Mercury―マーキュリー―

マムシ

1-1 予見

 宗教という曖昧な領域は、人間の脳の産物である。ただそれは固有の生命を持ち、互いに、そして人類とも関係を結ぶ自立的存在に思える。同じことが、人間の手の産物である商品の世界についても言える。――カール・マルクス『資本論』より



 全世界の誰もがその法則を信じ、宇宙の真理を解き明かした万有引力の方程式をいとも簡単に崩壊させたのは、水星の近日点による、ほんの百年に五十秒ほどの差異だった。その科学の絶望は、進化の懸け橋となり、一人の天才を生み出し、相対性理論を構築する。

 まるで人類によって紡がれてきた、ここまでの歴史が万有引力のような、限りなく真実に近い間違いであるように、新時代「Mercury」はその産声を静かに上げた。

 それは人類史に刻まれた争いの歴史の終焉であり、人類種の大きな変革である。


「戦勝パーティはいつ開かれるんです?」


「そんなものはないよ」


「じゃあ俺たちだけで、打ち上げしましょうよ、ユリサキさんもそう思うでしょ?」


 完全自動運転の車の中で、隣に座ったルーミスが食事会の提案を持ち掛けた。


「いや……私は」


「まだ戦いは終わっていない」


 助手席に座っていたシグマ少佐が振り返った。


「少佐はいつだってお堅いんだから、たまには肩の力を抜きましょうよ。ほらユリサキさんも」


「私はあんまりそういった、食事会みたいのは得意じゃないのよ。それによくあんな惨状を見た後で、今夜食べるステーキの話ができるね」


 私の突き放した口調にルーミスは大きなため息をついた。


「別にステーキじゃなくてもいいじゃないですか。俺は仲間との親睦を深めたいんですよ。俺たちこんなにいつも一緒なのに、お互いのことを知らな過ぎます」


 あまりにもしつこく誘ってくるルーミスに見かねたシグマ少佐が、笑みを浮かべ、ある提案をした。


「まぁ一日くらい休暇があるだろ。そのときなら時間も少し取れる」


 そう言うと、私とルーミスの視界の右端に通知が飛んできた。


「え?」


「お前ら二人で飯でも食ってこい」


 それは送金の通知だった。

 社会から紙幣というものが消え去った現在、世界の通貨は統一された。いままで国の信用度を示していた為替相場は消え去り、そもそも国という概念そのものが亡くなったため、通貨はデータとなり、私たちの脳内に埋め込まれたニューロチップの中に記録された。


「マジすか!? 行きましょう、ね、ユリサキさん」


 まるで子供のようにはしゃぐルーミスを横目に、私は苦笑いをした。


「こいつと二人きりとか何かの罰ゲームですか」


「たまには二人だけで楽しんで来い。私がいたら愚痴も言えないだろ」


「やっぱ少佐、分かってますね」


「愚痴を言う気、まんまんじゃない」


「じゃあ俺、そろそろ家近いんで、ここで降りますね」


「ああ、気を付けて帰れよ」


「じゃあユリサキさん、次会うのはビアガーデンですね」


 ルーミスはそう言うと、自動で開いた車から気分よく飛び降りた。


「忘れないでくださいよ」


 ルーフに手をついたルーミスが覗き込むように言った。


「はいはい、わかった、わかった」


 ルーミスは本当に陽気な人間だった。まるで悩みなんて一つもないような、性格だった。いつも笑っていて、私たちが落ち込んでいても、その壁を簡単に乗り越えて、話しかけて来る。なんだかんだこうやって仕事終わりに同じ車を捕まえて、乗り込む仲になったのはルーミスのお陰である。

 あのひどい戦場の中で、精神を保てたのも、あんな楽観的で、向こう見ずな性格にあてられ続けたからだろう。

 だがルーミスが降り、二人取り残された社内の中で、シグマ少佐は唐突に呟いた。


「あいつ自殺するな」

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