第26話 萎れた花


 綺麗にご飯を平らげると「ご馳走様」と正雄は言う。夕方の風が心地いい。


「先生、鰹姫は元気ですか?」


「相変わらず、餌だけ食べて、ふらふら気ままです」


「…少し、羨ましいです」とハナは縁側に視線を投げた。


「ハナさん」


 正雄は自分が言いたい言葉を飲み込んで、違うことを言った。


「清は本当にあなたを大切に思って」と言った時、ハナは正雄を見た。


「思って…ますか?」


 その問いに正雄は答えられなかった。


「…ごめんなさい。私…大原様が嫌なのではなく…。結婚が…何だか閉じ込められるような気持ちになってしまって」


「結婚はそういうものかも知れません。特に女性は…。だから気持ちはわかります」


「お父様は衣食住安心して生活できると言いますけれど、私は…鰹姫のように好きなところへ行ける自由が羨ましいです」


 ハナの大きな目が揺れている。口の端も少し震えていた。


「それに…私…先生のこと…」


「ハナさん」と思わず正雄は止めた。


 聞いてしまったら、正雄もどうなるか分からない。ハナの目から涙が溢れた。


「言ってはいけませんか?」


「…そうして頂けたら」と正雄も掠れた声で言った。


 ハナの首はすっかり下を向いてしまった。一輪挿しの萎れた花のようだ。

 

「しばらくレッスンは止しましょう。花嫁修行も大変だと思いますので」と正雄は言う。


 返事がないハナにキャラメルを一つ差し出した。


「では。失礼します。夕飯、大変美味しかったです。一番…美味しかった」


 何も言わないハナを置いて、正雄はお膳を台所まで運ぶ。ウメさんが漬物を切っていた。


「あら、山本様。お嬢さんは?」


「ウメさん。申し訳ない。ハナさんを…」


「お嬢さん?」


「本当に美味しいご飯を頂きまして、ありがとうございます」と言って、箱膳をウメに渡す。


「いえいえ。先生に食べてもらうのに、大層、張り切ってお作りなさってましたよ」


 この台所でハナが一生懸命作っているのが目に浮かぶようだった。正雄はウメに深々と頭を下げて、ハナをよろしくお願いしますと言った。


「山本様…。お嬢さんのことお嫌いですか?」


「まさか」


「お嬢さんは…」


「言わないでください。分かってます」と正雄は頭を下げた。


 ウメは答えられない正雄の気持ちも分かっている。ただハナが不憫すぎて、正雄の気持ちを知ることができたら…と思う。


「しばらくこちらには…」と言って、正雄は頭を下げて出ていった。


「あ」とウメさんは慌てて見送ろうとしたが、正雄が断った。


 一人で入江家から出ていった。当分、来る事はないだろう、と思いながら帰宅した。



 ハナはその日は晩ごはんも食べずに自室に篭って泣きくたびれて眠りについた。枕元には正雄がくれたキャラメルが置かれている。


 翌日は大原家に花嫁修行として行かなくてはいけなかったので、冷たい水で顔を洗い、なんとか目の腫れをひかせようとした。時間通りに迎えの車が来る。


「行って参ります」と挨拶をして、ハナは車に乗った。


 途中、車の中から通り過ぎた正雄と入った蕎麦屋を見てはため息をつく。花嫁修行は朝から始まった。まずはピアノだった。ハナは琴は母親に習って弾いていたが、ピアノは初めてだった。女学校のクラスメイトには上手な子もいたけれど、弾いたことがなかった。

 ピアノの先生は外国の人だった。


「グーテンターグ」と挨拶をされる。


 ほぼ英語で時折、ドイツ語が混ざりながら、レッスンが始まった。


「ツェー、デー」と音階を習い、指を鍵盤に置く。


 初めて習う事だったから、ハナは真剣に話を聞いて、練習をした。思っていた花嫁修行とは違っていて、昼ごはんを食べながら洋食のマナーを学び、昼からはダンスのレッスンだった。座学ではなく、体を動かすことが多いからか、辛く感じることはなかった。それに母親は挨拶に来たきり、教えるのはそれぞれ違う先生からだった。

 男性講師とダンスを踊っていると、恥ずかしいが、少し気分も紛れた。


「ハナさん」と清がダンスのレッスン中に入ってきた。


「あ、こんにちは」とハナが言うと、講師とはいえ、手を取り合っていることに清はやきもきした様子で「大丈夫ですか?」と聞いた。


「はい。意外と楽しいです」とハナは意を解さずに返事をしてしまい、清をさらに慌てさせる。


「では、せっかくなのでお相手しますか?」と講師が気を利かせる。


「え?」とハナは驚いたが、すぐに清が目の前に来た。


 そして大きな手が差し出される。何もかもスマートだ。その手にはペンダコもなく長く美しい指がある。


「ハナさん?」と言われて、慌てて手を乗せた。


 清の手は腰に添えられ、帯のところだから何も感じないはずなのに頰が熱くなる。さっき教えてもらったステップをなんとか踏むのだが、恥ずかしくて清と顔を合わせれない。清は慣れているのか、軽やかに動いている。


「花嫁修行は大変ですか?」と話しかけられる。


「…思っていたものと違っていて…」


「どんなことを想像してたんですか?」


「それは…」


「母に厳しくされる…とか?」


 考えていることを言われて、思わずハナは顔を上げた。そこには優しく微笑む清の顔があった。それなのに…そこにある顔が正雄のものじゃないことが悲しくなる。この手も…結局、正雄の手には触れることもできなかった。


「草履じゃ、ステップ踏むのも難しいでしょう。洋服と靴を用意しますね」


「え? そんな」


「それは母も同じ考えですから」


 だんだん大原家に入っていることが辛くなる。こうして、いろいろ準備してもらいありがたいのだが…もう手足が縛られて動かないような気持ちになった。


「ハナさんは変わってますね」


「変わってますか?」


「普通は贈り物をされたら喜ぶものです」


「すみません。高級品を頂くなんて…申し訳なくて」


「本当に…あなたは可愛らしい」


 ハナの気持ちを誤解したまま清はステップを踏む。ハナは手を取られ、こうして優しく自分が消されていく感覚を覚えた。薄くなっていつかは透明な日が来るんじゃないか、とさえ思った。それと同時に正雄に会いたいという気持ちが溢れそうになる。


 おやつの時間に母親が来て、少し話をし、その後、洋服の採寸をして帰ることになった。帰りも車で家まで送ってもらう。ハナは車が遠くに走り去るまで見送り、家に入ろうとしたが、玄関の手前で踵を返し、どうしても我慢ができずに家から出た。



 窓枠に黒猫が立っている。正雄が鰹姫と名付けたが、本当の名前は分からない。あれから鰹姫は部屋で餌をもらうと、少しくつろいでいくようになった。


「お前も待ってるのかい? 可愛い人を」と言って、原稿用紙の上で丸まっている鰹姫の、あの時ハナが撫でていた背中を撫でる。


「でももう来ないんだ」


 そして満足したら、また窓から外へ出て行く。あの時の思い詰めたハナの顔を何度も思い出しては胸が掻きむしられるような気持ちになる。それと同時に清の顔も消えることはなかった。正雄はため息をついて、しばらくしたら忘れられるだろうと言い聞かす。いや、忘れなくてはいけないと言って、それは忘れられなくなる呪文だと思った。

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