貪欲の傾斜

aki

第1話 幕開け

 にわかには信じがたいことだ。だが今まさに目の前でそれは顕現し、姿を見せた。信じて呼び出した割に、その驚きは類を見なかった。俺の目の前に現れたのは悪魔だ。と言っても、姿かたちが認識できない。そこに居るという事は確実に認知できるのだが、その見た目に脳の処理が行われず、ただ靄を見ているかのようだった。そんな確実でありながらも不確かな存在が、声としか認識できぬ声でこちらに問う。

「召喚したのはお前だな。契約をしたいということか?」

 悪魔はこちらに働きかけるが、はっきりと認識できないため夢を見ているかのようだ。だが、これが現実だということはなぜか確信めいているのだ。

「そうだ。しかしまあ、お前に対する認識が全くと言っていいほどできないのだが、姿はないのか?」

 目で見える、声が分かる。というのは話をする上で重要だ。それが何かを代償にしなければいけないことならより深い意味がある。それがないというのはやり取りもしづらい。

「呼び出した奴は皆そういう。お前らに我らは認知できぬ。我々は概念に近しく、我々に決まった姿かたちなどないのだ。」

 悪魔は事務的に契約だけを行おうとするのではなく、俺の質問にも取り合った。人間の言葉を話すのに人には見えないとは不可思議だ。

「さて、本題に入ろう。まずは契約についてのルールだ。これは絶対で変更はできない。注意しておけ。」

 悪魔が続けて言うと、今度は目の前に文字の羅列がシミのように浮かび上がった。それらのルールは目で追わずとも何が書いているかは脳で判断できた。


1.同じ系列の契約はできない。(例えば、何かを殺す契約を一度したなら、それに付随した契約は今後実行できない。)

2.具体性のない内容は契約できない。(幸福になりたい。等)

3.契約の対価は契約後に決まる。(必要な対価をあらかじめ用意することはできず、契約後にその代償が明確になる。)

4.大々的に根本から何かを変えるような契約はできない。(世界を変える。生まれを変える等。)

5.一度の召喚に複数の契約ができるが、代償は別々として換算される。

6.契約が決定すれば、今後それらの契約に対しての変更、撤回はできない。


「以上だ。何か分からないことがあれば聞いてやる。」

 と悪魔は文字列を消し、こちらに問いかけた。なんとなくではあるが頭に記憶できた。

「どうして、対価がこちらから提示できないのだ?」

 契約とは同意の上で行われるものだ。勝手に決められては困るものもある。

「良い質問だ。その対価と言うのは我々が決めるのではないからだ。簡単な例えを言えば、天秤にまず、お前が契約したい事柄を置く。それに見合う対価が判断され、もう片方の天秤にそれが乗せられ清算されるというようなものだ。それを可視化することはできないし、それをお前の裁量で決めることも不可能なのだ。しかし、何を失ったかは判断できるから安心しろ。」

 と自分の力では犠牲を選ぶことは出来ないという旨を悪魔が吐いた。しかし、先程勝手にされては困るとも言ったが、実のところ悪魔を呼び出した時点で多少の覚悟はある。何よりも代えがたいモノというのが人間にはあるのだ。

「わかった。もう一つ質問だ。根本から何かを変えることはできないとあったが、誰かを生き返らせるという自然の摂理に反することもできないのか?」

 俺は聞く。大事な質問だ。これが出来なければこいつを呼び出した意味はないのだ。

「それくらいならできる。だが、誰かの命となれば契約によってお前自身の命が損なわれる可能性もあることを忘れるな。」

 悪魔は興奮した様子でそう言った。それは警告ではなく、単なる揺さぶりの様だった。こいつらの契約におけるメリットとは何なのか。勝手に運命が決まるなら、特に間に入る必要も、利点もないのではないか。

「覚悟の上だ。早速契約をしてくれ。」

 気になることはあったが、この靄を目の前にすると妙に落ち着かない。さっさと終わらせてしまいたいという気にさせられる。

「了承した。では願いを。心で強く思い、自分がどれ程それに執着するか思い返せ。そうすれば契約は完了する。」

 悪魔がそう言うと、俺は無意識に目を閉じ、心から強く願う事を心の中で叫んだ。どうか、姉を生き返らせてくれ。俺の命がなくなってもいいんだ。俺が強く念じた瞬間、杭に貫かれたような衝撃が全身を襲った。しかし、それは代償によるものではなかった。

「契約は完了したぞ。どうやらお前の身は大丈夫みたいだな。代わりに友人を無くしたか。」

 契約は終わった。俺は、事実が変わったということを自然と痛感できた。代償に一番の親友がこの世を旅立ったということも揺るぎない事実だとなぜか理解できた。そして、姉が生き返ったということも。悪魔はそれだけ言うと、視界から消え、俺はいつの間にかこの召喚を最初に行った儀式の間に一人立っていた。

 急いで家の地下に増設したその部屋から飛び出し、一階のリビングに向かった。そこには俺の望んでいた姉が、ソファに横になる形で寝かされていた。姉はちょうど一年ほど前に他界し、その姿を見るのは随分と久しかった。親友を失ったのは相当な不幸に当たるが、最愛の姉がそこにいる感動は形容しがたいものがあった。

「姉ちゃん!」

 声のトーンを上げ、俺はその横たわる姉に駆け寄った。あっちを向いて横になっている姉の肩に手を当てて、こちらに転がすように向かせた。だが、姉に意識はなかった。

「俺だよ。「リーザフ」だよ。どれだけ会いたかったか。なあ、起きてくれよ。」

 その後何度も呼び掛け、肩を揺するが反応はなく、目を閉じたままだった。息はあったが目覚めることはなく、俺の心から望んだ再開を果たすことは出来なかった。生き返ったのは事実だが、これでは納得なんてできたものではない。息をするだけで、何も出来ないことは本当に生きていると言えるのか。

「くそ。余りに酷いぞ。」

 悪態をつき、その場へ座り込んだ。代償となった親友の命も俺にとってはかけがえのないものの一つだ。その命は軽々しいものではなく、姉を失った俺にとっては心の支えとなってくれている人物だったのだ。何かを失うことは分かっていた。それでも動かぬ姉と心の友の命とでは代償が不釣り合いにも程があった。悪魔など頼るべきではなかったという後悔も沸いて出たが、他に手段もなく、願いの強さで言えば何もかも捧げられるくらいのものであったため、全くの無意味とは感じられなかった。

「一応。確認するが。」

 親友の死は絶対的なことだとわかっていたものの、その天啓を確認することにした。

 俺は2ブロックほど先にある親友の家まで赴き、その家の戸を叩いた。親友は「デント」という名の男で、ここでは一人で暮らしていた。

「デント。俺だ。聞こえるか。」

 何回か玄関のドア越しに声を掛けるが、中からは物音ひとつ立ちはしなかった。

「入るぞ。」

 ドアにカギは掛かっていなかった。ゆっくりと開け、恐る恐る居間に歩いていく。廊下を歩き、居間のドアを開けて直ぐに硝煙の匂いが立ち込めた。そして目の前には落雷の後の様な焦げ付いたひび割れがあり、その中央にデントが着てたであろう衣服が散らばり、禍々しい手の平程の大きさの石像がその中央に、デントの代わりの様に置かれていた。まさに悪魔の仕業というべきこの光景を目にし、やはり、天啓に狂いがなかったと知る。彼の遺体は何処にも見当たらず、きっとこの硝煙を引き起こした何かによって跡形もなく消え去り、絶命したことが予想される。

「デント。済まない。お前は何も関係ないのに…俺のせいで。」

 その場に崩れ、首を垂れる。苦しかった。それに尽きる。それも耐え難いものだ。もう二度と会うこともなく、話すこともできぬのだ。昨日まで酒を交わしていた陽気なデントはもういない。なぜ俺は失うものなどないと高を括っていたのだ。悪魔との契約はそう都合の良いものではないと理解していたはずなのに、失ったものを目の前にして自分の愚かさに嘲笑が沸いて出た。

「俺って奴は救えないな。つくづく屑だ。」

 俺はこの現実をまだ処理し切れていないようで、深い苦しみは感じていたものの、立ち上がることが出来た。

「酒だ。帰って飲もう。」

 当然、何かを手にしたような気分にはなれず、ひとまず今夜のことは考えたくなかった。哀悼を背にデントの家から立ち去り、家に帰った。

 家の居間に着くと、姉の姿が目に入ってくる。未だ起きる気配など微塵もなく、死んだように眠り、呼吸を行っている。

「くそ。なんだってこんな。」

 せめてものという思いで姉を寝心地のよさそうな姿勢にして寝かせ、キッチンからウィスキーのボトルを持ってきて姉の横に座り、それを呷った。

「畜生。もう失うものなんてないんだ。今度は姉を普通に生活できるようにしてやる。」

 後悔のど真ん中にいるはずの思考の中で、また契約することを考えてしまっていた。他に当てもなく、契約によって奇跡の様なことが実現したというのも事実なのだ。コンコルド効果と言うやつか。一度大切なものを失ってしまった俺は、もう後戻りなどできない。姉の元気な姿を見るまでは浮かばれるわけなどない。

「待てよ。失うものが無いなら、デントも生き返らせるのでは。今度こそ俺の命がなくなるかもしれんが。償いにはなる。最期はそうするか?」

 変な思考が巡り、そう呟いた。また、姉の元気になる姿を見るためには何が必要になるかとも考えた。もし今回の様に不釣り合いなものだというなら俺が死ぬようなこともあるかもしれない。デント程心を預けられる人間は今のところ居ないし、そうなれば犠牲が勝手に他に及ぶようなことも避けられるだろう。しかし、まあ酷いものだ。俺から何か奪うならまだしも俺の大切にしている、それも今回の事とは関係ないものを奪うのだから。

 もう、思考が滅茶苦茶だった。悪魔への憎しみもあるが、奇跡に頼るしかないと心では分かり、どうも悪者扱いし切れなかった。デントの死と姉の良からぬ蘇生。考えてもなかったことが同時に起こり、冷静な判断などできるはずもなかった。気づけば俺は居間のソファで眠りに就いていた。

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