ぎゅっと章吾の肩にしがみついた七美が、喉から絞り出すような声で囁いた。

 「恋じゃないといけないんですか……。愛じゃないといけないんですか……。私は、そんなものがなくても一緒にいられる二人が羨ましかったのに。」

 「……そんなものが、なくても?」

 章吾の胸に額を打ち付けるように、七美が頷いた。

 「なにもなくても一緒にいられるって、特別でしょう?」

 なにもなくても、一緒に。

 章吾がぼんやりと思い出すのは、七瀬の横顔。

 白い横顔をこちらに向け、煙草を吸う彼の背中。

 あれは、たまたま大学の喫煙所で七瀬に遭遇したときだった。

 「え、お前、煙草なんか吸うの?」

 それまで一度も彼が煙草を吸うところを見たことがなかった章吾は、純粋に驚いて七瀬に声をかけた。

 声をかけられた七瀬の方は、億劫そうに章吾の方を振り向き、声の主を確認した途端、大慌てで煙草を灰皿に押し付け、喫煙所から逃げ出そうとした。

 章吾は傍らをすり抜けようとする幼馴染の腕を掴んで引き止め、半笑いで声をかけた。

 「別に逃げなくてもいいだろ。」

 そう、たしかに逃げる必要なんかなかったはずだ。章吾と七瀬はもう二十歳を超えていたし、なんなら章吾は中学生のころから煙草を吸っていた。

 それなのに、七瀬は見ているこっちが可哀想になるくらい慌ててその場から逃げ出そうとしていた。

 「離せよ。」

 七瀬が言った。章吾は素直に手を離し、灰皿に一歩近づいて煙草の火をつけた。七瀬はその隙に、半ば走るように喫煙所を出ていった。

 そのとき章吾は、七瀬が煙草を吸っていることなんかすぐに忘れた。

 その記憶を今になって思い出すのは……。

 「俺、七瀬のことなにも知らなかったかもしれない。」

 七瀬が死んでしまうまで、どうでもいいものとして片付けてきた記憶が多すぎた。

 本当だったら、いつから煙草を吸い始めたのか、その理由は何だったのか、そしてどうして章吾にそれを隠していたのか、訊くべきだったのだろう。

 「なにもなくても一緒にいられたわけじゃないよ。」

 七瀬によく似た七美の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、章吾はぽつんと言った。

 「一緒にいるために、なにもないような顔をしてただけだ。」

 煙草だけじゃない。リストカットも、歪な恋情も、性欲に負けたみたいな顔をしたセックスも。

 そこにはなにもないような顔をして、遠ざけてきたものたち。

 本当だったら、その一つ一つについて話をするべきだったのだろう。




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