あの船に二人で

吾妻栄子

あの船に二人で

「ごめんね、ぺぺ」

 バスルームから出て来たロラはエメラルド色の瞳をいたずらっぽく細めると、ルージュを厚塗りした唇から真っ白な歯を覗かせて笑った。

 浅黒い小さな顔の脇でイヤリングのゴールドの輪が光の尾を引きながら揺れる。

「ちょっと化粧直すのに時間がかかっちゃって」

 確かにルージュのみならずマスカラもチークもいつもより濃く施されている。

 波打つ豊かな暗褐色の髪にはまるで塗り込むようにムースが掛けられており、好んで着けているラヴェンダーの香水も心なしか普段より強く匂ってきた。

「いいんだ」

 本当はまだ洗い立ての髪にあどけなさの残る素顔の彼女の方が好きだが、今日はこれからレストランのディナーに行くのだから致し方ない。

「綺麗だよ、ロラ」

――ボーッ……。

 窓の外から船の汽笛が遠く響いてきた。

 ドンが用意してくれたこの海辺の家の部屋には時折思い出したようにこの音が聞こえてくるのだ。


*****

 琥珀色の照明でライトアップされた、涼しい夜風の吹き抜ける海辺のレストラン二階のテラス席。

 今日は貸し切りにしたので客は俺ら二人だけだ。

「本当においしい」

 美味うまいものを口にした時の常でロラははしゃいだ様子だ。

 先月二十二歳になった俺より半年遅く生まれたから、こいつは二十一だ。

 まだ二十一なのか、もう二十一なのか。

 今は考えないことにする。

「ここで食べられるなんて夢みたい」

 手にしたグラスに半分以上残ったシャンパンの泡を相手はエメラルド色の目で見詰めた。

 ロラのこの目はスペイン人の父親譲りなのだそうだが、クラブ勤めだった母親のお腹にいる時に生みの父は本国に帰ったきり一度も会ったことはない。

 まあ、母親がクラブのウェイトレスで父親がいないのは俺も一緒だけど。

「昔は裏のゴミ箱から喰えるもん競争して探したしな」

 すぐ殴り合いをして、でもすぐ仲直りもしたあの頃が酷く遠く思える。

「あの頃はその日を生き抜くのに精一杯だったね」

 金の耳環を着けたロラの横顔は飽くまで穏やかに続けた。

「ぺぺと一緒だから怖くなかったけど」

 返事をする前にふわりとラヴェンダーの香りがしてロラは立ち上がった。

「今度は二人で船に乗って旅行したいな。豪華客船の広間で踊るの」

 真っ赤なヒールの足でまるでクラブにいる時のように踊り始める。

 テラスの琥珀色の灯りが豊かな暗褐色の髪を、ゴールドの服を纏った細身の体を、滑らかな薄褐色の肌の肩を照らし出した。

「いいね、皆がお前に注目するよ」

 俺は笑いながらスーツのポケットの中の小銃にそっと手を差し入れる。

――あの女は警察サツの内通者だ。この前の取引がおじゃんになったのもそのせいだ。

 一週間前、ドンに呼ばれて見せられたターゲットの写真に映っていたのはロラだった。

「広間で一晩中踊って、一夜明けたら自由の国!」

――ピサーノの女房をアメリカに逃がしたのもあの女だ。

 ドンを公然と批判しマフィア撲滅を訴えたピサーノ上院議員を半年前、ソアチャの演説会場で仕留めたのは俺だ。

 しかし、仲間が始末に向かった議員の身重の妻がいるはずのウサケンの邸宅はもぬけの殻だった。

「自由の女神がお出迎えかな」

 掠れた自分の声が耳に響く。

――私の夫は、この子の父親は麻薬王に殺されました。

――私たちの祖国はあのコカイン売りの悪魔に牛耳られ、腐り切っています。

――正義を訴えた人間は殺されるのです。

 俺らが逃がした議員夫人の行方を知ったのは赤子を抱いて涙ながらにアメリカのメディアに訴える新聞の一面を目にした時だ。

 これでドンの大統領選出馬の話は立ち消えになった。

「ぺぺ、船乗りになりたいって言ってたじゃない」

 視野の中で不意に赤いヒールが立ち止まる。

「ここを出て、広い世界を見たいって」

 あはは、と港の灯りを臨んだままこちらに向けられた背中が笑って波打った。 

「今からでも、二人であの船へ……」

――パン!

 いつも仕事で聞く、空き缶を踏み潰すのに似た軽い音が響き渡った。


*****

 これで今日の仕事は終わった。

 いつも通りシャワーを浴びて寝よう。

 普段の仕事の後より頭はいやに醒め切っているのに体には倍以上の疲れが重たく纏い付くのを覚えながらバスルームのドアを開けて灯りを着ける。

“ぺぺへ”

 洗面台のすぐ脇に金釘じみた筆跡で書かれた二つ折りの紙が置かれているのが目に飛び込んで来た。

 ワッと体中の血が湧き立つような感じを覚えてすぐに手に取る。

“この手紙をあんたが読んでいるということはあたしはもう死んでるのね。あんたが嘘をつく時の顔はあたしが一番良く知ってる。嘘つきはお互い様だけどね。ずっと足を洗って欲しかった。ペペがぺぺでなくなっていくのを見るのが辛かった。先に地獄に行って待ってるから。どうか他の女は寄越さないで。あたしがヤキモチ焼きなのは知ってるでしょ?

 ロラより”

 あいつらしい金釘文字の並んだ手紙は、最後に記した名前の文字が微かに滲んでいた。

――ボーッ……。

 まだうっすらとラヴェンダーの香りが漂うバスルームで紙を握り締めたまま独り床に膝をついた俺の耳に遠く汽笛の音が聞こえてくる。(了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あの船に二人で 吾妻栄子 @gaoqiao412

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ