愛じゃなくても
美里
愛しきれないなら、抱くんじゃなかった
喪服の章吾は、葬儀場の喫煙所でじっと一人煙草を咥えていた。煙草には火がついていなかった。そのことに章吾は気が付いていない。
かつかつと、背後からヒールの足音が近づいてくる。
章吾はそれにも振り返らない。
煙草を咥え、両手を喪服のポケットにねじ込み、じっと立っているだけだ。
「……ごめんなさい。」
ヒールの足音がよろけるように止まり、女の声が喉をひくひくと鳴らしながらそう言った。
章吾は背後を振り向くことはやはりせず、ななちゃんのせいじゃないよ、と返した。
「ごめんなさい。」
それでもなお繰り返される女の声は、涙の匂いを多分に含んでいた。
章吾の正面に回り込んだ女が、赤く腫れた章吾の頬に触れる。
「ごめんなさい。」
ごめんなさい、ごめんなさい。
何度も繰り返されるたびに、涙の匂いは濃くなっていく。
章吾は黙って首を振った。悪いのは自分だと分かっていた。
章吾を殴り、葬儀場から追い出したのは、たしかに彼女の父親だ。けれど悪いのは彼女の父ではない。分かっている。
「戻ったほうがいいよ。」
それだけ言って、章吾は女の肩をそっと葬儀場の入口の方へ押しやった。
今日、葬られるのは、彼女の兄だ。
でも……、と、躊躇う女の肩を再度押す。
今は一人になりたかった。
今日、葬られるのは、章吾の恋人だ。
恋人。
その言葉は章吾の頭にしっかりと馴染んではくれない。
七瀬の父親に殴られ、その妹に労られた頬に軽く手を当てると、そこはじんわりを熱を持って腫れている。
「いくらなんでも殴るなんて、ひどい。」
七瀬の妹が、しゃくりあげるような呼吸で涙を抑え込む気配がした。
章吾は黙って首を振り、彼女の背中を葬儀場の入口に向かって強く押した。
一歩よろけた彼女の黒色いローヒールが、ことことと侘しい音をたてる。
そして七美は、章吾を気にする素振りを見せながらも、葬儀場の入口に消えていった。
一人になった章吾は、今まさに棺桶の中で花に囲まれている恋人のことを思い浮かべる。
幼い頃からずっと一緒だった。それがなんでどうなったのか分からないまま、二人の関係性は幼馴染のそれではなくなっていった。
抱くんじゃなかった。
そこでようやく煙草に火がついていないことに気がついた章吾は、眉をしかめて煙草を足元に捨て、靴底で踏みにじった。
愛しきれないのなら、抱くんじゃなかった。
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