素子

木谷

素子

 太郎は窓の外を見ていました。

 5月になって、少し暑くなってきたかと思えば急に気温が10℃も下がりました。そうして気温の変化に体が適応しようとしている間に、雨の湿気が体の中に染み込んで心臓を濡らしていきます。

 水から茹でた蛙のように、知らず知らずのうちに心臓が濡れているので、いざ本格的に梅雨が始まっていくと、うつのどん底に突き落とされたような気持ちになって、ただでさえ暗い雲に蓋をされた水槽の中で、川が氾濫する前の圧迫感と、緊張感が一緒くたになって心が屈してしまうのです。

 

 さて、太郎は今朝、早く起きました。太郎は朝起きることが苦手でしたから、太郎が自分の基準で早めに起きたそのときにはもう、彼の友人たちはおろか、家人や近所の園児たちまでが、既に向かうところに到着し、することをしてしまっていたのでした。太郎にとっては日常茶飯事でしたから、ただ、今日もそうなのかと思っただけで、それで終わりでした。

 もちろん、太郎も彼らと同じくらいの時間に起き、顔を洗って朝ごはんを家族と食べて、それで生きていきたいと心から願っていました。それでも、適切な時間に布団に入り、適切な方法で眠りにつこうとすると、いつも眠れずに、瞼の裏の星々がそろそろ惑星直列を起こすのではないかと思うほど長い時間、布団の中で静かに呼吸をすることしかできないのでした。そうして、ふと目を開けると、昨日の夜、固く閉じたはずのカーテンから陽光が溢れてしまっているのでした。薬を飲んでみてもダメでした。

 太郎はそういう、どうしようもない目覚めを果たした後に、いつも部屋の掃除をするのでした。いらないものを探し出し、必要なものまで入ってしまいそうな袋にたくさん放っていきました。部屋は少しずつ、きれいになっていきました。

 

 袋を持った手で外を見つめながら、太郎はまた思い出しました。

 太郎は元から、友人や家族たちと同じところにはいなかったのです。誰も法律を知らないひとりだけの街に来てしまったかのように、太郎のことを心から理解する人はいません。

 太郎はそれを知っていましたし、友人や家族もそれを分かった上で太郎と接していました。太郎の足は、そこから動きませんでした。生きてきた20年ほどで、自分の人生がどんどんつまらなくなっていくのを、止めることはできませんでした。20年かけて構築した価値観に対して、それを裏切るように太郎の人生はうねりを描いていました。

 もちろん、友達と話が合うことは一生ないでしょう。そして自ら招いた境遇を恥じ、それを本当に打ち明けることはできずに、太郎はまるで友達と同じ人間であるかのように振る舞い、話を合わせます。この能力も、この20年で育ってしまっていました。そして話を続けるうちに、太郎はやはり、孤独を感じていきます。太郎はただ、そればかりを怖がっていました。

 そして当然時間が経つと、友達から太郎の元を離れていきます。太郎はそれが正しいと思いました。もしも、道を外れずにいて、太郎と友達の立場が逆だったとしても、太郎は自分の望む態度を取る自信がありませんでした。それが太郎を悩ませました。そして、その態度が正しいと思う故に、太郎も友達を遠ざけていきました。

 太郎は今、袋の中からノートを取り出し、空ページを開いてペンを取りました。そして、この文章を書き始めたのです。

 ああ、私はこんなふうに「太郎」などと嘘の名前を使い、比喩や婉曲表現を使って弱音を吐いている自分が嫌いなのです。

 真実を連ねる必要があるのなら、本当は自分の傷つく表現はたくさんありました。しかし私はそれを避けて、他人のせいにして、自分はただ可哀想な被害者だというふうに流されるままに動き続け、欲に弱く、人を遠ざけ、会話の流れを気にするあまり思ってもみないことを言ったり、人の言うことが頭に入らなかったり、怒られない相手にだけ強く当たり、自分に耳障りの悪い正論を言ってくれる人を嫌いになったりするのです。

私は、毎日毎日少しずつ、自分を諦めていきます。

私は、これから、どうなるのでしょうか。


 太郎は掃除を再開しました。

ひとつひとつをよく見て、袋にまとめて捨てていくその行為は、今の太郎にそっくりそのまま当てはまっていました。

自分を構成している一つ一つに期待して、その期待を裏切って、諦めて、捨てる。そうしているうちに部屋は綺麗になり、太郎を身一つで代表する最後の素子のようなものだけが残ります。

 太郎は自分が怖いです。諦めて捨てたひとつひとつが、自分にとって大切だったことに気づくのが怖いです。自分がいちばん必要だと思った最後の一つと、綺麗な部屋とを見比べて、そのひとつを捨ててしまうのが怖いです。

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素子 木谷 @xenon_xenon

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