雨が降る日は貴方と

丸井まー

雨が降る日は貴方と

 雨が降ると彼が来る。

 リヒャルトは外から聞こえるザァァァァッという雨音で目が覚めた。起き上がってベッド横の窓のカーテンを開ければ、大粒の雨が降り注いでいた。リヒャルトはゆるく口角を上げて、じんわりと痛む腰を擦りながら、ベッドから下りて、階下のトイレへと向かった。


 リヒャルトは喫茶店を経営している。父から継いだ喫茶店は、そろそろ開業五十年になる。老舗というにはまだ若いのかもしれないが、中々に年季が入っている。リヒャルトはあと半年で六十になる。ちょうど三十になる年に店を父から受け継ぎ、それからは数人の従業員達に助けられながら、喫茶店を切り盛りしてきた。昔からの固定客が多く、それなりに繁盛している。


 雨が降ると、必ず訪れる男がいる。今は歳は五十くらいだろうか。もう二十年近く、雨が降る度に店にやって来る。必ず珈琲を二杯注文して、煙草を吸いながら、半刻程本を読んで帰っていく。二十年近く通ってくれているが、リヒャルトは彼の名前を未だに知らない。あまり喋る雰囲気の男ではないので、中々聞けないでいる。最近は皺が増えた顔立ちは、端正に整っていて、白髪混じりの黒髪をいつも後ろに丁寧に撫でつけている。背はそんなに高くないが、いつも背筋がピンと伸びていて、見ていて気持ちがいい。

 リヒャルトは名前も知らない彼に、ずっと片想いをしている。


 リヒャルトは男しか愛せない。その事は、誰にも教えていない。亡くなった両親にも話せなかった。同性愛者はいないではないが、極少数派で、好奇な目や白い目で見られやすい。リヒャルトには堂々と男が好きだと言える勇気が無かった。

 一度でいいから恋人が欲しかったが、同性愛者が集まるという噂のバーに行く勇気もなく、結局六十が間近の歳になってしまった。最近は自慰もしなくなったので、きっとこのまま誰かの熱を知ることも無く枯れていくのだろう。それはそれでいい気がする。ただ、ひっそりと名前も知らない彼を想っていられたら、それで満足だ。

 リヒャルトは伸ばしている口髭を丁寧に櫛と鋏で整え、寝癖を直して髪を整えると、寝間着からピシッとアイロンがかかった白いシャツと黒いズボンに着替えた。


 喫茶店の裏にリヒャルトの家はある。短い道を歩いて喫茶店の裏口から店内に入ると、リヒャルトは気合を入れて掃除を始めた。

 掃除を終える頃に、従業員の若い子達がやって来た。皆で開店準備を整えたら、店を開ける。すぐに常連の老爺達が店に入ってきた。

 カウンター席に座る彼らと世間話をしながら珈琲を手早く淹れ、順番に珈琲カップを差し出す。次から次へと入ってくる客に、従業員と一緒に接客しながら、リヒャルトは彼の訪れを待った。


 昼時を過ぎた時間に、店のドアにつけている鈴がカランカランと鳴った。ドアの方を見れば、彼が店内に入ってきた。トクンッと小さく胸を高鳴らせながら、リヒャルトは静かにカウンターの内側から出て、二人がけのテーブル席に座った彼の元へ向かった。



「いらっしゃいませ」


「珈琲」


「かしこまりました」



 ボソッと呟いた彼の声は渋く掠れていて、とても色っぽいと思う。

 リヒャルトはいそいそとカウンターの内側に戻り、気合を入れて丁寧に珈琲を淹れた。

 今日も彼は珈琲を二杯注文して、本を読みながら煙草を吸い、無言で会計をして、雨が降る中、帰っていった。

 リヒャルトは彼の後ろ姿が入り口のドアの向こうへと消えると、小さくほぅと溜め息を吐いた。今日も彼は素敵だった。落ち着いた色合いの深緑色のジャケットがよく似合っていた。

 リヒャルトは機嫌よく夕方まで働いて、従業員達と閉店準備をすると、店を閉めて、自宅へと帰った。





 ------

 六十歳の誕生日がきた。この歳になると、誕生日だからといって、特に何も思わない。子供の頃は、両親が誕生日パーティーをしてくれていたが、その両親が亡くなって久しい。誰にも祝われないのが当たり前になっている。

 リヒャルトは鏡に映る老いた男の顔をじっと眺めた。白髪混じりの茶髪に、皺の増えた凡庸な顔立ち、いつも丁寧に整えている口髭は、リヒャルトのちょっとした自慢である。我ながら老けたものだと思う。最近は腰や膝が痛むようになり、立ち仕事が辛くなってきた。親戚に定職についていない次男坊がいるから、引退して、彼に喫茶店を譲ろうかと最近考えるようになった。名前も知らない彼に会えなくなるのだけが寂しくて堪らないが、そろそろ隠居してもいい歳だろう。どうせリヒャルトの想いが彼に伝わることなどないのだ。そもそも伝える気すら無い。次の定休日にでも、親戚の家を訪ねて、お願いしてみよう。リヒャルトはそう決めると、身支度を整えて、家を出た。


 今日はカラッと晴れている。雨が降っていればよかったのに。誕生日の日くらい、ちょっとした日頃のご褒美が欲しい。彼が来てくれたら、それだけで嬉しいのに。リヒャルトは内心ガッカリしながら、表面上は穏やかな笑みを浮かべて、従業員達と一緒に夕方まで働いた。


 夕方になり、店を閉めると、リヒャルトはちょっと洒落た服に着替えてから、夕食を食べに外へと出かけた。普段は自炊をしているが、誕生日の日くらい美味しいものを食べてもいいだろう。リヒャルトは賑やかな繁華街へ向かい、昔からたまに行っている馴染みの飲み屋へと入った。


 馴染みの飲み屋で、のんびりと注文した酒と料理を楽しんでいると、トンッと肩を軽く叩かれた。リヒャルトが振り返れば、名前を知らない彼が立っていた。

 驚いてピシッと固まるリヒャルトを見て、彼がボソッと口を開いた。



「やっぱり喫茶店のマスターか」


「……こ、こんばんは」


「こんばんは。混んでいるから同席しても?」


「あ、はい。どうぞ」



 店の中を見回せば、確かに客が多くて、空いているテーブルが無かった。リヒャルトは向かい側の席に座った彼にドキドキしながら、そっとメニュー表を彼に差し出した。『どうも』とボソッと呟いた彼が、すぐに店員を呼び、いくつかの料理と酒を注文した。

 リヒャルトは彼に会えたのが嬉しくてドキドキしながらも、ガチガチに緊張していた。何を話せばいいのだろうか。自分の喫茶店以外で彼に会えるだなんて、完全に想定外である。いい歳した爺がみっともないと思わないでもないが、リヒャルトは酒精以外で顔が熱くなるのを感じた。


 チラッと彼の方を見れば、彼がじっとリヒャルトを見つめていた。視線が合って、思わず心臓が大きく跳ねる。

 彼がリヒャルトを見つめながら、ボソッと口を開いた。



「酒、好きなのか」


「わ、割と」


「ふーん。此処には殆ど来ないだろう」


「いつもは自炊をしていて、酒も家で飲んでいますので」


「なるほど」


「あ、貴方は此処へはよく来るのですか?」


「たまに」


「そ、そうですか」



 リヒャルトは内心パニクっていた。何をどう喋ったらいいのか本気で分からない。おどおどと受け答えをしていると、店員が酒と料理を運んできた。無言で食べ始めた彼を眺めながら、リヒャルトはドキドキして堪らない心臓が少しでも落ち着くようにと、酒をぐっと一息で飲み干した。


 酒の追加注文をして、追加で三杯程飲み終える頃には、リヒャルトは完全に酔っていた。彼は無言で料理を平らげると、無言でずっと酒を飲んでいる。

 リヒャルトはヘラヘラ笑いながら、無言の彼に声をかけた。



「貴方のお名前を教えてください」


「エーヴェルト」


「僕はリヒャルトです」


「そうか」


「お仕事は何を?」


「売れない小説家」


「それはすごい」


「すごくない。売れてないからな」


「新しいものを生み出している時点ですごいことですよ」


「……そうか。アンタの方が余程すごいと思うが」


「僕はすごくないですよ」


「アンタが淹れる珈琲が一番美味い」


「ありがとうございます」


「なぁ」


「はい?」


「アンタ、男が好きだろ」



 リヒャルトはエーヴェルトの言葉に、さぁっと酔いが一気に覚めた。どう答えたらいいのか分からず、無言のまま固まっているリヒャルトを見て、エーヴェルトが小さく笑った。



「俺もだ」


「え?」


「俺も男が好きだ」


「さ、左様で……何で分かったんですか」


「勘」


「は、はぁ……」


「パートナーはいないのか」


「……いません」


「ふーん」



 エーヴェルトが何かを考えるように、自分の顎を指先で擦った。リヒャルトは背中を冷たい汗が流れるのを感じながらも、どこか期待していた。エーヴェルトも男しか愛せないのなら、自分にもチャンスがあるのではないかと。

 エーヴェルトが深い青色の瞳でじっとリヒャルトを見つめて、口を開いた。



「経験は?」


「……ありません」


「興味、ないか?」



 リヒャルトはエーヴェルトの問いに、ゴクッと唾を飲み、挙動不審に目を泳がせながら、小さな掠れた声で、『あります』と答えた。

 エーヴェルトがどこか悪戯っぽく笑い、テーブルの上で拳をつくっているリヒャルトの手の甲を、つーっと指先でなぞった。


 その日、リヒャルトは生まれて初めて誰かの熱に溺れた。





 ------

 今日は朝からどんよりとした曇り空である。今にも雨が降りだしそうな天気で、リヒャルトは内心期待をしながら仕事をしていた。

 昼前から雨が降りだし、昼時を過ぎた頃に、エーヴェルトがやって来た。エーヴェルトと一夜を共にしてから、会うのは初めてだ。リヒャルトは挙動不審にならないように気をつけながら、カウンターの内側からテーブル席に座ったエーヴェルトの元へと向かった。



「いらっしゃいませ」


「珈琲」


「かしこまりました」



 いつも通りのやり取りに、半分ほっとして、半分ガッカリした。エーヴェルトと一夜を共にしたが、あれはきっとエーヴェルトの気まぐれだったのだろう。リヒャルトも彼に好きだとは言えなかった。

 リヒャルトはいつも通り気合を入れて丁寧に珈琲を淹れると、エーヴェルトの元へと珈琲を運んだ。


 いつも通り煙草を吸いながら本を読んでいたエーヴェルトが、会計をしにカウンターにやって来た。

 いつも通り無言なのかと思いきや、エーヴェルトがリヒャルトをじっと見て、口を開いた。



「今夜、空いてるか」


「あ、空いてますが……」


「アンタの家は」


「この店の裏です」


「夜にまた来る」


「は、はいっ!」



 エーヴェルトはそれだけ言うと、代金を払って帰っていった。

 リヒャルトは混乱しながらも、嬉しくて嬉しくて堪らなかった。ソワソワして落ち着かず、うっかりカップを落として割ってしまった。リヒャルトは浮かれまくったまま、夕方まで働いた。


 雨の日には彼が来る。

 昼間は喫茶店に、夜はリヒャルトの家に。

 エーヴェルトの逢瀬が二桁に達した頃、リヒャルトはエーヴェルトとベッドの中で寄り添いながら、口を開いた。



「そろそろ店を親戚の子に譲ろうかと思っているんだ」


「そうか。なら、俺の家に住まないか?」


「え?」


「アンタの珈琲じゃないと満足できない」


「あの……」


「なんだ」


「貴方は僕のことが好きなのだろうか」



 リヒャルトは前々から聞きたかったことを思い切って聞いてみた。心臓がバクバクと激しく動いている。リヒャルトがじっと仰向けに寝ているエーヴェルトの横顔を見つめていると、エーヴェルトがボソッと呟いた。



「俺は誰とでも寝る訳じゃない」



 エーヴェルトのぶっきらぼうな答えは、リヒャルトにとっては最高に嬉しい言葉だった。リヒャルトはだらしなく頬をゆるめて、すりっと額をエーヴェルトの肩に擦りつけた。



「貴方が好きです。ずっと」


「そうか」



 ぶっきらぼうな言葉を言いながらも、エーヴェルトはリヒャルトの手をやんわりと握った。


 リヒャルトは正式に親戚の子に喫茶店と自分の家を譲ると、エーヴェルトの家に住み始めた。エーヴェルトの家は、小ぢんまりとした二階建ての家で、初日はあまりの散らかりっぷりに呆れてしまった。

 仕事を引退したリヒャルトは、毎日毎日、エーヴェルトの為だけに珈琲を淹れている。


 しとしとと静かな雨音を聞きながら、二人でのんびり珈琲を飲んでいると、エーヴェルトがボソッと呟いた。



「アンタの珈琲が一番美味い」


「……ありがとう」



 エーヴェルトは『好き』とか『愛してる』とか、直接的な言葉は言ってくれないが、その代わりの言葉はくれる。エーヴェルトのぶっきらぼうな褒め言葉は、まるで愛を囁かれている気がしてくるから不思議である。

 リヒャルトは照れて笑いながら、手を伸ばしてエーヴェルトの手を握って、指を絡めた。


(おしまい)


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