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目を覚ました章吾は、無意識に自分の右側に手を伸ばした。もちろんそこに、七瀬のぬくもりはない。
その事実に、しばし呆然とする。
ショックだったのは、七瀬の体温がなかったことというよりは、自分が手を伸ばしてしまったことそれ自体だ。
この癖は、いつになったらなおるのだろうか。
七瀬と暮らし始めてから今日までと同じ歳月がかかるのだとしたら、三年後か。セックスをし始めたときからだとしたら、6年後か。七瀬と知り合ってからだとしたら、21年後か。
一体、いつになったら。
ベッドの上で、章吾は頭を抱えた。
引っ越そう。
強く思う。
七瀬と選んだものも、七瀬が使ったものも、七瀬にもらったものも、全部置き去りにして引っ越そう。
どうせここの家賃は、章吾一人では払いきれない。もっと狭い部屋をどこかに探さなくてはならない。
「……捨てよう。」
一人の部屋で呟く。
声には返す人などいず、ただ壁に吸い込まれていく。
何もかもを捨てよう。記憶だってきっと捨てられる。記憶を捨てれば、この虚しさだってきっと捨てられるはずだ。
そうでなくては多分、章吾も潰れてしまう。
捨てよう、捨てよう、捨てよう。
口の中で何度も呟きながら、手始めに玄関に立てかけられた折れた傘を手に取る。
半ば無意識に傘を広げると、それはみしみしいいながら歪な形に開いた。
七瀬が折ったビニール傘。
彼の不運の象徴。
さらに言えばその歪さは、二人の関係みたいに見えてきた。
章吾は開いた傘を持ったまま、その場にしゃがみこんだ。
歪だった二人の関係。
七瀬はいつだって章吾だけを見ていてくれたのに、章吾は一度だってその視線を受け止めきれなかった。
『……章吾……?』
章吾を呼ぶ七瀬の声が耳に蘇る。
この声のトーンは、毎朝聞いていたもの。
隣に眠る七瀬の体温を探り当てると、目を覚まさせられた七瀬は特に不満そうでもなく、いつもふわりと章吾を呼んだ。
章吾はいつだって、なんでもない、とか別に、とか、そんな言葉だけ返したか、そうでなければなにも言わずにベッドを降りた。
七瀬はいつもそんな章吾について来た。彼自信は講義もバイトもない朝だとしても。
七瀬。
唇だけで彼の名を呼ぶ。
もちろん、返事はない。
折れた傘をたたみ直し、思う。
やっぱり持っていこう。七瀬と選んだものも、七瀬が使ったものも、七瀬にもらったものも。
だって、結局なにを捨てたって、七瀬の記憶は消えてはくれない。
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