火星、マリネリスの蛙

宇部詠一

火星、マリネリスのカエル

「カエルの鳴き声が聞きたいな、熊澤君」

 亡くなる前に亀田の爺さんはつぶやいた。だから僕は3Dプリンタで作られた網と虫かごを持って公園まで行った。

 当時僕はまだ七歳で、火星生まれの最初の世代だった。残念ながら火星で最初に生まれた人間じゃないが、それに近い。そして、マリネリス峡谷にあるこの基地も火星で最も古い。

 一方の亀田の爺さんはなんと昭和生まれ、ナノマシン治療もあって世界最高齢に手が届く。ほとんど身動きはできないが頭ははっきりしており、介護ロボットの助けもあって、様々な研究のアドバイスをしながら暮らしていた。でも、友達の少なかった僕にとっては楽しい話し相手だった。

 カエルの声が聞きたいと言っていた頃にはすっかり弱っており、さすがに公園にまで行く気力もなくなっていた。

 この火星基地はいくつものドームがつながっており、その中でも一般市民が立ち入れる中では最大級のものが公園だ。農園ほどではないが、地球から持ち込まれたいろいろな動植物がいる。東京ドームの何倍もの広さだと亀田の爺さんはよく例えるが、あいにく僕は野球をやったことがない。ここでは重力が違うから記録を比べられないのだ。

 扉を開くと緑が広がっている。公園だ。そこではトンボが舞い、アメンボが滑り、それからカエルが泳いでいる。僕は逃げるカエルを網ですくっては虫かごに入れてやり、爺さんのところに連れて行く。途中で基地のAIに足が濡れていることを叱られたが、僕は無視した。爺さんのところに一刻も早くカエルを届けたかった。


 カエルを入れた虫かごを机に置くと、亀田の爺さんは喜んでくれた。捕まえてきたアマガエルはそれほどやる気がなく、一回か二回ほど鳴いてからはだんまりを決め込んでいた。それでも亀田の爺さんは嬉しそうだった。

「ねえ、爺さんの子どものころには近所にカエルはたくさんいた?」

「あまりいなかったな」

「どうして? 家の側には畑や田んぼはなかったの? うるさいって聞くけれど」

「なかったね。私の家は都会のニュータウンだったから。ニュータウンていうのは……」

「うん、授業で習ったよ」

 僕は話が脱線しそうだったからごまかした。

「それより、都会に住んでいたなら、カエルはどこにいたの?」」

「ニュータウンの公園の噴水にね。本当はいるはずもないのに、誰かが持ち込んだんだろう。ある年の夏にずっと鳴いていたよ。都会の真ん中なのに鳴き声が聞こえると、川沿いの宿に泊まったみたいで穏やかな気持ちになったものだ。……残念ながら次の年にはもう聞こえなくなってしまったけどね」

「ふーん」

 カエルがまた一回ゲコゲコ鳴いた。


 爺さんは間もなく亡くなってしまったから、僕は自然と同じ年ごろの子供たちと遊ぶようになったのだけれど、大きくなるにつれて亀田の爺さんがすごい人だってわかるようになった。というか、この火星基地の設計のかなり深いとこまでかかわっていた。

 今の何倍もの人口を支えられるだけの食料を生み出す農場や、海洋生物の育つ巨大水槽、あらゆる物質の効率的な循環、亀田の爺さんがかかわっていないことはなかった。爺さんも火葬されて、この基地の空気や水や土になってめぐっている。

 そのせいだろうか、僕も自然と同じ学者を目指すようになった。……と言っても、皮肉な見方をすればそれ以外の道は少なかった。仕事は基地の整備をするエンジニアか、火星の岩石を調べる学者か、薄い大気の下で星を眺める天文学者。あとは公務員的な、住民のIDの発行だとか予算管理だとか。あとは教師。残念ながら専業の作家やゲームクリエイターはまだいない。

「ねえ熊澤、他のことがしたいなら、地球に引っ越したら?」

 学生時代、将来何をしたいか態度をはっきりさせていなかった僕は、杉下によく問われた。やる気なさげに僕はつぶやく。

「地球か……。引っ越し代が将来の年収の何倍になるんだろうな……」

 火星がほぼ自給自足なのは地球からの燃料代が馬鹿げているほど高いからで、それは人間を運ぶときも同じだ。それに、火星生まれは必然的に有名人だ。僕は人前に立つよりも、じっくり研究がしたい。

「向こうに行ったら大騒ぎだろうね。火星生まれが地球に行ったことはまだないし」

「静かに暮らしたいんだけどな」

「チャンスだよ、それでお金を稼いで帰りの旅行代も稼げるだろうし」

「何をすればいい? アイドルか配信者になれと?」

 そもそも僕は爺さんのように学者になりたいのは決まっている。何を学べばいいのかがわからないだけだ。そういうと杉下は笑った。

「優秀な君の、贅沢な悩みだよ」


 目立つのは嫌いだと言ったが、火星生まれの第一世代として、広報をやることも多々ある。それこそ亀田の爺さんの設計したシステムの紹介だとか、火星基地で生きる生き物の生態だとか。重力が低い中では生き物はどんな反応をするか。カエルは地球と比べて不器用に飛んでいるところを見せる。こういうときには地球と火星の距離がありがたい。聴衆の反応がない分、好きなようにしゃべれる。ヤジが飛んでくるとしても地球と火星の最接近時で数分かかる。

「学者になって一人で研究したい割には、ちゃんとこういう仕事もやるんだね」

 杉下は笑っている。なんだかこいつはいつも笑っているなと僕はと思った。火星基地では次々に僕らの次の世代が育っていた。僕も含め、彼らは皆が研究者や技術者の子孫で、だからみんな優秀だという説がある。現に、そのおかげか僕は飛び級ができた。ただ、まだ何を学びたいかわからないままだった。まずはいろんな知識を吸収しようとしていたら、結果的に知識の中で迷子になってしまった。だから褒められてもむなしかった。目標がないのだ。

「相変わらず何をやったらいいかわからない?」

「うん」

「それで忠実にレポートを書いているのか。他の連中よりも先に進んで疲れないのか」

「疲れるとも。やることをやったら公園でぼんやりしたいよ」

「やっぱり生き物が好きかい?」

 僕はうなずく。僕は相変わらず公園で捕まえたカエルを部屋で飼っているのだ。ときどきうっかり脱走させるので、AIに怒られる。

「なら、生き物の研究のために地球に行ったらどうだ? ここの生態系は乏しいからな」

 さっきは何をしたらいいかわからないと言った。でも、もしかしたらそれは、地球に行きたいという本音をごまかすためだったかもしれない。

「やっぱり地球に行かなきゃダメかな」

「そりゃそうだ。亀田の爺さんもいつも嘆いてたぞ。『生態系を設計するときにカメを連れてこようと思ったけど無理だった』って。ここの生態系は貧しい。それを言ったらスギの木も生えていないし、クマもいないよな」

「確かに……」

 僕はつぶやいた。だが、亀田の爺さんとそんな話をしたことはない。亀田の爺さんと杉下が思っていたよりも親しかったのだなと感じる。僕は思ったよりも動揺する。嫉妬だろうか。相変わらず杉下はへらへらと笑っている。

 火星の酸素をまかなっているのは、公園の植物や農園の米ではなく、品種改良された

藻と、発電による電気分解だ。スギの木を植えただけではきっと追い付かない。

「危険な大型肉食獣を養うだけの余裕はないだろうな」

 この世界に熊のいるゆとりはない。ここは限られた世界の限られた生態系だ。熊どころか、キツネもタヌキもいない。

 けれども虫はたくましい。現にハエが部屋にいた。最近はAIが記録している基地内の昆虫の数が増加していた。特に食べっぱなしのものを置いていたわけでもないが、なぜだろう。

 部屋にいたハエに殺虫剤を一吹きして杉下は言う。

「君は火星で終わる人間じゃないよ」


 地球に行きたいという思いが強くなり始めたけれど、とても無理だってことはわかっていた。燃料は高く、実際に火星から地球に行ったのは僕の両親の世代の誰かが難病を治療するためだけだった。火星の代表でさえ地球に赴くことは原則としてない。感染症の問題もある。

 でも、生命維持という役割に奉仕する生態系のメンテナンスだけじゃない、生き物の研究がどうしてもしたかった。そんな中で僕はニュースを見た。エウロパの生命を研究するチームの募集だった。

 僕が生まれる前から、エウロパには何らかの生命は存在することがわかっていた。ただ、その詳細な分析までは進んでいなかった。探査機に備え付けられたロボットアームによってDNA系の生命だとまではわかっていたが、遺伝暗号が共通しているかどうかもわかっていない。そこまでの細かい調査はまだロボットではできない。人の手がいる。

 僕は目の前の未知の世界に憧れた。必死になって実績をアピールした。僕の経歴のユニークさにも訴えかけた。僕は地球に向けての動画でもアピールした。僕は火星で終わる人間じゃないという杉下の言葉が、僕を駆り立てた。アイドル的なキャラ作りさえした。知識を蓄える時間を削ってでも、毎日動画を配信した。

 だから僕が一次選考で落ちたときには、しばらくは立ち直れなかった。


 落ちた理由はいくらでも考えられる。単純に僕の学力が足りなかったか、火星出身の人間を最初から想定していなかったか、僕の専門が微生物から少し離れていたからか。単純に、エウロパ行きのロケットが火星に立ち寄って僕を拾うのが大変だったか。

「気を落すなよ、君が火星で一番優秀だってのはみんな知ってるんだからな」

 杉下が笑顔で慰める。でも、僕は素直に礼が言えない。

「火星では一番でも、地球ではそうでもないってことだろう」

「それはそうだ。火星のローカルネットで一番のアイドルも、地球では埋もれちまうだろうな」

 なんでもいい。ただ、僕はやる気を失った。僕は地球年で一年休学することにした。でも、休んだところですることもなく、基地の外になどめったに行けない。火星の空の下に出るのは地質学者たちくらいだし、隣の基地までは何千キロも離れている。だから僕は毎日公園で時間を潰した。

 論文を読む気にもなれず、ただ爺さんとの思い出に浸っていた。まだ爺さんが元気だった頃は、いろいろな虫の名前を教えてくれた。火星にはいない虫のことも話してくれた。そのときは少し寂しそうだった。あの時僕は五歳になっていなくて、だから遠慮なく聞くことができた。

「爺さんは何で火星に来たの?」

「まだ生きている火星の生き物を探したかったのさ。微生物の化石はたくさん見つかっていたけれどね。でも、私が生きている間は無理なようだな。彼らはよほど大地の深いところに身を隠してしまったらしい」

 僕はため息をついた。僕の本音に気づいてしまった。

 そうだ、僕がエウロパを目指したのは、爺さんの夢を追うつもりだったのだ。生き物に対する興味関心だけじゃない。まだ生きている、地球外の生命に出会うというもう一つの夢もまた、爺さんから受け継いだものだった。忘れていたことを思い出して、かえって辛くなった。どちらも叶えられそうになかったからだ。僕は照明が落ちるまで公園の丘で膝を抱えていた。人口の日没が訪れると公園は閉まる。AIが僕に早く帰るように促した。

 この頃はハエだけじゃなくて、ゴキブリもあちこちで見るようになった。害虫に慣れていない火星の人びとは軽いパニックを起こしながら対処していた。地球から害虫駆除業者を呼ぶか? と杉下は笑っていたが、それどころではなかった。化学プラントでは殺虫剤が急ピッチで合成されていた。


 一年が経った。そろそろ復学しないといけない。けれども手続きなどしたくない。ぼんやりと端末を操作しているとメッセージが入った。開くと驚いた。亀田の爺さんからだった。

「そろそろ君も進路に迷っている頃だろう」

 なんで今更になって亀田の爺さんからのメッセージが閲覧できるようになったのか。怪訝に思っていたが、理由に思い至る。そうだ、僕が飛び級をしていたせいだ。だから一年分ずれている。

「君がまだ生き物が好きだという気持ちを持っていてくれるなら、一つ提案がしたい。君にはここ、火星基地の生き物の生態を記録してほしいのだ」

 僕はメッセージをスクロールする。

「生き物の世代交代はヒトと比べてはるかに早い。昆虫があっという間に殺虫剤に対して抵抗力を身に着けることは知っているだろう。あれは、たまたま抵抗を持つ個体が生き残り、子孫を残したからだ。同じ理屈で、火星の低い重力で、あるいは人工太陽の下で、生き物は地球からはどんどん姿を変えている」

 添付されていたのは地球のカエルと火星のカエルの遺伝情報だった。カエルだけじゃない。ハエやゴキブリ、トンボやハチなど様々だ。時間が過ぎるごとに、少しずつ変異が蓄積される。

「DNAだけではない。私は君の捕まえてきたアマガエルの鳴き声にその前兆を見た。私が死んでからもう何年もすれば、きっとまったく別の種になってしまっているはずだ。君に彼らの生態を記録してほしい。標本や遺伝情報だけでなく、この世界で息づいている彼らの姿を。君にとっての故郷である火星で生きる命のことを」

 そうか。僕は悟る。学ぶべき相手はこの足元にいたのだ。地球外の命は、僕の周りにあふれていた。

「本当は、私はもっと火星基地を可塑的にしたかった。変異する生き物とともに人にも変わっていってほしかった。生命を公園に閉じ込めることなく、廊下や食堂にも樹木を生やし、廊下に水路を作って魚を泳がせ、鳥の歌う声を響かせたかった。地球の命を火星に適応させたかった。今はカエルは火星の重力で不格好にしか飛べなくても、いつかはうまく飛べるだろう。いつかテラフォームされた火星で、火星の微生物と地球の生命が共に暮らすのを空想している。私はマリネリス峡谷でカエルの鳴き声がする日を待っている」


 端末で手続きを終え、僕は杉下にメッセージを送った。

「なあ杉下?」

「なんだい?」

「最近亀田の爺さんをも思いだすことはあるかい?」

「いや、別に」

 そうか。じゃあ、爺さんが手紙を書いたのは僕だけに宛ててなんだ。それがなんだか嬉しかった。

「そうか。それはそうとして、復学することにしたよ」

「……おめでとう」

 カエルが廊下で鳴いている。いつの間に脱走したのだろう。

 僕は亀田の爺さんの後を継ぎ、この世界をさらに豊かにするアイディアをあたためる。

 カエルはたまたま飛んでいた虫を捕まえて喜びの声を上げる。この声も、地球のものとはすでに違っている。

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