第27話『お嫁さんはあいつが怖い』

 5月5日、金曜日。

 ゴールデンウィーク後半の5連休の3日目。

 今日は午前10時から午後5時まで、マスタードーナッツでバイトだ。連休中なので長めのシフトだけど、


「いってらっしゃい、和真君。バイトを頑張ってくださいね」


 と、家の玄関で優奈が笑顔で送り出してくれたので、これだけで今日のバイトを乗り越えられそうな気がした。

 今日は連休中で、朝からよく晴れているから、シフトに入ったときには多くのお客様が来店されて。ひっきりなしに接客するので、あっという間に時間が過ぎていく。

 忙しいけど、休憩のときには優奈とメッセージすることもあって。それに癒やされて、7時間のバイトも難なくこなすことができた。

 帰宅すると、


「おかえりなさい、和真君! 長時間のバイトお疲れ様でした!」


 と、優奈が笑顔で出迎えてくれて。優奈の可愛い笑顔と労いの言葉のおかげで、バイトの疲れが取れていく。帰る場所にお嫁さんがいるって凄いことなのだと実感するのであった。




 夜。

 夕ご飯を食べて、優奈と一緒にテレビのバラエティ番組を観た後、俺は自分の部屋に戻り、ゴールデンウィーク前の授業で出た課題をしている。

 一昨日も昨日も夜に課題をしていたので、今夜には終わるだろう。明日は優奈と琴宿で映画デートだし、明後日は日中にバイトがある、だから、今日には終わりそうで良かった。

 ちなみに、優奈はお風呂に入っている。優奈がお風呂から出たら俺も入ることになっている。

 今日はバイトがあったし、この家のお風呂は広いから、いつも以上に入浴が楽しみだ。そう思いながら課題をしていると、


「きゃあっ!」


 部屋の外から優奈の悲鳴が聞こえてきた。何があったんだ?

 急いで部屋を出ると……廊下に優奈の姿はない。今も洗面所か浴室にいるのだろうか。思考を巡らせていると、洗面所から再び「きゃあっ!」と優奈の声が響く。


「優奈、どうした? 何があったんだ?」


 洗面所の引き戸の前まで行き、普段よりも大きな声で問いかける。すると、


「和真君!」


 引き戸が勢い良く開かれ、桃色の下着姿の優奈が姿を現す。

 服の上からでもスタイルの良さや胸の大きさは分かっていたけど、下着姿だとより分かる。下着に包まれた胸の谷間が凄い。お風呂上がりだから、全身の肌の血色が良くなっていて、ボディーソープやシャンプーの甘い匂いが濃く香ってきて……って、今の優奈の姿や匂いを分析してドキドキしている場合じゃない。優奈が悲鳴を上げた理由を聞かないと。


「な、何があったんだ?」

「……ゴ、ゴキブリがいまして。洗面所に……」


 青ざめた様子でそう言うと、優奈は俺の背後に回る。その直後、シャツが引っ張られる感覚を覚えた。おそらく、俺が着ているVネックシャツの裾を掴んでいるのだろう。あんなに大きな声を上げていたし、優奈はゴキブリがかなり苦手なのだと窺える。


「分かった。俺が退治するから安心してくれ」

「あ、ありがとうございます。お願いします……」


 ゴキブリと出くわしてしまったからか、優奈の声はかなり弱々しい。

 ゴキブリを刺激してしまわないように、静かな足取りで洗面所の中に入っていく。それでも、シャツが引っ張られる感覚は続く。洗面所にはゴキブリがいるのに。俺から離れる方が嫌なのだろうか。


「優奈。どのあたりにゴキブリにいたんだ?」

「洗面台近くの壁に……」

「洗面台近くの壁だな」


 優奈に教えてもらった場所を見てみると……洗面台近くの壁にゴキブリがいた。結構な大きさで黒光りしている。あいつか、優奈を怖がらせたのは。これを見たら、優奈が大きな声を上げてしまうのも無理はない。


「ゴキブリ見つけた」

「そ、そうですか。で、では……そのゴキブリを退治してくださいっ」

「了解。ただ、ゴキブリは素早いし、飛んでくるかもしれない。捕まえるためにも、俺のシャツを離してくれると嬉しいな」

「わ、分かりました」


 優奈がそう言った直後、シャツを掴まれる感覚がなくなる。後ろをチラッと見ると、優奈は洗面所から出て、廊下から顔だけ出してこちらを見ている形に。

 ゴキブリは怖くないけど、素手で触れるほどの耐性は持っていない。洗面所に箱ティッシュがあるので、そこからティッシュを2枚取り出し、右手に乗せた。

 ゴキブリが逃げてしまわないように、手が届きそうな場所までそっと近づいていく。その甲斐もあってか、ゴキブリは全く動かない。


「……それっ」


 ゴキブリに向かって、ティッシュを乗せた右手を勢い良く伸ばす。


「きゃっ」


 空気の流れを感じたのかゴキブリは動き出す。それを見てか優奈は小さな声を上げる。その直後、右手には固い感触が感じられた。

 右手に力を入れながら、ティッシュに包まれたものを見ると……そこには優奈を怖がらせたゴキブリがいる。


「よし、ゴキブリ捕まえた」

「そ、そうですかっ。は、早く外に逃がしてあげてください!」

「分かった」


 外に逃がしてあげてと言うところに、優奈の優しさを感じる。真央姉さんもゴキブリが嫌いだけど、「スリッパか殺虫剤で殺しちゃって!」って叫ぶこともあったから。

 ゴキブリが逃げぬように、右手の力を入れたままリビングに行く。

 ベランダの窓を開けて、ゴキブリを外に向かって勢い良く投げた。

 リビングに戻ると、廊下への扉のところに、優奈が覗き込むように立っていた。


「外に投げてきた。だから、あのゴキブリはたぶん戻ってこないよ」

「そうですか。ありがとうございます」


 ほっとした笑顔で優奈はお礼を言ってくれた。ゴキブリが戻らないと分かったからか、優奈は俺の近くまでやってくる。……って、今も下着姿じゃないか。


「い、いえいえ。お嫁さんの役に立てて良かったよ」

「ゴキブリを見ても落ち着いていましたし、素早く退治してくれて。本当に頼もしい旦那さんですっ!」


 優奈はとても嬉しそうな笑顔でそう言ってくれる。俺が退治したことでこの笑顔を引き出せたのだと思うと嬉しい。


「小さければまだ自分で頑張れるのですが、あの大きさだと怖すぎて何もできなくて」

「かなり立派だったよな、あれ。まあ、昼中心に暖かくなる日が増えてきたし、今日も暖かかったからな。それで、ゴキブリが出たんだろうな」

「きっとそうですね。これからはより暖かくなるので、虫が出やすくなりますね。ゴキブリだけでなくクモも苦手で……」

「そうなんだ。クモとかも平気だから、虫が出たら遠慮なく俺に言ってくれ。今みたいにすぐに退治するから」

「分かりました!」

「……ちなみに、実家にいた頃に虫が出たときはどうしてたんだ?」

「陽葵と協力して退治したり、両親やおじいちゃんに頼んだりしました」

「そうだったのか」


 優奈と陽葵ちゃんと協力するのは……想像するとちょっと微笑ましい気分になる。優奈の御両親は落ち着いて退治しそう。そして、あのおじいさんは……「孫娘を怖がらせるとは何事か!」って怒りながら全力で虫を退治しそうだ。


「和真君が虫に強いと分かって嬉しいです……」


 優奈は笑顔が安堵したものになる。虫退治をしてここまで感謝されたり、褒められたりするとは。

 優奈の可愛い笑顔を見ていたので忘れかけていたけど、今も優奈は下着姿なんだった。それを伝えないと。


「……ゆ、優奈。早く寝間着を着た方がいいぞ。風邪を引くかもしれないから」


 優奈をチラチラと見ながらそう言う。


「寝間着を……きゃあっ!」


 優奈は顔を真っ赤にして悲鳴を上げると、慌てた様子で右腕でブラジャーを、左手でパンツを隠す。


「ゴ、ゴキブリのことで頭がいっぱいで、下着姿なままなのを忘れていました。こんなはしたない姿を見せてしまってごめんなさい……」


 優奈は俺のことをチラチラと見ながら謝罪してくる。


「あ、謝るようなことじゃないよ。俺もすぐに言えなくてごめん」

「い、いえいえ。そんな」

「……それに、初めて下着姿を見てドキドキするけど、下着が似合っていると思うし、体も綺麗だなって思う……って、俺は何を言っているんだ。優奈、ごめん……」


 夫だから言ってもいいのかもしれないけど、下着姿や体の感想を言ったことに罪悪感が生まれる。恥ずかしがって両手で下着を隠す姿が艶やかに思えてしまうことも。


「……そ、そうですか。似合っていますか。体が綺麗ですか。下着姿を見られたのは恥ずかしいですけど、和真君にそう思ってもらえたのは……う、嬉しいです。なので、謝る必要はないです……」

「……そ、そうか」


 互いにチラチラと見合い、目が合うと優奈ははにかむ。正直な感想を言ってしまったけど、優奈が嫌だと思っていないようで安心した。


「で、では、き、着替えてきますねっ」

「あ、ああ。俺は自分の部屋に戻っているよ」

「わ、分かりました」


 そう言って、優奈は足早にリビングを後にする。

 洗面所の扉が閉まって、カチャッという鍵の施錠音が聞こえてから、俺は自分の部屋に戻った。

 途中だった課題を再びやろうとする。だけど、優奈の魅力的な下着姿や、ゴキブリ退治をした後に見せてくれた笑顔が頭に思い浮かんでしまい、お風呂が空いたと優奈が教えに来てくれるまでの間、課題は全く進まなかった。

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