第8話 夫婦仲

「ちょっと麗子、ゆうくんの前よ」

「この子ももう幼い子供じゃないんだから気にすることないわよ」

「私が知られたくないのよ……」


 たしなめられても平然としている母さんの様子に、舞さんは困ったように溜息を吐く。

 教育に悪いという配慮もあるのだろうけど――義務教育を終えている身なので、そこまで気にしなくてもいいと思うが――なによりも息子同然の存在である俺には聞かれたくないことだったのだろう。


「いつまでも隠せることじゃないでしょ」

「そうだけど……心の準備というものがあるでしょう」


 母さんの無神経ぶりに、俺は思わず舞さんに同情の眼差しを向けてしまう。


「しかもその愛人だけじゃなくて、他に何人も不倫相手がいるでしょう」

「この話を続けるのね……」


 母さんには引く気がないとわかり、舞さんは諦めたように溜息を吐いた。先程の溜息よりも深く息を吐いているところに舞さんの心情が表れている。


 俺は平静を装って舞さんの心情を分析しているが、内心は困惑でいっぱいだった。

 孝二さんは愛人がいるだけじゃなくて、複数の女性と不倫してんの?

 確かに孝二さんは仕事ができるかっこいい大人の男って印象があるからモテるのはわかる。実際に以前、孝二さんと話した時に昔は良くモテたと言っていた。


 あ、俺と孝二さんは顔見知りだ。

 孝二さんは、奥さんの舞さんが親友である母さんの家に遊びに行く、または俺の面倒を見るために足を運んでいることを知っている。

 だから孝二さんとも交流がある。――特別親しい間柄というわけではないが。


「本人は妻にバレているとは夢にも思わないでしょうね」


 呆れたように「滑稽だわ」と呟いて肩を竦める母さん。


「もはやあの人にとっては不倫しているのが日常で、私といるのが非日常なのよ」


 舞さんはそう言うと、一拍置いてから続きの台詞を口にする。


「まあ、夫婦関係が完全に冷え切っているからって黙認している私も私だけど」

「それは否定しないわ。生活には困っていないみたいだしね。仮に離婚したとしても、この歳になってから就活するのは大変だろうし」

「専業主婦だった期間と年齢の問題を考慮すると就活はネックなのよね。前の勤め先に離婚が原因で出戻るのは気まずいし、パートくらいかな、なんとかなりそうなのは」

「そうね。だからとりあえず生活費を受け取る今の生活に甘んじるのは理解できるわ。いっそのこと思う存分むしり取ってやればいいのよ」


 母さんと舞さんは二人とも三十六歳だ。

 今の俺には就活云々うんぬんの話はわからない。でも、バイトはしているからなんとなく想像することはできる。


 就活は若いほうが有利というのは道理だと思う。

 若いほうが長く働いてくれるだろうし、将来性もある。


 対して、年齢が高いと働ける期間は短くなる上に成長力が乏しい。だから敬遠されるのは仕方がないことだ。

 それでも年齢が高ければその分、蓄積された経験値があるはずなので即戦力になれる人材なら重宝されるだろう。


 しかし舞さんは専業主婦だ。

 結婚する前は働いていたけど、それは今よりも若い頃の話だから社会人としての経験値という面で合格点をあげられるかは判断が難しいところ。ブランクがあるのも痛い。


詰問きつもんして気分を害されたら今の生活が危うくなってしまうかもしれないものね。私が舞の立場だったら同じように黙認していたかもしれないわ」


 母さんの言う通り、下手に孝二さんに不倫の件を問いただして不興を買いでもしたら、生活には困らない今の環境を悪化させてしまうかもしれない。


 感情的に行動するのではなく、諸々の状況を冷静に考慮すると離婚に踏み切る判断は安易に下せないだろう。

 黙認するしかない現状はもどかしいかもしれないけど、今は我慢するしかない時期なのかもしれない。何事にもタイミングというものがあるだろうし。


 一生不自由しないだけの慰謝料をふんだくれるのなら話は別だが、孝二さんにそこまでの財力はないはず。――大企業の部長だから収入はそれなりにあると思うけど。


「生活自体は楽でいいけどね」

「むしろ私が舞のことを働かせているわね……」


 確かに夫が不倫している件を除けば、舞さんは恵まれた生活を送っているのかもしれない。

 夫が家を空けることが多いから、家事をサボってもとやかく言われる心配がない。

 働かなくても生活費を貰えて、家事に忙殺されることもない。孝二さんがいる時だけ家事をこなせば済むし、今日みたいに暇を見つけては遊びに行くこともできる。


 夫に不倫されて相手にされない立場なのだから楽をしてもいいと思う。心に傷を負っているはずだから。


 むしろ母さんのほうが舞さんのことをこき使っていると言っても過言じゃない。我が家で家事をこなしているくらいだし。

 舞さんに甘えている俺も悪いけど……。


「それは別に気にしなくていいわよ。私が好きでやっていることだから」

「舞には足を向けて眠れないわ」

「大袈裟よ」


 母さんの言い様に舞さんは笑み零す。


「なんというか、こうしていると家族ってこういうものなのかな、とか、息子の面倒を見るのってこういうことなのかな、って思えて楽しいのよ」

「舞は私たちの家族よ!」


 感慨深げに微笑む舞さんのことが愛おしくなったのか、母さんは感極まったようにそう言った。


「ね?」


 そして俺に振る。


「うん。舞さんは大切な家族だよ」


 俺にとって舞さんは第二の母だ。だから本当に家族のように想っている。

 いや、母さんが父で、舞さんが母親かな?

 見た目だけで判断するならロングヘアの母さんが母で、クールな舞さんが父親のほうがしっくりくるかもしれない。


「ふふ、ありがとう」


 舞さんは嬉しそうに頬を緩めるが、その笑みが俺の心にとげが刺さったような痛みを与える。


 母親同然で、家族のように想っているのは嘘偽りない本心だ。

 でも、俺は別の意味で舞さんと家族になりたいと思っている。


 だって俺は物心ついた頃からずっと舞さんのことが母親としてではなく、一人の女性として好きだから。

 本当は息子ではなく、恋人になりたいと思っている。ゆくゆくは夫にだってなりたい。


 しかし、それが叶うことはない。

 舞さんは既婚者だから仕方ないことだと思ってずっと諦めていた。


 そんな状況で夫婦仲が良好じゃないと聞かされてしまっては、俺にもチャンスがあるのでは? と期待してしまうではないか。

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