愛じゃなくても

絶対に眠れない、章吾はそう思って布団の中でじっと天井を眺めていた。天井にはへこみがあった。引っ越してきたとき、服をかけるラックを組み立てた七瀬が付けたへこみだ。別にそう巨大なラックを組み立てたわけではないのに、なにがどうなってそんなところをへこませられるのか、章吾にはいまだに分からない。

 そんなことを思い出しながらぼんやりしていると、いつの間にか眠りに落ちていたらしく、七瀬の夢を見た。

 秋の夕方、七瀬がずぶ濡れで家に帰ってくる。

 傘持ってかなかったのか、と驚く章吾に、彼はべきべきに折れたビニール傘を見せた。

 『さっき折れた。30秒くらい前。台風って恐ろしいな。』

 章吾は銀色と透明のぐしゃぐしゃの塊になったビニール傘を見て、腹を抱えて笑った。今日の講義は二人が交代に出てノートを取っているそれで、今日は七瀬の番だったのだ。

 他にも二コマ程授業はあったのだが、章吾は自主休校を決め込んでいた。

 『お前って、雨男だよな。いつも濡れてんじゃん。』

 『ほっとけよ。別に雨男じゃねーし。』

 『そこで待ってろ。タオル持ってくるから。』

 章吾は洗面所からバスタオルを一枚取って、足早に七瀬のもとに届けた。

 その間に七瀬はビニール傘を靴脱ぎの壁に立てかけ、肌にへばりつくTシャツやデニムをはぎ取っていた。

 『ほら。早く拭け。』

 『ん。さんきゅ。』

 すっかり裸になって、青いタオルで白い身体を拭った七瀬が、ちらりと章吾を見やる。

 そんな目を向けられるまでもなく、章吾は七瀬の身体をじっと見ていた。

 ただの性欲だ、という顔をするのは章吾の方で、七瀬の表情はいつももっと切実だった。

 だから章吾はセックスするときいつも、七瀬の顔を見なかった。

 冷え切った七瀬の身体を抱きしめながら、頬と頬とを寄せる。彼の表情が分からないように。

 『章吾、章吾、』

 最中、七瀬はよく章吾の名前を呼んだ。

 章吾はいつも答えなかった。

 求められていることに、罪悪感があった。

 顔を見ないことも、返事をしないことも、七瀬から苦情を受けたことはない。多分、七瀬は章吾の罪悪感に気が付いていた。

 大学三年の秋。つまり、ほんの一週間ほど前の記憶だ。

 雨男と言うのは、今考えたら多分正しくない。七瀬と行った海も、山も、大抵の場合は晴れていた。

 ただ七瀬には、台風の日に休めない講義が重なってしまうような、妙な運の悪さがあったのだ。

 一番運が悪いのは、章吾なんかを好きになったことだとしても。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る