編集
とにかく頭のおかしな奴ばかりがわんさか溢れていた。
わんさか、という単語はこの件、以外に使用すべきではないとさえ思えた。
一体、何がわんさか溢れているのか?
小説だ。
新人賞に送られた小説だ。
世の中には新人賞に送られた小説などというものには一切、関わらずに生涯を終える者もいる。幸福な人生だと思う。
だが文芸誌の編集者という職種に就いたからには逃れられない宿命のようなものだった。
わたしは編集者だった。
(何故こんなことになってしまったのか?)
よくわからない。
情報雑誌に配属され流行の最先端を追ったり追わせたりすることを希望していたのに、配置換えによって命じられた異動先はここだった。
「文………芸?」
ごくり。
わたしは思わず唾を飲んだ。元上司に言った。
「あのう、わたし全然、小説とか読んだことないんですけど」
恐る恐る挙手し言った。元上司は反応が無く暫くしてから「んあ?」とだけ言って机の下の股間をばりぼりと掻き毟った。そして「おれだって読んだことねーよ」と言った。
「………何故わたしなのでしょうか?」返って来る答えは大体、予想、出来たが全くその通りだった。
「んなの知らねーよ」
というわけでこの春からわたしは文芸誌の編集者になったのだ。与えられた最初の仕事が下読みだった。
下読み。
それは小説を読むことだ。
文芸誌には大抵、新人賞という企画があり、その受賞を目指してたくさんの応募者が自作の小説を送って来るのだった。その最初の読者になるのが下読みと呼ばれる社内の人たちなのである。
「そんな大変な役目わたしで良いのでしょうか?」
まだ何も知らないわたしは純真に問い掛けた。
新しい上司は「にょ?」と言い、その問い掛けをしたわたしをレアポケモンを見るように見た。カフェインを摂り過ぎておれは頭がおかしくなりかけている、と自己紹介で言っていた。
「にょーにょっ」
どうやらそのような心配は一切無いらしい。
「にょっ」
この出版社は『進撃のなんとか』とか『東京不良なんとか』といった漫画様の売り上げによって支えられていて、文芸などという島流し先の罪人の挙動などには社内でも誰一人、刮目していない、と断言した。株主からはとっとと解体させネット配信部門にでも力を入れろと逐一、言われているらしい。
上司が述べた漫画作品の名なら確かにこのわたしも聞いたことがあった。
「じゃあ小説を全然、読んだこともないし興味関心もまるで無いわたしみたいな人間がその下読みをしても一向に構わないということなのでしょうか?」
「にょー」上司は親指を立て、頷いた。
わたしみたいな小説に全く愛着の無い人間に読まれてその良し悪しを判断されるだなんて、応募して来る人たちも可哀想だなあ、と思った。せっかく一生懸命、書いてくれただろうに、わたしがもっと小説を心から愛しているような人間だったら良かったのにな。
だが他人の心配などしている余裕は全く無かった。
三週間後。わたしは発狂しかけていた。
うああああああああああっ。
とにかくとんでもない数だった。想像、以上だ。何が? 新人賞に送られて来る小説がだ。
小説………だとは思う、多分。詳しいことはよくわからない。わたしはその分野に詳しくないのだ。とにかく小説を送って来て下さいと言って送られて来たのだからこれが小説なのだろう。ただ一つわかったことは神様はいないということだ。この人たちにも、わたしにも。わたしは疲労困憊になり朝も昼もわからず編集部で言った。
「あのう、いつまで経っても読み終わらないし減らないんですよお」
涙声で言った。ゔー。先輩の女編集者は冷徹に言った。
「………もしかしてあんた送られてくるやつに最後まで目を通してるんじゃないでしょうね?」
「え? だって最後まで読まなくちゃ結末がわからないじゃないですか」
女編集者は「はあ」っと溜息をつき言った。
「途中までぱぱっと読んで駄目そうならもうそれでいいのよ」
「途中って………半分ぐらいですか?」
女上司は考えるふりをした。だが本当は全然、考えていないのだった。知的なふりをしているだけだ。
わたしは言った。
「二十枚、とかですか?」
まだ何も言わなかった。
「………十枚?」
まだ。
結論は五枚だった。
原稿用紙、五枚分までは付き合う。でもそれ以上は無理。仲良くなりたいので自分のことをもっと知って下さいと向こうがお願いして来ても拒否っ。もうお前のことはわかった。だからこれ以上お前に時間を割くことは出来ない。こっちの精神が崩壊してしまうのでさようなら。自分の健康が第一。
「にょっ」
ようやくお前も文芸編集のなんたるかがわかってきたな、と編集長は頷いた、多分。この男が何を考えているのかは本当のところさっぱりわからない。深淵を覗き込む時その深淵もこちらを見つめ返すらしいが、あまりにも浅すぎる水たまりのようなものを見つめてもその水たまりはこちらをじっと見つめて来るのだった。こっち見んなばかっ。やって来たばかりのわたしにこんな下読みとかいう作業を押し付けやがって、自分は偉そうに大作家を育てただのなんだのとぬかしやがる。ろくな人間ではないだろう。
「にょーにょっ」
「ええわかりました、原稿データは家に持ち帰りそちらで確認させて頂きます。期日までにはきちんと応募作を絞り込む予定です」
ちっ。
何故、自宅アパートでまでこいつらと付き合わなくてはならないのか?
わたしの大切な自由時間がどんどん削られて行く。
そもそも何故こんなにも応募作があるのか。不思議で仕方がない。こいつら一体、今まで何処に隠れていたんだ? 普段は息を殺し新人賞の公募が告知されたと同時に一斉に飛び出して来たのだろうか? それじゃあ虫と一緒じゃないか。
アパートに帰った。
「はあ………」
また今日も下読みか。ごっそりとやる気が抜け落ちた。
全然、楽しくない。
つまらない。
仕事なんだから当たり前でしょ、とかいう声もたまに聞く。
ほんとかなって思う。
わたしなんて世間知らずだからつまんなかったらやめればいいと思う。もちろん会社ではそんなこと言わない。そういうこと言うと怒られる。
わたしの同期はみんな優秀だった。どう見てもわたしとは毛並みが違った。面接でわたし一人が馬鹿みたいだった。だって自分ですら(馬鹿かも………)と思っていた。なのにわたしは受かって他のもっと世の中の役に立ちそうな青年は落ちたのだ。この世界は狂ってると思う。
その罰なのだろうか? 下読み地獄だ。
色々と考えてしまう。
あともう少し人口知能が発達すればこんな仕事も無くなるだろうか? とか。
「はあ………」
気付けば溜息ばかりしている自分がいる。
みんなも一度、下読みってやつをやってみれば良いのだ。わかったふりをして他人の苦痛に対しあーだこーだと勝手に意見を述べるのはおかしい。わたしはあんたじゃないし、あんたはわたしでもない。
わたしの肺呼吸を全て溜息にするつもりなのかこいつらは。送られて来た原稿データに目を落とす。
「しゃーない、読むか」
まさかこんな夏休み明け間近の小学生みたいな気持ちを再び味わうなんてな。
小説。
小説がいっぱいあった。
わたしは膨大な数のそいつらに囲まれていた。そしてそいつらがそれぞれに言うのだった。最高傑作が誕生したのでその立ち会い人としてお前が証人となりこの作品を最初に閲覧した愉悦と畏怖を後世にまで語り継げ、と。
(狂っている)
はっきり言って。
完全なる狂人だ。
限度を越えてる。越えたまま、ずけずけ先に進んじゃってる。戻ってこおいって警告しても向こうの方でスキップしてる。
日本列島から続々と集結して来た小説群だった。ただここにあるだけで圧が凄い。これだけで発電とか出来るんじゃあないだろうか?
そこには投稿者たちの想いがいっぱい秘められていた。永遠に秘めたままにしておいてほしいのにどうしてそれを具現化してしまうのか? わたしはもうこの世界の不条理に打ちひしがれ立ち上がれそうもなかった。
最初の日。わたしは渡された原稿データを見て言った。
「あのう………もしかしてこれわたし一人で読むのでしょうか?」
ぽろっと本音が漏れた。とんでもない数だったのだ。これは仕事だ。だから嫌だと言って回避、出来るものではないことは重々、承知していた。
「いやもう一人いるよ」
そいつとペアを組んで取り掛かってくれと編集長から言われた。だがその人は「別の仕事が生じた」とか言って速攻でいなくなってしまった。そのことを報告すると編集長の次の言葉は「クラフトコーヒーうめえ」だった。
昨日と今日と先週と先月の記憶が曖昧で混濁していた。サザエさん時空に取り込まれてしまったのかもしれない。だが朝、鏡に映る自分の顔はやつれていて髪のキューティクルが死滅しているので時間の経過だけは確かなようだった。
わたしは諦めて再び送られて来た原稿データに目を落とす。
小説。
小説なんだと思う、よくわからないけど。
未だに小説というものがなんなのかよくわからない。ずっと読んでいればわかるかも………と思ったが、読めば読むほど出口の無い迷宮へと迷い込んで行くようだった。
(多分、小説なのだろうわたしにはよくわからないけど)
送っている本人たちもそう主張している。だがしかし。
ある時、飲み会の席で意を決し相談してみた。
「………あのう、投稿者って頭のおかしい人が多くないですか?」
酒もぐるんぐるんに回り、言ってはいけないことも周囲にマスコミ関係者等がいなければ言っても良いこととなる。編集者同士の飲み会だ。個室で、密室だ。ぼくとわたしの秘密会議だ。わたしのその発言にその場にいた全員が凍り付いた。編集長の持っていたジョッキのビールの表面が固まってぱきぱきした。上司の一人が言った。
「え………お前、今まで気付かなかったのかよ?」
それ以来わたしは心を無にして仕事にあたるようにしている。禅でも習おうかな。
わたしも立派な文芸編集者の一員になりつつあった。まずこの日本列島にはわたしたちの想像もつかないような人種が大量に生息している、その認識から始めよう。それをまず受け入れないことにはもはや何も始まらないのだ。
「はあ………」
気付けばまた溜息だ。このままだと全自動溜息機になる日も近い。
「ねえねえ、お母さん今度わたしが小説の選考をするんだよっ」
実家の親にそんなことも報告した。母は「すごいわねー、今夜のおかずはウインナーを二本、追加するわ」などと言っていた。
わたしだってここへ来た当初はこんなではなかったのだ。この世界には美しいものがたくさん溢れていると思っていた。信じていた。だがそれは全部、勘違いだった。
この世界は美しくないものでいっぱいだった。そいつらでぎゅうぎゅう詰めだった。そして朝の満員電車みたいにそこから回避することが出来ないのだ。直撃するしかない。逃げ場なし。
下読みは、終わった。
「うーあー」
心を無にすれば簡単だった。狂気には狂気で抗うしかない。まともな精神状態ではとてもではないがもたない。
下読みは濾過するようざーっと網にかけることに似ている。だからあまり細かいことは気にしなくても良いのだ。漁業みたいなものだ。たまに大きなタコとかイルカとかが入っているのでラッキーってポイポイとそれを回収する。あとに残ったシラス共は皆、海へと帰す。大きくなったら回収する。あいつらがこれ以上、大きくなるのかどうかは知らないが………それはあいつらの問題であってわたしの問題ではない。
わたしが担当した今回は殆ど残らなかった。
全部、小魚だった。
わたしたち編集部の望むような逸材は発見されなかった。わたしたちのあの努力は一体………。
それでもまあ、なんとか読むに値するかどうかはわからないけど『賞の候補者はいません』と公表すると応募者たちがうるさいので適当な奴らを引っ張り上げ形だけの最終選考を行なうことにした。
わたしもそこへと参加させてもらった………というより人がいないのだ。文芸など誰も興味も無いし社内でも厄介者、扱いの完全なる絶滅寸前状態なので、オオサンショウウオとかカブトガニとかそんな奴らの集まりなので、それに携わる人的要因が壊滅的に足りないのだった。
「あのう、最終選考ってどんな風に進めるのでしょうか?」
わたしは会議室で尋ねた。
ぎしっと編集長の座っていた椅子の背もたれが不快な音を立て軋んだ。小魚ばかりだったので不機嫌なのだ。わたしはそれ以上、何も訊かなかった。まあ適当にやればいいのだろう。
最終選考が始まると知的に振る舞うことに全振りの先輩がわたしに問い掛けて来た。
「この作品についてどう思いますか?」
どう思うったってなあ………。
ほんと言うと『どうも思わない』んだけど。
「なんか心に引っかかる箇所が無かったです。すぐ読み終わっちゃいました」
その編集者は頷いて言った。
「一気に読めました!」
ふええ。
じゃあ次のこの作品は? と問われた。
「そうですね………その辺の本屋さんとかに置いてあっても全然おかしくないと思いました、わたしは絶対、買いませんが」
「文章がプロ並み!」
これは………詐欺なのでは? わたしは思った。
まあいっか。
言葉に詰まったら「とても面白かったです」とか言っておけばそれで良いと編集長からアドバイスされた。
投稿者たちはナイーブであまりにもこちらの本音が効きすぎると「もうお前のところの本なんて一切、買ってやらないからな」などと苦情の電話を入れて来るらしいのだ。編集長に言わせるとそういった連中は元々、定価で買わず立ち読みで済ますような輩だから無視して良いとのこと。その時わたしは初めてこの男を尊敬しかけた。そう呟く編集長の顔は本当に絶望しきった表情だったから。
選考の過程はwebにて公開される。
新人編集者のわたしに出来ることはと言えば、そっと応募者を逆上させないよう慎重に言葉を選びなるべく当たり障りの無い言葉で、お願いだから苦情の電話など入れてこれ以上、業務に支障をきたさないでねという想いを込め、空々しい文句を口にするだけだった。
殆どの投稿者はまともだった。
だがたまに本当にやばい奴が紛れ込んでいた。
とにかくイメージしてもらいたいのは、アイスのガリガリ君のパッケージに描かれているようなあの少年がそのまま大きくなり、成人化し、自分の思い通りにならないことに対して憤慨している様だ。
対話でどうこうなるレベルじゃあない。
本物の気迫がある。
電話口で応対しているだけでどんどんこちらのHPが削り取られていくのだった。
そしてその人たちはこの星が自分のために回っていることに一切、疑問を抱かず、ようやく落選を納得して頂けたと思ってもまた季節が巡り次の賞になると新たなる最高傑作を送り付けて来るのだった。新たなる、ならまだ良いが前回と全く同じものを「もっと真剣に読んでくれないと困る」と言って送り付けて来る者もいた。こちらの心が死ぬのも無理はない。
正直、扱いに困る。
わたしにはもう言ってはならないこと以外に言いたいことが無い。
本音は割りと単純で、応募なんかもうしなくていいから自社の発行物を購入する読者であって下さいということだった。わたしって性格わるいのかな? でもみんなだってわたしの立場になればそう思うと思うよ。
とにかく気にしたら負け。心を殺さなければ務まらない業務がある。投稿者には投稿者の人生がある、そうかもね、でもそんな風に思うともう何も進められないのだった。
「世の中の人々に傑作をお届けしたい!」
「読者の心を動かすお手伝いがしたい!」
もちろんそれだって嘘じゃない。誰だってやり甲斐のある仕事をしたいと思っている。自分の携わった作品でたくさんの読者が喜んでくれて、しかも生き方なども変わってくれるのならそれに勝る報酬はないだろう。
でも本当のところは金なんだ。
金。
金を稼がなくてはなんともならない。
その事実は台形の型をしていてちょっとやそっとではぐらつかずに鎮座している。
わたしだって応募者みんなの作品を出版してやりたいよ。中には本当に小説が好きで愛してるんだなあって思える作品もある。たくさん読んでいればわかる。でも申し訳ないけど金にならなさそうなら切り捨てるしかない。これじゃあ売れない。わたしだって給料を貰わなくてはいけない。だから是非、売れそうな作品を送って来てもらいたいと思う。
「せんぱあい。審査についてのお問い合わせにはお答え出来ませんって書いてあるのにどうして最終選考におれが残ってないんだって怒る人がいるんですか? しかも毎回」
「ちっ、こっちが下手に出てりゃあ図に乗りやがって、おれたちの仕事なんだと思ってやがんだあいつら。いつまでも礼儀正しく敬語で接してくれるだなんて思ってんじゃねーぞっ」
やって来た新たな新人たちは生ける屍みたいな表情で言った。小説の無い世界に行きたい、と言った。ははっ。わたしは笑った。
「きみたちもようやくスタートラインに立ったみたいだね」ぱんぱん。手を叩く。
さあーて、今日もたくさん小説を読むぞー。
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