karidai
@rabbit090
第1話
*かったるいって、何がかったるいのかはよく分からない。けれどいつもより目は開かず、気持ちも沈んでいる。
そう、目の前には何もない、いつも通り会社へ向かうはずのルーティーンも、それが嫌で吐き気を覚えるような感覚も、何一つない。
「時間、何時かな。」
何かに焦って時計に目を向けると、すでに12:00で昼になっていた。
確かに、瞼はいつもより晴れていて、寝過ぎだなあ、とは感じていたけれど、でも現実が何か、掌の中に無いっていう感じで、でもその寂しさに耐えられない程ではなくって、アタシは少しだけ化粧をして家を出た。
「
「分かりました。」
そう言って彼女は去って行く。
嫌なことなんか何一つない、この会社には内部統制がしっかりと行き届いているというか、いじめとか、そういうくだらないことは一つもなかった。
だから、何が嫌なのかがよく分からない。
けれど、アタシは今猛烈に現実に対して拒絶感を抱いていた。
「それでさ、夫がね、馬鹿なのよ。ハゲになって嫌でしょ?なのに馬鹿みたいにシャンプーたくさん使っててさ、あんた、ボディーソープでいいんじゃないの?とか言ったら、それじゃ落ちない、っていうから。」
「聞いてください、この前彼氏が告白してくれたんです。うれしくって、もうどうしよう。」
いろいろな話があって、アタシはそれをただ聞いていることしかできない。
「桐生さんは何か無かった?」
と散々語りつくした人間は聞いてくるけれど、「ねえよ。」とは言えないからただ薄く笑うことしかできない。
アタシは、中身が空っぽだった。
アタシがしたいことを、何一つしていなかった。
アタシは、何かに縛られているはずなのに、それが何なのか、本当に分からない。分からないから、何もできない。それに、いつも纏っているおもりのようなものが体に沈着していて、外せない。
悪いことなんて何一つない、なのになぜ私は今、不幸なのだろうか。
体中から力が抜けていく。
今日もまた病院へ向かわなくてはならない。
成人するまでは全くの健康体で、それなのに今は会社に行っていることが奇跡であるかのような現実しかなかった。
でも、会社の人間は僕の病気に理解を示してくれるし、それは僕を安らがせた。
はずなのに、ちょっとだけ意味の分からない現実があって、そこに足元をすくわれるような気持になっていた。
仕事は、自社製品を他社に売り込みに行くという、営業の仕事で、それがとても体力を使うものだから、あと精神力も、すり減らしている。
けれど、病気でだから辛いということは無かった。
僕は、なぜ満足できていないのか分からない。
何をすれば満足なのだろうか、それをみんな、何か充実した顔をしている彼らみんなは、知っているというのだろうか。
*大人になれば大丈夫、という言葉を言っている人がいた。
その人は中学生、とかそのくらいの頃からひどく荒れた生活を送っていて、散々暴れていたらしい。しかし、そういう一過性のものはとっとと過ぎていくし、平気になるからお前も大丈夫になるよ、とどこかからの視点から言っていた。
でも、僕は大人になっても病気が治るわけではないし、そんな生易しい、生っちろいものではないし、だから、その時だけは顔をしかめて反論していた。
そして、僕と彼女は出会った。
何か、こういう書き方をするのは変だって、分かっているけれど、彼女も僕も、ちゃんと分っている。一過性なんだってこと、全部、夢幻みたいなもので、そういうものでしかないのだから。
彼女は、僕を殴った。
僕は、それに反抗しない。
それの何がいけないのか、今はもうよく分からない。
思考というのは複雑にできていて、正解とか、無かった。だって、いつもより浅薄な日々の中では、考えるということは、嘘に近いようだったから。
僕は、恋をしない。
したことがない、のではなくて、体に刻まれているからだ。
人と付き合うということは、地獄なのだ、と。
社会に馴染もうとしない、ということで排斥されても、文句は言えなかった。
だって、馴染むつもりなんか無かった、だって、だって僕は、僕は。
「今検査しますからね。」
白衣の天使はいつも微笑んでいて、僕はこっ恥ずかしい気持ちになる。
会社でパソコンばかり叩いていて、それで幸せになれるっていうの?ねえ。そんなことがあるっていうの?ねえ。
僕はだから、彼女らのような、研鑽を毎日積んだうえで笑っているような、徳のある人間を見ると、責められているような気分になってしまう。
十分な職歴すらない、そういう頃に就職した会社では、今までの苦労が嘘であったかのように、体が疲れることもなく、楽だった。
病気があり、大学も中退し、アルバイトをしても体力が持たなくて、地獄のようですらあった。
「いや、まだ通院してもらわないとね。」
「はい、そうですよね。」
「悪いね。」
「いや、そんな全然。」
先生は、昔から僕のことを見ていてくれる。だから小児科医なんだけど、ずっと、昔からずっとであったから、たまに診察を担当してくれる。
僕の体は、この先生によって、切り刻まれてきた。
という言い方には語弊がある、正確には悪い病変をずっと、この先生が処置してくれたのだ、というだけ。
でも幼い僕にとっては、この人は悪魔以外の何者でもなかった。
*そして、
桐生真美と出会ったのはそんな時期だった。
彼女は、いつもよりぼんやりと空を見上げていて、ちょっとはかなそうに笑っていた。そういう部分が、男を惹き付けるのだろう、会社のおじさんから、ちょっとかっこつけてすかした奴まで、みんな彼女のことが好きなのだった。
桐生さんは、中途で入社してきたもう結構年上の女性であった。
もう結構、年上。
何かそういう書き方をしているとおばさん、って安易に罵っている様な気さえするけれど、はっきり言っておくよ、それは違う。
僕は、彼女のことが好きではなかったし、むしろ嫌いであった。
だから、当たり前のような顔をして笑っているのも気に食わなかったし、嫌だった。
「久米さんは、アタシのこと避けてる。」
だから、飲み会の帰りにそう言われた時にはどきりとしてしまった。
バレてる、と内心ひどく焦っていた。
しかし、でも焦りはあまりなかった。
だって、僕は特に桐生真美が好きではなかったし、だから周りの男たちも僕が桐生真美と話そうと何しようと気に留めてすらいなかった。
僕のことを、どうやら当たり前のように恋人もいない、寂しい奴って、決めつけているから。
「避けてません、何でそう思うんですか?」
だから僕は不遜でいられたし、彼女はそれにひるむこともなかった。
でも唯一無二の関係ってそうやって築かれるんだよねって、私なんかは思ってた。
本当に思ってた。
もう訳が分からなかった、全部分からなかった。
どうでも良かった、だから僕は、彼女を殺した。
最低な人間なのだ。
「ねえ久米さん、顔色悪くない?」
「ああ、疲れてるからね。」
「でもさ、変だよ。何か真っ青っていうか、本当、見たことないくらいひどくなってる。体調悪いの?平気?」
「平気です。」
桐生真美は覗き込むようにしてそう言った。
彼女が会社に表れてから、会社が、人々が、何か色めきだっていた。
もともと、男ばかりの採用だったのに、(そりゃあ、商社だから。)でもさ、そんなことより何より、全然良くないよ。
全く良くないよ、本当に良くないの。
「まあ、そういう事だから放っといてもらえません?」
「ダメよ。」
きっぱりとそう言う根拠が分からなかったが、彼女は言い切った。
「病院、行きなさい。」
ち、年も一切しか離れていないのに、うるせえんだよ。
お前の世界でしゃべるな、お前のスケールで人を測るな、とか、何か心の中でいろいろ毒づいていたと思う。だってさ、いつもより大変だったんだぜ?だってさ、辛いじゃん、ホント。
体からおっしゃる通り汗が噴き出して、でも寝れば平気だから、あと少し終業まで待てば何とかなる問題なのだ、と自分に言い聞かせていた。
*狭い世界に住んでいる。
そんなことは最初から分かり切っていた。
けれど、僕はいつまでも期待していたのだと思う。こんな、昔からいつ死ぬか分からないような状況の中で、何か快楽的な幸せが降ってくるのではないかって、望んでた。
切望してた、と言っても過言ではない。
いつもより、悔しく、悲しく、儚かった。
僕は、いつもは呑まない酒を大量にあおって、倒れていた。
「起きた?あなた馬鹿ね。」
「…ああ、ああ?」
「はは、言葉もしっかり出ないくらい、朦朧としていたのね。だって、みんな困ってたわよ。一人何も話さないで飲んでばっかり、変じゃない。でも誰もあなたのこと、そこまで深く気にしてなかったみたいだから。ごめんね、こんないい方したら悪いけど、あなた会社で親しい人いないでしょ。」
「へ、あ、はい。」
ようやく思考が戻ってきた、という感じであって、僕は自分が非難されているということに、少しずつ腹を立て始めていた。
「全くねえ、そうよね。」
「そうって何ですか?」
「…もう、何怒ってるのよ。だから、あなたが親しい人もいない場所で、馬鹿みたいの飲むから、でも介抱する人もいなくて、大変だったんでしょ?で、仕方なくアタシが女だったから、世話したの。」
「あ、ならありがとうございます。」
僕は、何だか恥ずかしくなっていた。なんかもう、消えてしまいたいっていうか。
嫌すぎる、と思っていた。
いつもより、本当に嫌だった。
嫌で嫌で仕方がなかった。
心地よさよりも、ありったけに傷つけられてしまえば、楽だったのに、彼女はそうしなかった。
「はい、買ってきたから。」
見ると、おかゆとか、ガサっと体によさそうなものが入っている。
だから、「お金払います。待っててください。」そう言って、立ち上がろうとしたけれど、何度も転んで、起き上がれなくて。
「もういいわよ。別に、私あなたより年上なんだから、気にしないで。年取るって大変なのよ?楽になる、っていう事でもあるんだけど。」
「すみません。」
「分かったから、寝なさい。」
それだけ言って、彼女は帰った。
僕は、何か、変な気持ちになりながら、寝床へと向かう。
僕は、いつもより弱くなっていた、弱く、弱く、弱く。
明日、会社がないということに気付いて、少しだけほっとする。
家族も、親も兄弟もみんな死んでしまった僕からすれば、世界なんて甘くてくだらなくてどうでもいいもので、でも死ぬことだけができなくて、苦しいものでもあって。
すうっと、眠りに入った瞬間を、僕は見ていたような気がしている。
*気持ちはいつも前を向いている。
そんな風な心地になれたことがここしばらく存在していない。
しばらく会社を休むことになった。
社長の好意と、あと僕が申告していた昔からの持病が悪化したから、という理由を理解してもらっていたため、特に今後に響くこともなく休めることになった。
僕は、恨めしくなる。
今、また一人でとこに臥せっている。
ちょっと前までは母さんが生きていて、僕は一人で何かをしなくてはいけないということがなかった。だから、不安なんてなかったし、怖いこともそんなには無かった。
けれど、たった一人でこんな風に横たわっていると、途端に叫び出したくなり、仕方がないから今制作しているプログラミングを作成することに精を出している。
これをしていれば、自分が何者かだなんて面倒くさいことを、考える必要がなくなったからでもあった。
毎日、休みの日でも8時間、机に向き合うことを欠かさない。
学生時代はそんなことに意味を持てなかったし、集中もできなかったのだが、今は会社で勤めているからそんなに苦ではないし、むしろ生活が安定していいものだ、とすら思えてくる。
はあ、何だってこんなに、もう会社になんて行く必要ないでしょ?
とか、常にだれかのせいにしようと画策している自分に気付いて、気持が悪くなる。
僕は、誰かのせいで、ではなくてただ単純に、見えない何かが恐ろしかった。
だから、そんな輪の中に彼女が無粋に侵入してきたことには、心底驚いてしまった。
安定していたはずの生活は乱れ、僕はまた不安定を取り戻していた。
おかしな話だと、笑われたって仕方がない。
けれど、彼女は言った。
「良くないよ。」
「何が?」
思わず聞き返していた。
だって、本当に何が?
悪いっていうのか。
「誰も来てくれないの?君、真っ青だし、手すりにつかまってるけど、外も歩けないくらいなんだね。知らなかったよ。」
そうだ、確かにそうだ。机の前に座っていることはできるが、だが立ち歩くとすぐにダウンしてしまう。僕はもう、まともな社会生活を送れる状態ではなかった。
常はこういう状態が一過性で過ぎて行っていたから、今回もそうだろう、と毎回確信の持てないまま祈るように暮らしているせいか、表情までおかしくなっていたのかもしれない。
桐生真美は、何か変なものでも見たかのような顔で、笑っていた。
「まあ、分かった。しばらくはアタシ来るから。家族いないなんて、会社の皆に言いなよ、きっと助けてくれるよ。」
「ええ?ああ、はい。」
「うん分かってるから、寝なさい。」
桐生真美は母親ぶって、僕にそう告げた。
しかし、現実として母が死んでからこの状態になったのは初めてのことで、あまりにも何もできなくて困惑していたからすごく助かっていたのも事実だった。
僕は桐生真美に対して良感情を抱いていない、けれど実際問題として助かってしまっていて、それを利用しているかのような感情を持っていて、苦しかった。
*「じゃあ、帰るから。なんかあったら連絡して。」
うんとかはいとか、とにかく適当な返事を返して終わったような気がする。
しばらくして、少しだけ起き上がることができたから、僕はパソコンを開いて地図を見た。
こういう、胡散臭い気分の時は、旅行へ行くのが一番で、でも今はいつ回復するかもわからないどん底の底で、でもいいや、と思えている。
もし、の話でいいのだ。
もし、治ったらどこへ行こうか、その前提て話を進めたいから。
「良かったね。」
「はい、この前はどうも。」
「いいの、何か良いことした気分になれて、アタシも気持ちがすっとするし。」
「はは。」
桐生真美は会社に復帰した僕を見てそう言った。
彼女から見れば僕は子供のようで、いくらでも甘えていいという対象なのかもしれない。
そして、母親を亡くしたばかり、そしていつ来るかも分からない持病を持っている僕からすれば、そういう存在はどうしても、頼ってしまうという風に、傾倒してしまうのだ。
「こんなの、おかしいって。」
「何が、おかしいの。」
「いやさ、この前会社で嫌なことあって、本当どうでもいいんだけど、アタシは彼女のこと、嫌いなんだ。」
「ああ、大沢さん?」
「うん、何かね。すごく勝手なの。アタシ、嫌になっちゃって。でもさ、何かそういうこと考えんのも嫌なの。すごく嫌なの、いつも嫌なの。かきむしりたい程、ホントそう。」
「はは、それすごいね。何が、嫌やがらせでもされたの?」
「そうよ!この前なんて、必要な書類渡さないで、アタシ残業したんだからね。」
「それは大変だね。」
「うん、大変。」
「…でもね。アタシは別にそうは言っても、あんまり気にしてないんだ。」
「何で?」
「アタシ、してることあるから。こういう、会社みたいな、そりゃ仕事ってありがたいよ。本当にありがたいの。でもね、そういう所とは別に、アタシはアタシのしたいことを毎日欠かさない。そうすることで、いろいろなことが平気になるのね。」
「ふーん…。」
ちょっと言っている意味が分からなかった、が彼女としてはそうなのだ、ということで僕は納得した。
桐生真美は独特の輝きを放っていて、奇妙だった。
だから、男が自然と寄ってくるのだし、でも僕は彼女を好きになることは無かった。
「で、旅行か。」
「…いいの?アタシも来て。」
「来たいって言ったのそっちだろ?まあいいや、後ろ乗ってよ。」
「ええ、怖い。ホントに平気?」
じゃあ乗るなよ、と罵倒したかったが黙り込む、集中しなくては、心が荒れていてはいい運転はできないし、何より疲れてしまうから。
*「笑わせないで。」
そう言ったのは確かに耳に聞こえてきた。
しかし、うまく意味が理解できなかった。どう、彼女はいったい何を言っているのだろう。分からない、分からなかった。だから、僕は黙って、ちょっと困惑した顔を浮かべながら彼女の顔を伺った。
彼女は、なのに、泣いていた。
何で、かは分からない。
僕は何一つ分かっていない、理解することすら難しい。訳が分からないまま日々が過ぎて行って、心がぽとりと折れそうになっている。
せっかくツーリングに連れてきてやったっていうのに、僕は山の中の小さなベンチに座って、彼女の存在を感じないように目を閉じた。
「君のそういう所、悪いよ。」
彼女は、泣きながらそう言った。
「アタシは、バイクなんて乗ったことなかったの。でも、乗せてもらったら好きになってしまった。こんなに、自由なことなんてあるんだって、思ってしまった。」
「え?」
何か急にセンチメンタルなことを涙声で語りだすから、動揺している。何だ、何がこの女をこんなに感情フルな心地にさせているのか、理解できなかった。
昔から、人間が分からなかった。なぜ泣いているのか、なぜこんなくだらないことで興奮しているのか、分からなくてむしろ僕の方が教えて欲しいくらいだった。
日々、辞めたいことばかりが溢れていて、心がざわついた。
「ごめん何か、最近辛くて。」
ドラマみたいなセリフを、恥ずかしげもなく口にする。
しかし、ドラマは好きだ、あの虚構の世界は僕に多くの刺激を与えてくれる。
とてもありがたかった。
それに、彼女は顔も可愛かったから、何かそういう事をしていても許されているような感じがあって、何か、もうどうでも良くなっていた。だから、
「行こうか。」
「うん。」
と話し合って、その場を後にした。
思えば、この時にこんな空間を共有していなければ、あんな惨劇は引き起こされなかったのかもしれない。
だって、そうだろ?
「そうだよ。」
彼女なら、笑ってそう言ったのだろうか。
僕はまた、なのにこの場所を再び訪れて、笑うことすらできずにいる。
口が
「ああ、桐生君が話があるそうだ。」
課長は、もったいぶってそう言った。
部長は、今うつ病で休職している。
心から笑える日なんて来るはずもなさそうだった。何か、ぐちゃぐちゃっていうか、僕をこの奈落に突き落とした人間に、鉄槌を下したい。
とか、何か、思考が乱れているよね。
僕は、自分の異常をこの時までは自覚していた。
が、この後のことは正直、客観的に捉えられない。今でも、なぜそのような見方で生きていたのか、理解することはできていない。
*しかし、後々に起こったことはすべて、僕がやらかした以外の、何物でもなかった。だから、だから、どうしようもなくて、恐ろしいのだ。
部長の代わりに、課長が代理で部を取り仕切っているが、あまりうまく機能してはいない。短絡的な人間で、苦労とか、そういうものとは無縁だと言っても良かった、そんな人間であったからあまり人望がなく、部内は少しずつ荒れ始めていた。
そもそも、前の課長が移動になったのも、この部署の仕事に馴染めなかったからで、僕らみたいな下っ端はまだいいけれど、とにかくお客様からも上役からも、プレッシャーのかけ方がすごく、間に挟まれた中間管理職である彼らは、壊れていく。
そして、なんとそんな中で、彼女が、桐生真美が部長へと昇進した。
まだ若いんじゃないの、という声があったが、経営が弱ってきていて、外資の手がもうズブリと深く入っていることもあり、若さはむしろ歓迎された。
年寄りより、動ける人間が良い、というのが判断だったから。
「よろしくお願いします。」
いつもは明るい彼女にしては珍しく何か、捨てたようなっていうか、そういう感じで話すから、僕は少しだけ変な気持ちになっていた。
きっぱりとそう言った彼女はすぐに部内の人間に指示を出し、何か苦虫を噛みしめたような顔をしている課長に淡々と指示を出していた。
「よろしくお願いします。」
僕はみんなと一緒に、小さな声でそう呟いた。
昇進してからというもの、彼女は男性からちやほやされていた感じとは異なり、少しだけ疎まれるようになっていた。そして、一緒にツーリングに行ったことなんか忘れたかのように、彼女は僕に話しかけなくなっていた。
何か冷徹っていうか、そういう感じがあって、勝手だなあ、とか思ったりしたけれど、同僚の話によると、すごく大変なのだという。
とてもとても、家族もいない若い人なんかに務まる職種ではないという事だった。
「………。」
忙しく立ち働く彼女の顔を見ながら、僕はふと思う。
彼女は無理をしているのではないかって、そんなことを思っていた。
冷徹な横顔はやっぱり美しく、可愛いと言ってもいい程だった。
僕は、大人しく彼女に話しかけて、声を聴きたかった。
そういう思いが、どんどん歪んでいったのかもしれない。
気付いたら僕は、なぜか彼女のことばかりを考えていた。
でもそれは、好きとは異なる感情であって、それは、それだけははっきりとしていて、だから僕はより一層、頭をもたげることになってしまったのだ。
*「何で桐生なんだよ。」
そういう声がそこかしこからあふれるようになっていた、僕はそれに気づかないふりをし続け、居心地が悪かった。
分かっている、桐生真美は嫉まれているのだ。男どもから、家庭を担っていて、何かよく分からないものから逃げることなどできない彼等に、嫌われてしまった。
ほんのちょっと前はむしろ歓迎されていた桐生真美に対する感情は、冷たいものに取った変わられていた。
「あの、大丈夫ですか?」
「僕は、そう声をかけた。」
まず確実に僕は桐生真美に対して恩を持っているから、大丈夫だ、と感じていた。
大丈夫、まだ大丈夫、そう思っていないとみていられない程、彼女は衰弱していた。
強い人だって、いつかは弱くなる。
それは仕方がないことなのだし、でも管理職となって部下から邪険にれている、それはとてもつらいことなのではないか。
そう思う僕は彼女の目だけを見た、彼女の本来は優しさに満ちている目だけを、見つめた。
「なあ、辞めてもいいんじゃないの?」
「え?」
コーヒーを啜りながら彼女はそう呟いた。
僕は、でもそんな反応になることには構わなかった。
壊されるくらいなら、逃げればいい。そんなこと、みんな分かってしかるべきなんだ。
「だって、桐生さんくらいだったら、破格の待遇でキャリア詰めるでしょ、ほかの会社から誘いとかないの?」
「…あるけど。」
彼女は控えめにそう言った。
まあなあ、そうだろう、と思った。しかし誘いがあれば自分の市場価値が高いと認識できるのだし、だったら、なぜ?
こんなところに居座り続けるのか、教えろよ。
「アタシは、さ。仲間が欲しいの。仲間、ずっと一緒に仕事をしていく仲間に、出会いたいの。」
「はあ?」
そんなの、ほかで見つければいいではないか、でも違うのか?彼女はとても、遠くを見つめているような顔をしていた。
「うん、変だよね。でもね、私ね。怖いの。何か、転職なんて大それたことすると、足元救われるっていうか、昔からそういう風に思っていたの。変な考え、ってことだけは分かっているよ。うん。」
「それ…。」
僕は、動揺していた。
桐生真美って、ちょっと変わったやつだなって思っていたけれど、本当に変な奴なのかもしれない。
それは、さっきから話している内容ではなく、今の彼女からむき出しになって溢れている、悲しさのせいなのだった。
虚しい、といった方がいいのかもしれない。
何か、空っぽの箱のような、重みのない存在。
それが、あんたなワケないって、言いたかったけれど、僕はそれを器用に否定する言葉を持っていなかった。
*桐生真美はいったい何に対していそんなに苦しんでいるというのだろうか。
何か、きっと誰にも知られてはいけないことがあって、それが彼女を魅力的に見せてもいたし、また苦しげでとっつきどころが無いようにもしていたのだと思う。
「………。」
僕は口を開きかけたが、やめてしまった。ただ単純にためらわれたのだ。
そうか、そうだ。
彼女にたいして関心を持っている理由はきっとこれなのだろう。
だから、もういいや。
全部、もういいや。
僕は黙ってその場を離れた、何ていうかこういう所が冷徹なのだと誰かに言われたことがあったのを、ふと思い出した。
そして、事件の日が来てしまった。
事件、というか。
最悪の結末になってしまうのだろうか、という予感は全くなく、僕はおろかでただ、意味の分からない行動に走ってしまう突発性を持っている、馬鹿野郎でしかなかったのだと、その時に知った。
「ねえ、桐生さん。行こうよ。」
「え、まあいいけど。」
その時の僕と桐生真美との関係は、そうだな。ちょっとだけ不謹慎だったのかもしれない、ていうか、何度も言うけれど、僕は桐生真美のことなんか好きではなかった。
やっぱり、でも僕は一度彼女と夜を共にしたことをきっかけに、何度も逢瀬を重ねることになった。
僕らは、相性が良かったのだと思う。
「乗って。」
「うん。」
彼女を後ろに乗せて、バイクを走らせる。
目が見えなくなったって、いいのだ。僕は多分ずっと、もう平気だから。
「ねえ、バイク、そろそろ乗れなくなるんでしょ?」
「…うんまあ。」
「じゃあその前に、アタシのこと、殺してよ。」
「え?」
答えられなかった、ミラー越しに見る彼女の顔はヘルメットをかぶっているせいでよく見えなくて、イライラと、じりじりとした気分を、解消できなかった。
焦って、バイクを止めて彼女の方を向こうとしたけれど、止めないで、と叫ばれてしまった。
全く、こんな気持ちで運転などできない。
しかし、道は続いていて、彼女がそれを望んでいた。
ちょうどいいところで止まれた、と思った。しかし、彼女はそれよりなにより、馬鹿らしく笑っていた。
その顔は、彼女のことが好きではない僕でさえ、何かドキリとさせてしまえる程の威力を持っていた。
「ごめん、運転中にいう事じゃないと思ったんだけれど、でもね。あのね。」
言葉の代わりに彼女は泣きだした。
僕らは、でもそれを慰め合うような関係ではなかったから、彼女の涙を拭う、なんてことはしなかった。
そして、彼女もそれを望んではいないようで、僕はただ黙って、それを見ていた。
*別にもうよかった、何か全部がもうどうでも良くて、くだらなくて叫び出したかった。
「殺して欲しいななんて言うなよ、ホント勝手だよな。あんた、何なんだよ。俺のことなんだと思ってんだよ、便利かよ、いい加減にしろよ。自分のことなんだから、自分で勝手にしろよ、子供じゃないんだろ、なあ。」
「…ごめん。」
僕は端的に言って憤っていた。ふざけるなと罵ってしまいたかった。
全く、何言ってんだよ、こいつ。
いい加減にしろよな、ホント、ふざけんなよ。
僕はこんなくだらないことに付き合うつもりはなかった、だから彼女をここに置いたまま帰ってしまおうとすら思っていたが、それはできなかった。さすがに、こんな山の中に放っぽって帰れるほど、残酷にはなれなかった。
だから黙ってしまった彼女を後ろに乗せて、僕はバイクを走らせる。
しかし、彼女はそれ以来何も話さなくなってしまった。
やっと帰路につけると思っていたのに、彼女は結局、決めてしまったらしい。
何も話すことのない沈黙がより一層彼女の決断を強くしていたらしい、そしてそれは僕にとってはどうすることもできない最悪の結末になってしまって、今では後悔の念しか残っていない。
僕はやっぱり彼女に死んでほしくなかったのだ。
生きて、笑っていて欲しかった。
そして、僕はやっぱり彼女のことが好きだったのだと、その時に知ってしまった。
「ごめんね。」
そう言い残して、彼女は道路へと打ち付けられてしまった。
ドズンというおよそ現実には似つかわしくないのだと思ってしまう程の重量音が響いた。
僕は、しばらくしてからバイクを止め、のろりと後ろを振り返った。
そこには救うことのできなかった、女の姿が横たわっていた。
僕は、何か、そう、心がごろりと壊れていく音を、聞いたような気がしていた。
[桐生真美]
昔から好かれなかったが、実際のところその他大勢の人にはしつこいくらい好かれていたと言っても過言ではないのかもしれない。
じゃあ、誰に?
アタシはいったい誰に好かれなかったというのだろうか。
教えて欲しい、とは言えなかった。
気味の悪さが増幅していた。
しかし、嫌だとは言えなかった。だって、お母さんもお父さんも、すでに死んでしまっているから、恨むことなどできない。
あんな、哀れで可哀想な人たちを恨むだなんて馬鹿らしい、だって、だってさ、二人とも一緒に死んでしまったから。
心中だなんて、何やってんだって、けなしたくなるよ。
だから、アタシは何か、そういう部分に欠陥を抱いていて、そういう所が人を苦しめているのかもしれない。
今となっては、それだけが真実であるような気さえして、くだらなく、たまらなく虚しくて仕方がなかった。
*「真美、いる?」
「いるけど、何。今暇じゃないからできれば後にしてよ。」
アタシはとても焦っていた、なんていうか、なんてことないことばっかりだったのに、そういう全てがアタシをとても、苛立たせていた。
「じゃあいいよ、また後でね。」
そう言って、
アタシは内心とても憤っていた、だってさ、建都は別に仕事もないし暇だからいいけれど、アタシにはやることが死ぬ程あって、嫌だったの、ホント。
両親が死んでから、アタシはずっと一人だった。本当に一人であり続けるしかなかった、だから、本当はこんなアタシにかまってくれる建都の存在はとてもありがたかったはずなのに、アタシはそれらすべてを拒絶していた。
「真美、真美。」
そう言って近づいてきたのは幼い建都だった。
建都は、アタシと同い年のくせに幼く、だから守ってやらなくてはいけないのだとどこかで思っていた。
「真美…。」
そう、死にそうな顔でアタシを見ていたのは紛れもなく建都なのであって、アタシはその頃家族を失っていた。家族を失ったアタシには味方がおらず、正直建都いがいとまともに口をきいた記憶が一切ない。
あたしはそれから、大人になった。
そして、建都はなぜか、大人になれなかった。
いや、年齢的にはしっかり大人なんだけど、でも、彼は仕事を見つけず、ぶらぶらと歩き回っていた。
それに、危機感を覚えることもなく、ぼんやりとしていることが多かったように思う。
「何、言ってんのよ。」
それが決まり決まったセリフの結実であることは分かり切っていた。
後少しだけ耐えれば、お金がもらえたというのに、建都は何にも活力を見出すことができず、無気力であった。
本当は、アタシは建都にはしっかりと働いてほしかった、アタシは、建都は優しい奴だって知ってるんだから、だからより一層、なんとか、何とかしたいと強く思っていた。
「ごめん、また辞めた。」
「そう。」
アタシは残念な感じを隠すことが無いように、強気を装った。
だって、そうしないと建都は気づいてくれないんじゃないの?と思っていたから、でも、思い返してみれば、建都は人から嫌われるようなタイプではない、なのに、なぜだろう。いったいなぜ?なぜ彼は、いつまで経っても定職に就くことができないのだろう。
建都は家族と折り合いが悪く、よくアタシの家に泊まりに来ていて、アタシも一人で苦しかったからそれを歓迎した。
そして、大人になってから、アタシ達はとくに名前など無かった関係を、壊して一緒に暮らすことを選んだ。
それって、どうなの?ホント、どうなの?
ねえ、建都は、どう思っていたのだろう。
アタシは、死に取り憑かれていた、何ていうか、だからまた身近な人間が死んでしまうという現実に、少しだけ耐えきれないものがあって、その時に全てが壊れてしまったということは、否めない。
*そう言われたら確かに、確かにそうなのかもしれない。
アタシも建都も、どこかがおかしかったのに違いない。だって、建都はもういなくなってしまっていて、アタシは今世界の中でたった一人だったのだから。
「建都がいなくなったって本当?」
「そうよ、何?真美も知らないの?」
同級生は、建都の母から頼まれてあいつを探すために真美のところへ来たのだという。正直、建都の母親はアタシのことを嫌っていた。話を聞いたことは無いけれど、建都はアタシを自分の家へは呼ばなかった。
なぜなら、母親が激しい拒絶感を抱いているから、それは、間違いなのだろうか、分からなかった。けれど、避けられているのならば、無理にこじ開ける必要もないのだから、アタシは建都の家族のことを本当はよく知らなかった。
「建都が仕事してないのは知ってるでしょ?」
「そりゃ有名な話だもん、知ってる。」
「でね、あいつすごく気にしてたみたいで、そのせいでいなくなったんじゃない?嫌になって。」
「そんなこと、そんな子供みたいなこと、ある?」
冗談めかしてそう聞かれても、アタシは無いとは言い切れなかった。建都は、とても弱い人間だった、弱くて、脆くてどうしようもなくて。
いいや、何かくだらないことなんて、おんぶにだっこなんて、いらないよね。
不良在庫だって言われたんなら、仕方ないよね。
建都は、よくそんなことを口走っていたなとぼんやり思い浮かぶ
それは、とても悲しいことのように思われた。だって、なぜあんなに寂しく苦しい人間が、社会で嫌な思いをしながら生きなければならないのか、ちょっと少しも、分からなかった。
「…でも、一番怖いのはあいつ死んでるかもしれないってことなんだって。」
「え?」
え?何だって、建都が死んでるかもしれないって、そんなこと、無いでしょ。
だって、あいつだって一人きりだけど、アタシはもっと一人きりなのだから、中途半端に苦しむすべてが、無駄だったかのような、そんな苦しいことはいらなかったのではないかと、疑いたくなる。
でも、なぜ本当に、建都はいったいどこに、行ってしまったのだろうか。
アタシは、日常が恐ろしかった。
何かが欠けていても、前向きに進むしかない現実、何か、アタシとは違うベクトルで進んでいく現実、それが、とても耐えられるものではなくなっていた。
*だから、アタシは現実を極力目に入れないように努めた、見なければ平気なのだ、見えなければ何も間違ったことになどならないはずで、大丈夫なのだと言い聞かせていた。
アタシは、そのころから自分に中におかしなものが芽生えていることを自覚していた。
それを、どう扱えばいいのか、いまいち分かっていなかった。
「ねえアタシどうすればいいの?建都、教えてよ。」
切実さがこもっていたのだと思う、その願いは、叶えられてしまったのだから。
僕はただぼんやりと思い出している。
桐生真美が生きていた頃のことを、たった一人きりで。
「まさかお前と桐生が交友があったなんて、知らなかったよ。」
「まあな。」
こいつは、桐生真美のことが好きだと公言していたお調子者だ、しかし今は妻帯者だし子供までいる。
子供っぽいような人間の方が、すぐに大人になることができるのはなぜだろう。
僕は、見つめながら何かの真実を探っていた。
「いや、バイクから落ちたなんて、知らなかったから。それに桐生さんのキャラにも合わないだろう。」
「でも彼女は乗るのが好きだったんだ、乗せてくれって、よく言われたよ。」
「へえ…。」
彼は、何かいぶかしがるような、そして笑いをこらえたような顔をしていた。
「それって、お前やっぱり桐生さんのこと好きだったんだろう。」
「は?」
僕は極めて不快であるという表情を崩すことは無かった。ただ、バレるわけにはいかなかった。桐生真美が、きっとぼくのことが何か特別だったなんて、思うはずがなかった。
それはずっと一緒にいたからわかるのだ。
彼女は、いつもどこか遠くに心があって、現実には即していなかったように思う。
それとは対照的に、僕なんかは人との関係だって、夢幻のような執着は抱いていなかった、なぜなら、僕はもう知っていたから。
人との関係なんて、無くなってしまって当たり前なんだってこと。
永遠が欲しいと嘆く人は、きっと何かを履き違えているのだと、知っていた。
どうしようもできない現実を前に、心がどんよりと曇っていくのを感じる。
どうすれば、救われるのかもうよく分からなかった。
ああめんどくさい、何かもう全部がめんどくさくて仕方がなかった。
僕は、だからその場をきちんと片付けて外へと出た。
「ああ、何だよ。」
涙がこぼれてくる。
こうやってバイクに乗っていると、一人で感傷にふけることを許されているような気持ちになる。
特別って何?それは、僕自身に対する問いかけだったのかもしれない。
*いったん、山の中から市街地へと出ることができたので、僕は手近なファミレスに入り、いつもの料理を注文していた。
それでお腹が満たったから、僕はまたエンジンを始動させ深い山の中へと潜っていく。それは、嘘のような本当の話だったように思えている。
僕はまだ彼女が死んでしまったことを受け入れることができずにいる。
なぜ悲しいのか、分からない。
けれど、ぼとりと落ちるように流れる涙は僕を人間らしくしているような気がした。
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karidai @rabbit090
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