おれたちのあの日




 おれは、男の子だ。


 電車に乗っている、男の子だ。


 吊り革に手を掛け、それが無くなれば瞬時に倒れ込む男の子だ。


 疲れていたのだ、部活の帰りだった。だから最初は何が起きているのかわからなかった。


 (………ん?)


 おれの尻が揉まれていた。それはまるで小麦粉を捏ねるような手つきだった。振り返ると男と目が合った。サラリーマンのようだった。毅然とした態度だった。けして目を逸らさなかった。もしかしたら何かおれの勘違いなのかもしれなかった。ぎゅっぎゅっぎゅっ。


 電車内は酷く混み合っていた。


 サラリーマンは、男が男に尻を揉まれる恥辱に耐えられないだろう? とたかを括っているようだった。


 なんて卑劣な奴なんだ。


 おれは思った。


 実際に自分が痴漢というものをされて当事者になってみるとそれがおぞましいというか、こんなことを無許可で突然、行なうような奴は裁判の過程をすっとばし絞首刑にすべきだと思った。


 おまけにおれはあの日だった。


 あの日。


 女の子が股間から血をだらだらと垂らす日「あの日なの………」そんなことを言ってプールサイドで体育の授業を休んだりする。


 ここではっきりさせなくてはならないのは男の子にもあの日があるということだ。男女平等による格差社会の是正。それはおれたち男子にもあの日が与えられるようになった。とてもいいことだと思う。


 先週、部活の県大会の帰り、最寄りのラーメン屋に立ち寄ったおれたちに店の大将が言った。


 「わりいけど、今日はもうお終いなんだよ」


 「え?」


 おれたちは食券売り場で呆然とした。ねじり鉢巻きを締めた大将は続けて言った。


 「おれ今日、あの日でさあ」


 そうか………。


 おれたちは無言で頷き、店を出た。あの日なら仕方がない。麺など茹でている場合ではない。


 あの日の症状には個人差があった。


 おれの場合、手が付けられない凶暴性を帯びた。


 だから背後から突然、尻を揉まれ激昂した。


 普段の温厚なおれなら何も言えずに自宅に帰ってこっそり枕を噛みながら泣いただろう。だがここにいるのはあの日のおれだ。瞳孔を開き言った。


 「おいてめえ勝手に人の尻を触んじゃねえっ」


 ひゃあっとサラリーマンは手を離した。そして覚束ないことを述べた。


 「言い訳してんじゃねえぞみっともねえっ」


 サラリーマンはぺこぺこと頭を下げ、ちょうど都合良く開いた扉を見るやいなや脱兎の如く逃げ去った。そこは本来そいつが降りる駅ではなかったと思う。おれはふうと溜息をついた。


 「兄ちゃん、なかなか格好良いじゃないの」


 これから競馬場に行くのか、爺が呟いた。耳に鉛筆を乗せ上下ジャージ姿だった。何かの暗号らしき判読不明な文字がびっしりと書き込まれたスポーツ新聞を脇に挟んでいた。おれは照れて言った。


 「あんな風に人前で自分の感情をさらけ出すなんて本来おれ苦手なんすけどね」


 「あの日か?」


 おれはこくんと頷いた。


 「実はおれもだ」にししっと笑って爺は言った。歯が幾つか無く隙間が覗けた。


 「え? おじさんもあの日なんですか?」


 その問いには一切、答えず自分の興味関心のあることを立て続けに喋り出した。


 「海賊王におれはなるっ」


 おれと、そのおじさんの視線の先には大いなる多摩川の流れがたゆたっていた。


 なってほしい、海賊王に是非。







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