう。その宗教があるADの頃、人類が月面開発を考え、今よりも優れた科学技術を持っていたなど、ちょっとした手掛かりが憶測となっているだけにすぎない。しかし、そんな事を口にして、ラテの夢を壊す事もない。
「ねぇ、シンちゃん、今よりも昔の方が科学が発展してたなんて事あるの?」
「ないとは言い切れないよ。ADの頃、ADよりも昔、Before Christ、BC。BCの頃の文明や技術が考えられない程に進んでいたのではないかって考える学者は大勢いた。只、その技術内容が残されてないから、全て憶測で終わってるけど」
シンバは憶測と言った事をしまったと思う。しかし、
「なんか、すごいね。シンちゃんの話、面白いから好き」
ラテは笑顔を見せた。ラテの夢を壊す発言にはならなかったようだ。
何があっても、ラテの笑顔は壊したくない。
ラテとこうして一緒にいるだけで、何かが、ゆっくりと静かになってゆく。嘘のように、優しくなれる。自分が壊れるのではなく、自分を取り戻せる、そんな感じになる。
ずっと今迄、傍でいてくれたラテ。これからも、きっと、ずっと一緒だから、俺は俺でいられる。
多分、ずっと——。
「ラテ、好きな奴って?」
「え? なにそれ?」
「恋してるから、料理うまいんだろ?」
「やだ、違うよ。いつか現れるかもしれない人に恋してるだけ。今はシンちゃんとエノッチで我慢してるの」
それを聞いて、シンバはホッとする。
「我慢してるはないだろ、今の内、褒めとかないとプレゼントやんないからな」
「え?」
「おめでとう、誕生日だろ? 今日は」
シンバはこの御馳走の意味を思い出したのだ。ラテは驚いた表情をしたが、嬉しそうに、今年も思い出してくれたと笑う。
「何がいい? プレゼント」
「いらないよ。シンちゃん、一人暮らしで大変だし、思い出してくれただけで嬉しいから」
「何だよ、遠慮すんなって。こうして時々ラテが来てくれて、食費、助かってるし、少し位なら余裕はある」
「んー・・・・・・じゃあねぇ、来年もシンちゃんと食事したいな」
ラテは笑顔で毎年同じ事を言う。そして、シンバは毎年ソレを忘れている。でも、いつしか、ソレは2人の間で約束になっていた。必ずこのパターンで約束を交わし、この成り行きで約束は果たされて来ている。
「ねぇ、シンちゃん、ホントに美味しかった?」
「あぁ」
「良かった。そんじゃ、そろそろ片付けちゃうね。そんで私、もう寝るし、シャワーも使いたいし、出てって? ね?」
ラテはシンバの背中を押す。
「おい、ちょっ、嘘っ、またかよっ!?」
シンバは外に出された。ラテが家出して来ると必ずこうなる。
仕方なく、シンバはジギスタンの町をうろつく事にした。カナリ—グラスと違い、ジギスタンはコンビニ位しかない。
明け方迄、立ち読みと行くか。
「よーう、悪ガキ1号じゃねぇかぁ」
「え? あ、えっと、もしかして、ハバーリ・・・・・・さん?」
ヴィルトシュバイン・ハバーリ。
ウィルユニバースの卒業生であり、元メカトロニクスの学者でもあった人で、その技術方面では名を残す程の人物である。しかし、シンバは彼を違う意味で知っている。
現在、クレマチスと言う町で、28と言う若さで、ワイルドボーと言う怪しげな店を経営しているが、彼は28歳には見えない。要するに彼は老け顔なのだ。ボサボサの頭に、汚いエプロン姿、それにサンダル履き。これで美人の奥さんがいると言うのだから、世の中、おかしい。
「お久し振りです。何してんですか? こんなとこで」
「ああ、仕入れみてぇなもんだよ」
「仕入れ? また趣味でヤバい物仕入れてるんじゃないんですか? 奥さんにドツかれますよ」
「そういう、おめぇは一人で何してんだ? いつもの悪ガキ2号とおてんば姫はどうした?」
エノッチとラテの事だろう。
「もうガキじゃないんですけど」
「うん? おお、ちょっと見ねぇ間にでかくなりやがったな」
「ちょっとって、もう7、8年、全然会ってないですよ。下手すりゃ10年位ですか? だからさっき、お久し振りですって挨拶したじゃないですか」
「そんなになるか。時間が経つのは早ぇな。まぁ、元気そうで何よりってな」
「でも、よく俺ってわかりましたね? 俺、ガキの頃から成長なしですか?」
「いや、おめぇの目で、おめぇってわかったんだよ。その全く違う色が対称的な瞳の色でな」
「あぁ・・・・・・そうですか。ハバーリさんは昔のまんまですね」
「そうか? 10年位前っつうと、ワイルドボーが開店した頃で、俺はまだ十代だったなぁ。まだまだ十代の若さかぁ」
「いえ、昔のまま老け顔だなって事ですよ」
「おめぇ、人が気にしてる事ズバっと言うな。まぁいいや、で? 何してんだよ?」
「はぁ、おてんば姫に部屋追い出されて、朝迄、どこで時間潰そうかなって考えてた所です」
「へぇ、なら、うち来るか?」
「えっ!!?」
シンバは一歩、後ろへと下がった。
「ああ!? なんだぁ!? その態度は! 俺の家じゃあ不満だってのか? ああ!?」
「い、いえ、ハバーリさんの家ってクレマチスにあるじゃないですか、俺、クレマチスには・・・・・・」
「うん? ああ、おめぇはウィルティスさんトコのガキだったな。そういやぁ、この間、旦那も息子も、顔も見せにも帰って来ねぇって、美人の母ちゃんが、うちのカミさんに嘆いてたぞ」
「そうですか」
シンバはどうでも良さそうに、何気なく、そう答えた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
2人、無言で一瞬の時を過ごした後、行き成り、ハバーリはシンバの腕をガシっと掴んだ。
「さ、クレマチスに帰ぇるぞ」
「なんでそうなるんですかーーーーッ!」
「バカヤロォ、ガキじゃねぇなら親に心配ばかりかけさすんじゃねぇ!」
「そういうハバーリさんはどうなんですか! 結婚して親の面倒とかみてるんですか? 怪しい店経営して、それでも親には全く心配掛けてないって言い切れるんですか? 自分が完璧に出来ない事、人に押し付けるのはどうかと思います!」
ハバーリにズリズリと引き摺られながら、シンバは必死に抵抗の説得に吠える。すると、ハバーリはグリっと首だけ動かし、顔だけをシンバに向けて、
「バカヤロォっ!」
怒鳴った。シンバはビクっとして、黙り込む。
「親ってのはなぁ、心配掛けさせる為にいるんだぁっ! それがイヤなら子をつくるな、そして産むな、親になるなってんだぁ!」
「え? え? あ、あの? じゃあ、俺? なんで?」
「うん? ああ、俺は自分ができねぇ事を人に押し付けんのが好きなんだよ」
「何だそりゃーーーーーーッ!!!!」
シンバの悲鳴に近い声がジギスタンに響いた。
ガクンと力を失くしたシンバを容赦なく、拉致するかのよう、ハバーリは車に詰め込んだ。助手席に置かれ、シンバは疲れきった顔をしている。ハバーリがハンドルを握る。
——今なら逃げれる、かな?
エンジンがかかった。
——もう無理か。
ラジオから流れる歌。ハバーリがメロディを口遊み、軽快にアクセルを踏む。
そういえば、最近、テレビも見てなくて、流行のアーティストの歌なんて知らなくて、ヤバい位、時代に乗ってないとシンバは流れるラジオのメロディと景色に、色々と考えていた。
——あ、やべぇ。明日で切れる定期、持ってきてねぇや。
——明日、使わないと勿体ないよなぁ。
——そのままカナリーグラスに行かずに、一旦、ジギスタンに帰るか。
——いや、帰ったとしても、自転車はアパートの方に置いてある。
——駅から歩いて30分位か?
——バスで行くと150ゲルドかかるとして・・・・・・
——クレマチスからジギスタン迄、電車で乗り換えて、幾らだ?
——というより、今幾ら持ってる?
——確か1000ゲルは余裕で持ってる筈・・・・・・
「おめぇ、今、何してんだよ。学生か?」
「はい」
「ウィルアーナの生徒か?」
「そうです」
「学部はどこだ?」
「生物学です」
「そうか、生物学か。ウィルアーナ位だぜ、1つの学部に幾つも分かれ道があったりするのは。生物学、医学、生命学、全てバイオだ」
「そうですね。考古学、民族学、言語学、全て一緒の学部にすればいいのに」
「まぁな、でも一つの学部にまとめりゃあ、研究の範囲が広くなる。視野を狭くする事で細かい研究が出来るってもんだ。おめぇはバイオ関係の中でも生物学が向いてたんだなぁ」
「俺は俺自身、絶対にサイエンスの方だと思ったんだけど。それに、サイエンスの方へ行きたかったし」
「ははっ、世の中、努力でも行けねぇ道ってのがあるからなぁ」
車は既にハイウェイを走っていた。
カナリーグラスからは電車で5つ目にあるクレマチス。ハイウェイを抜け、車はクレマチスの町中を走り、シンバの知っている景色が窓に流れる。
——懐かしいな。
15歳の頃、この町を出て、一人暮らしを始め、あれから3年。
車が止まり、下りた矢先に、
「シンバ君じゃないか、久し振りだなぁ。いやぁ、すっかり、おじさんより大きくなって、驚いたなぁ」
と、声を掛けられた。ラテの父親だ。シンバはペコリと頭を下げた。
「あ、うちのラテ、見なかったかい?」
「ラテ、ああ、いや、ラテさんなら、ジギスタンにいますよ。俺が借りてるアパートにいます。代わりに俺が追い出されたんです。そんな心配するトコにいる訳じゃないですから、大丈夫ですよ」
「そ、そうか、いやぁ、悪かったねぇ」
ラテの父親は頭を掻いて、苦笑いをした。
「シンバ君、まさかとは思うが、ラテが家出する時はいつもキミの所に行っているのか?」
「え、あ、いや、えっと・・・・・・さぁ? でも俺は必ず追い出されますから!!」
「そうか・・・・・・悪かったね、シンバ君」
ラテの父親は溜め息を吐きながら、立ち去って行く。
「親に心配掛けさせるのが親孝行ってな。よう、ちょっと寄ってけよ、いい物やっからよう」
ハバーリは、そう言うと、車にキーをかけ、妖しい建物の方へ歩いて行く。
——いい物?
シンバはハバーリの後に連いて行く。
何かの館のような、おどろおどろしい建物。客を迎えてくれるのは、バルーンを持った人骨と、キャーと言う悲鳴と、何故か、だるまと書かれた暖簾。そこがワイルドボー。シンバは暖簾を潜り、中に入る。ワイルドボーと額に赤い文字で滴る血のように書かれたマネキンが上から落ちて来る。シンバは何事もなく、ソレを普通に避けた。
子供の頃は怖いやら楽しいやら、この混沌とした場所が、それはもうドキドキもので、だけど今は——・・・・・・
「ハバーリさんの店、いいんですか? これで。変じゃないですかね?」
変としか思えない。売ってる物と言えば、駄菓子に、おもちゃに、エロ本に——、おっと、ウェイブもあるな。それと何故か、高級ワインと可愛いぬいぐるみ。BGMはソロピアノ。
しかし、この店の裏の顔はヤバい物が売り。
ハバーリは爆弾マニアであった。しかも、メカトロニクスの高い知識を持っている故、彼の造る装置の時限的なものは計りしれない単位の技術である。しかし、細かい作業を得意とするのは、そこまでで、後は大雑把であり、爆弾の一番肝心である、火薬が夢であるよう願う程、とんでもない事になる。
ハバーリ曰く——
『バカヤロ。爆薬なんてのはな、いちいち量って入れちゃあ、計算通りの爆発しか起こらねぇだろ。目分量だからこそ、想像を超越された時、面白ぇんじゃねぇか』
恐ろしすぎて、誰も買わない——。
「よぅ、なんか買ってけよ」
「じゃあ、苺ガムキャンディ・・・・・・」
「なんだよ、ケチくせぇな、5ゲルだ」
シンバはハバーリに5ゲルドを渡し、苺ガムキャンディを受け取った。
「あの、いい物くれるって何ですか? エロ本なら間に合ってますよ」
「バカヤロ。そうじゃねぇ。実はな、やるっちゅうか、返すっちゅうか・・・・・・」
——返す?
ハバーリは棚の上にある箱の中身を取り出し、シンバに見せた。
「・・・・・・何ですか? コレ?」
「ウィルティス・イオン教授の財産だ」
それは半径1センチ程のビー玉のような丸い石。闇を映してるみたいに暗黒に輝く黒い石。
「財産? これが? 単なる石ころに見えますけど?」
「これはな、おめぇが幼い頃にイオン教授にやった物だ。覚えてねぇのか? なら、思い出すんだな」
「俺が? あの人に? あげた?」
「自分の父親を、あの人なんて呼ぶもんじゃねぇ。イオン教授は立派な人じゃねぇか」
シンバは何も言わず、ハバーリの手の中にある石を見ている。
「この石はよぅ、おめぇが幼い頃、大好きなパパにあげると言って、イオン教授にやった物なんだよ。思い出したか?」
——パパ? そんな風に呼んだ事はない。
しかし、シンバは、
「その話が事実だとしても、どうしてソレをハバーリさんが持ってるんですか」
石をあげた事は事実として思い出したのか、怖い顔でハバーリを睨み見る。
「おっかねぇ面すんじゃねぇよ。今から10年ちょっと前か? 俺は18で既に学者という地位にいた。俺がウィルアーナに入って直ぐ、学者という立場になれたのは、俺の頭脳と、メカトロニクスに対しての細かい技術力のある指先と、イオン教授のおかげだった。でも俺は学者ってな立場が苦手でね、人に指図するより自分で動きてぇし、国からの予算とか関係なく、自由なものを創造したかったからよぅ。その地位はすぐに捨て、この店を持った。でもよぅ、一応、これでも悩んでてな。あの日は、少し蒸し暑かったなぁ——・・・・・・」
『あれ? イオン教授、ブレイクですか?』
『ああ、ハバーリ君、キミもか』
『はぁ、ちょっと研究に手が付かない程、悩んでまして』
『悩み? キミが?』
『学者ってのは収入もいいし、尊敬もされる。けど、このままでいい筈がないっちゅうか、俺がやりたい事じゃないっちゅうか・・・・・・あ、すいません、学者になって、まだ1ヶ月も経ってないのに、生意気な事言っちゃって』
『——いや』
『でも、イオン教授には感謝してます、本当に、学者という地位を貰い・・・・・・』
その時、イオンの手の中のある物に気付いた。
『・・・・・・ソレ、何かの原石ですか?』
『これかい? さぁ、どうかね? 息子がね、くれたんだよ。大好きなパパにあげると言われてね、私の財産だよ』
『へぇ、いい息子さんですねぇ』
『そう思うかい?』
『ええ、それにソレ、綺麗な球で、一見、漆黒のようですけど、見た事ない色合いで、小さな宇宙みたいで、珍しいんじゃないですか? そういうの調べてみると意外な物だったりするんですよ、きっと』
『・・・・・・そうか、なら、キミにあげよう』
『え、なんで、あの、でも、これ・・・・・・?』
『いいんだ、ソレを持ってると辛くなる。息子はね、生まれた時からソレを持っていた。不思議な事に母の体内にいた時から、ソレを持っていたんだよ。息子はソレをいつも大事に持っていた。何れ世界を救うものだと言ってね、ははは、テレビの正義のヒーローの見すぎだな、でもね、もう、その息子はいない。私は只、恐怖に脅えているよ——』
「イオン教授は恐怖から逃れるように、この石を俺に渡した。あの時のイオン教授が言っていた事は俺には全くわからねぇ。でも、この石を俺が受け取る訳にもいかねぇんだ。これ、オーパーツなんだよ。調べると、この石、遥か昔のものらしくてよ、しかも、こんな綺麗な球になった石が造れる訳なかろうってな。価値がつけれねぇ程、価値のあるものって事だ。しかもな、硬度が普通じゃねぇ。アーリス外物質の可能性もある」
「成る程、財産ね」
「おいおい、イオン教授はソレで財産と言った訳じゃねぇぞ。でもよ、大層なものは確かだ。俺は貰えねぇ。おめぇが生まれた時から持ってたってんなら、おめぇに返す」
ハバーリはシンバの手の中に石ころを入れた。それはシンバの手の中に戻った事を喜ぶように、暗黒の美しい輝きを見せた。
——俺がコレを持って生まれ、大事にしていた? 嘘だろ・・・・・・?
「そういやぁ、おめぇに聞こう聞こうって思ってたんだが、この店をオープンした時、おめぇ、電気工学者のおじちゃん、学者やめたんだねって言いに来たよな?」
「え? 俺が?」
「ああ、俺はおめぇがイオン教授の息子だって、そん時、初めて知ったんだ。それなのに、おめぇは俺の事、知ってたんだ」
「ソレ、俺じゃないですよ」
「いいや、おめぇだ。左目がアンバー、右目がアクア、間違える訳ねぇって。きっとイオン教授から俺の事、聞いてたんだろな。覚えてたら、何て聞かされてたか、聞きたかったんだけどなぁ」
——俺が!?
そんな訳はない。
シンバの記憶には何も残ってない事ばかりで何も信じられなかった。
ハバーリの事も、変な店のおじさんという事で、エノツとラテと3人で、よく遊びに行ったってだけで、なのに・・・・・・
『電子工学者のおじちゃん——・・・・・・』
——俺がそんな友好的に人に話し掛けてた?
——有り得ない。ガキの頃から俺は人見知りだ。
——何より、何故、電子工学者と知っていた?
——幼い頃、既に父親の事を拒絶していた俺が、父親から何を聞いたと言うんだ?
——絶対に有り得ない!
——それに俺がハバーリさんの学歴を知ったのは、大学に入ってからだ。
「あら、もしかしてウィルティスさんの所のシンバ君?」
店の奥から、ハバーリの妻カバンが出てきた。シンバはペコリと頭を下げる。
「それじゃあ、俺、そろそろ」
「あぁ、ちゃんと母ちゃんトコに行けよ?」
「——はい」
シンバが出口に向かって歩いて行くと、何処かに設置されたセンサーが作動し、音声が発せられた。
「御利用有難ウ御座イマシタ。又、ワイルドボーヲ御利用クダサイ」
その造られた音声を浴び、外に出て、シンバは振り返り、店を見る。
——この店、ワイルドボーっていうのか。
風で揺れてる暖簾。
——だるまって店かと思ってた。
シンバは夜風にあたりながら、クレマチスの町を少しうろつく事にした。
大きな公園。砂場、ブランコ、ジャングルジム。
外灯の下には誰かが忘れていったぬいぐるみが寂しそうにしている——。
クレマチスエレメンタリースクール。通い慣れた小学校。
空家。昔から壊される事もなくある空家。その為かお化け屋敷として、子供達の冒険場所となっている。そして、大ネズミ退治という冒険の話は、ここクレマチスでは有名な話だ。
エノツの家。広い庭は追いかけっこの場所となった。
ラテの家。弓道場は隠れん坊するのに最適の場所だった。
クレマチスには昔の思い出が沢山ある。ちゃんとそこにいるエノツとラテと自分の影を思い出せている。そして、変わらぬ町並みが懐かしく、このままの町が好きだと照れずに思えるのは、もうこの町を巣立った証拠だろうか。
——ある電柱の下。シンバの瞳に映る小さな少年時代の影。
そこにはうずくまり、動こうとしない少年がいる。
『ウィルティス君? 同じクラスのウィルティス君だよね? どうしたの? 泣いてるの?』
シンバはハッと気付き、イヤな昔の映像を見てしまったと、その場を足早に立ち去る。そのイヤな思い出の電柱から右折した、すぐそこにある自分の家。
シンバは自分の家を無表情で見上げる。
インターフォンを鳴らすと、
「はぁい」
と、返事と共にドアが開いた。シンバの母親ウィルティス・ライン。
「——シンバ?」
ラインは驚いた表情で、声迄、裏返っている。
「ど、どうしたの? 取り合えず、中に入りなさい。連絡もずっとないから心配してたのよ。大学の方はどうなの?」
「さぁ? 潰れる様子はないけど」
「え? あ、そうじゃなくて、大学の方であなたは、うまくやってるの?」
「さぁ? 俺を評価するのは俺じゃない」
「お父さんからも連絡があんまりないけど、お父さんはどう? 元気そう?」
「さぁ? 健康状態は本人しかわからない」
ラインは困った顔をする。
「玄関の隅で寝てもいいかな?」
「え?」
「俺が借りてるアパート、今ラテが使ってて、だから仕方なく、ここへ来た」
「そ、そう。仕方なく、ね・・・・・・ラテちゃんは、クルフォートさんの所の娘さんよね? お付き合いしてるの? まさか変な付き合いはしてないでしょうね? あなた達、まだ若いんだから、健全な付き合いならいいんだけど、シンバは男の子なんだから、その辺、ちゃんと理解しないと駄目よ? 聞いてるの? シンバ?」
「玄関の隅で寝てもいいかな?」
聞いてないのはそっちだろと言わんばかりに、面倒そうに同じセリフを言い放つシンバ。
「あ、今、ベッドの用意するわ。あなたの部屋、そのまま——」
「ここでいい」
シンバは部屋の奥に入ろうとせず、玄関の隅に腰を下ろす。
「で、でも——」
「ここでいい」
言い切るシンバにラインは何も言えなくなる。
壁を背に小さくうずくまるシンバ。まるでジャングルで迷った野生動物の子のように、攻撃的な気を放ち、一人でいる。
ラインは何も言えずに、違う部屋に行く。スリッパの音が遠ざかる。
玄関の端に置かれた3つのスリッパ。ラインが履いているスリッパと、どれも色違いだ。
ラインが履いている赤いチェックのスリッパ。端に置かれた黒のチェックのスリッパ。そして、ブルーとグリーンのチェックのスリッパ。客用は花柄のレースのスリッパが下駄箱の上の棚に幾つか入っている。
その3つのスリッパは誰の帰りを待っているのだろう——?
シンバは瞳を閉じて、眠りについた。
——朝。ラインが目覚めた時、玄関にシンバの姿はなかった・・・・・・。
シンバは朝一番の電車でカナリ—グラスに来ていた。カナリ—グラスから地下鉄に乗り換えてジギスタンに戻ろうと考えたが、やめた。クレマチスから、ここまで電車で680ゲルドかかったが、財布には3000ゲルド入っていた。そういえば、最近、缶ジュースを買う位で大して金を使わなかった。それにもうすぐバイト代が入る。何故か得した気分になる。
駅の近くのコンビニでパンと珈琲を買う。少し早いが足は大学に向かっている。
——今日で切れる定期は捨ててしまおう。
——帰りにバンクに寄って、金下ろして、新しい定期買って・・・・・・
——そろそろ光熱費が下ろされる頃だなぁ。
——この間、預金したのがまだ入ってるけど・・・・・・
「シーーーーン!」
振り向くと自転車に乗って、走ってくるエノツの姿。今、シンバの隣に辿り着く。
「早いじゃん?」
「お前こそ」
「僕はいつもこの時間だよ。人より努力するタイプだから」
「よく言うよ」
「あれ? シン、きのうと同じ服じゃない? またどっかでナンパした女の所に行ったの?」
「違ぇよ、きのうはラ・・・・・・」
「ラ?」
シンバはラテと言う言葉を呑み込んで、
「拉致されたんだよ」
そう言った。まぁ、嘘ではない。
「拉致? 誰に?」
「ハバーリさん。覚えてんだろ? 悪ガキ2号?」
「あはは、だるまのおじさんかぁ、懐かしい!」
「そう。そんで俺、苺ガムキャンディ買った。マジ懐かしいだろ、コレ。昔は2ゲルで買えたのに今は5ゲルだぜ。一粒やるよ」
「サンキュー。って事はシン、クレマチスに帰ったんだ?」
「あぁ、まぁね。そういえばエノッチも、この近くに部屋借りてんだよな。大人しくエノッチのトコに行きゃあ良かったよ」
「なんで? シンの部屋、なんかあったの?」
シンバはエノツを見る。エノツもまたシンバを見ている。
——コイツにラテの事を言うのは面倒だな。
シンバはエノツから目を逸らし、何も答えず、歩き出す。
「おい! 待てよ、シン! お前が何も教えてくれない時は、大抵ラテの事って決まってるんだ!」
——するどい。その通り。
「どうなんだよ、シン!」
エノツはシンバの前に自転車ごと立ちはだかる。
シンバの事をよく理解してる分、シンバにとって、エノツは、やりにくい存在でもある。
「僕のラテだからな」
——僕のラテだと!? いつそうなったんだ!?
と、吠えたくなるのを押さえる。
自分が惚れてる女と親友が好きな女が同じなんて、全く面倒な話である。しかし、それが悩みと言うのも、世の中、平和である。いや、少なくとも、自分達は平和であろう。
「シン! 何とか言えよ!」
「あ、ラテだ」
「そんな手に引っ掛かるかよ!」
「本当だって。ほら、図書館の窓んトコ」
図書館と聞いて、エノツはシンバが指差した方向を見る。ラテが図書館で働いてる事は2人とも知っている。
棚の本を取ろうとしているラテの姿。
——あいつ、俺の部屋から仕事に行ったのか。
ラテを見ながら、シンバはそう思う。
——ラテ、きのう誕生日だったから、家に電話したのに、いなかったんだよな。
ラテを見ながら、エノツはそう思う。
「あれ? シン、ラテが今、本を取ってあげてる、あの男の子、ほら、きのうの、あのHA91の患者だよ。えっと、何て名前の子だったけ?」
「——ヤソ」
「そう! ヤソ君だ。シン、よく覚えてるね」
図書館の窓辺で、ラテはヤソに絵本を見せてあげている。
「——入院したのか」
図書館はウィルアーナから直ぐ近くにある。その為、大学の者もよく利用するが、病院の入院患者も、よく出入りする。
「まだ小さいのに親と離れる事になるなんて大変だよね」
「もう8歳だろ、親離れしてるよ」
「もうって、まだ8歳だよ」
エノツも自転車を降りて、シンバと歩きながら、大学へと向かう。
その2人を図書館の窓から見つけたラテ。
「あ、シンちゃんとエノッチだ」
「ぼくもあの2人、知ってるよ」
「そうなの?」
「うん!」
ヤソはラテに無邪気に笑う。その後、一瞬だけヤソは顔を歪めた。その表情は苦痛だと直ぐにわかる。
「どうしたの? 大丈夫? どこか痛い?」
「うん・・・・・・手首・・・・・・」
「手首?」
「平気。時々あるんだ」
「手も腕も動かないのに痛さを感じるの? それって神経があるって事だから、きっと、直ぐに動くようになるよ。ヤソ君、いい子だしね」
「いい子だと手が動くの?」
「え?」
「悪い子だと手が動かなくなる? ぼくは悪い子だから手が動かなくなったの?」
「そうじゃないよ、ヤソ君、あのね——」
「お姉ちゃんは、ずっと、いい子だったの?」
ヤソはラテをじっと見つめる。
ヤソの左目に映るラテと、右目に映るラテ。
善、悪を量る天秤にかけられた様で怖くなる。
ラテは堪らず、瞳を逸らそうとした時、ヤソの額に横長の傷を見つけた。
途端、ヤソの方から視線を離し、ぼんやりと窓の外を見つめ始めた。
「世に、いい子なんて、生まれない」
ポツリと呟くヤソの瞳に映った、統治された世の中——。
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