13 帰りたくない
「…………帰ろうか。元の世界に」
唐突に発したデニス様の言葉に、わたしの頭は真っ白になった。
たちまち重い空気が停滞して、下へ引っ張られるように身体が硬直する。
「どういう、ことですの……?」
しばらくして、やっと掠れた声で彼に尋ねる。
彼は酷く傷付いたような顔をして、少し俯きながらぽつぽつと話し始めた。
「その……辺境に現れる魔物には大きく分けて二種類あると、前にも話したな? 元々ここに棲息している魔物と……あちら側から来た魔物だ」
歯切れの悪い彼の話しぶりに、不安の波が押し寄せて来る。ぬるりとした寒気が、背中からみるみる全身に伝わった。
「あちら側から魔物が来る際は、魔の瘴気の濃度が異様に高まって、何らかの影響を及ぼすことが原因だ。それらは予告もなく、突発的に現れる」
「そう、ね……。ここに来たばかりの時、領地の勉強の授業で教わったわ」
鼓動が早くなって、ガンガンと頭にまで響いた。
デニス様は、ふと鏡に目を向ける。
「……鏡は、不思議なものだな。真実を映しているようで、映していない。何故ならば、対象を左右反転に映しているからだ」
「…………」
「あちら側から来た魔物と戦っている時、違和感を覚えたことがある。……それは、ドットモンキーの群れが襲来した際に気付いたんだ。奴らはこの世界では、全ての個体が右利きだ。例外はない。だが、水から出てきた群れは皆……左利きだった。あぁ、これは鏡を通じてやって来たから左右は逆になるんだな、って腑に落ちたよ」
デニス様は押し黙る。またもや剣呑な沈黙が支配した。
彼は目を伏せて、なにやら思案しているようだった。わたしは、嫌な予感が頭から離れずに、ただ茫然と鏡を眺めていた。
しばらくして、
「あの日……王宮で見た君の笑顔はとても可愛らしかった。特に、くしゃりと笑う時に出来る片えくぼが愛らしいと思ったんだ」
デニス様はまっすぐにわたしを見た。
その双眸は悲しみの幕に覆われていて、言葉に表せないなんとも言えない気持ちになった。
彼は軽く息を吐いて、
「あの時の君の片えくぼは右、だった。――先日の君の片えくぼは…………左……だな」
「そんな……そんなっ…………!」
総毛立った。ぶるりと身体が打ち震えて、止めるように両腕を抱いた。
それでも、震えは止まらない。全身の血がみるみる凍り付くように、肉体の感覚がなくなっていく。
にわかに、その事実は受け入れ難かった。
彼が間違えているんじゃないかって、鏡に笑顔を向けようと思っても、僅かさえも口角が上がらない。
その間も、彼は冷酷な事実を淡々と告げる。
「あちら側から来た魔物は、放っておいてもいずれはこちらの魔の瘴気に毒されて死に至る。だが、奴らはここの世界の瘴気が合わないのか、腹を空かせたみたいに暴れまくる。だから基本的には自然死の前に倒す」
「わ、わたしも……」
くらりと目眩がした。
思い当たる節は沢山あった。
辺境に来てから、すぐに疲れること、すぐにお腹が空くこと、日に日に体調が悪くなっていること……。
それらは、わたしもあちら側から来たことの何よりの証左だった。
「だから、マギー」彼の声音に優しさが戻る。「君も……早く元の世界へ戻ったほうがいい。今ならまだ間に合う」
「嫌よっ!!」
最初に出た言葉は、拒絶だった。
自分には、受け入れられなかったのだ。
「絶対に嫌! わたし、元の世界なんて帰りたくない! ずっとここにいるわっ!!」
「駄目だ! ここに居続けたら君は確実に近いうちに死ぬ。そんなの……絶対に駄目だっ!!」
「それでも構わない! わたしは、辺境が好きなの。やっと領民たちとも仲良くなれたのに、小屋作りもまだまだこれからなのに……帰りたくないわっ!!」
「俺は君が弱っていく姿を見たくない。君には、ずっと健康で、ずっと笑っていて欲しいんだ」
「わたしは、ここに居られないのなら……死んでもいいわ。だって、デニス様の居ない世界なんて意味がないもの」
「……向こうにも俺はいる。領地もある」
「わたしのこと嫌いになったの? だから、追い出したいの?」
「違うっ!! 俺は君に生きて欲しいから。生きて、幸せになって欲しいから……! もう……それしか……方法がないんだっ…………」
その後も、わたしたちの話は平行線だった。
わたしのすすり泣く声だけが部屋に響く。彼は天井を仰いで深く息を吐いていた。
「辺境伯命令だ」
長い沈黙のあと、ついに彼が口火を切る。
その声音は、魔物と対峙した時のように険しく、冷たさを帯びていた。
「最近の魔物の増加は、君の存在が原因だ。この世界の異物である君が、魔の瘴気を乱しているのは明白だ。これ以上の滞在は更に瘴気を歪めるだろう。……迷惑だ」
「…………」
彼は、一層低い声で続きを述べる。
無慈悲な、宣告を。
「マーガレット・ローヴァー公爵令嬢。直ちに元の世界に帰るように。従わなければ……辺境に災厄をもたらす人物として……………………俺が、斬る」
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