第7話 三か月後・前
俺の日常に変化があった。朝起きるのが少しだけ早くなったし、食事の量も増えていた。ハチスの作る飯がうまいのもあるが、やはり一番の理由は家賃が払えるようになったことだ。
「今日から、もう少し早く帰れそうです」
この間、ハチスが嬉しそうに言った。正社員になったのでたくさん残業をしなくてもよくなったのだ。
「そうか、もう三か月か」
「早いですね」
「そうだな」
「あなたも、随分変わりましたね」
確かに、俺の生活スタイルはかなり変わった。まず、昼過ぎまで寝なくなった。起きても、テレビを観たり漫画を読んだりしてダラダラしていない。ハチスが仕事に出かけている間に、簡単な掃除をする。洗濯はハチスがしてくれるので、俺は布団を干したりするだけだ。
あと、俺のほうでも金を稼ぐことにした。動画をアップロードするだけだが、それなりに収入になる。やっぱり、モザイクが無いほうが高値で売れる。
俺はハチスのおかげで健康的な生活を手に入れた。それに、金があるというのも素晴らしい。
「お前のおかげだよ」
「いえいえ。あなたが頑張った結果ですよ」
ハチスは照れたように笑った。
気まぐれに、ハチスの職場に向かった。十分な貯蓄があって、新しい服を身に着けた俺には謎の自信があふれていた。それに、彼がどんな感じで働いているのかを見てみたかった。
その教会は、中心部からちょっと外れたところにある。歩いていると、遠くからでも十字架が見えてくる。石造りの建物にステンドグラス窓。歴史ある建物だと聞いた。一番高いところに十字架が掲げられている。まだ始まっていないのか、受付を通っている人がそこそこいる。俺もそれに紛れて中へ入った。神社でいう手水所みたいなのがあり、他の奴らに倣って手を洗う。以前はこんなに人がいなかった気がする。
共有の聖書を持たされ、礼拝堂に入ってみると、中はさらに豪華だ。天井が高く、奥には祭壇があり、大きな像がいくつか置かれている。真ん中のはマリア像っぽい。中央通路を挟んで左右に長椅子がある。正面の壁にステンドグラスが嵌め込まれており、そこから差し込む光が床を彩っている。パイプオルガンがあって修道士っぽい人が演奏している。
最初は讃美歌から始まった。歌詞がわからない。周りを見たら聖書を見ていたので俺も開いてみると、後ろのほうに歌詞が載っていた。リズムは一回聞けばわかったが、タイミングが難しい。というか馬鹿馬鹿しい。口パクで過ごそう。
歌が終わると、司祭が壇上に上がる。白っぽい服の上に緑色のストールみたいなやつを着ている。
「今日も良い天気に恵まれましたね」
彼は挨拶をする。頭には白髪がちらほら見え、声には渋さがあるが、顔には目立つしわもない。それから聖書の朗読を始めた。
俺は後ろのほうで聞いていたが、退屈だった。聖書を読み上げる声は単調で眠気を誘う。テキトーに別のページを開いてみるが何が言いたいのかがわからない文章が続く。っていうか文字小せぇ。欠伸をしながら聞いていると、いつの間にか終わっていた。
次は説教だった。これもつまらん。説教を聞いていると頭が痛くなる。
無理だ、退屈すぎる。もう席を立とうかとした時、一番前の右の長椅子の端っこにハチスが座っていることに気が付いた。長い髪は後ろで緑色のバレッタで留められている。黒い服を着ているらしい。髪の色もあるだろうが、心なしかその空間だけ明るく輝いているように見える。
頭の動きを見ていると、どうやら手元の聖書を目で追いながら司祭の話し方を見ているようだ。勉強中の身なのだろう。真面目な奴だと思うと同時に、俺の知らないところで頑張ってるんだなという気持ちになる。
すると司祭が言った。
「お祈りをしましょう。ハチス神父さん、前へ」
「はい」
ハチスは立ち上がる。すると、周りの人間が一斉に息を呑んだ。まるで女神が現れたかのような反応である。なるほど、確かにハチスは綺麗だ。男だけど。というか、天使だけど。まさか誰も、本物の天使が働いているとは思うまい。
ハチスは壇上に立つと、みんなを見渡し、いつも通りに微笑んだ。その笑顔に虜にされた奴がたくさんいるんだ。俺もその一人だし。それにしても、黒い服に身を包んでいる彼は新鮮だ。いつも白のワイシャツと青のジーパンだし。
ハチスは胸の前で手を組んで目を閉じた。俺もそれに倣って目を閉じ、祈るふりをした。
「天にまします我らの父よ、願わくは御名を崇めさせたまえ。……」
ハチスの声だけが聞こえる。建前として口は動かしてるだろうが、彼の声は脳に直接響く。すると心に刻み込まれるように聞こえるのだ。なるほど、司祭の奴、狙ってんな。ナイスキャスティングだ。有能すぎる。
祈った後は献金の時間があり、そのあとは今後の行事のお知らせと、司祭による個別相談の受付の告知がされ、解散となった。
俺は、ハチスのところへ向かう。控室っぽいところにいた。彼は俺を見ると、知っていたかのように嬉しそうに微笑んだ。
「お疲れ様です」
「ああ。俺が来たの気付いてた?」
「ええ。気配がしました」
「ふうん」
俺はハチスのお尻を触った。男と女の双方を兼ね備えた柔らかい感触がある。これは彼にしかないものだ。
「どうでしたか? 初めてのミサは」
「つまらなかった」
「そうですか……」
ハチスは落ち込んだ感情を顔に出した。あ、この顔でも落ちる奴いそう。
「お前は楽しかった?」
「はい。司祭様の話し方はとても勉強になりました。あと、みなさんの表情が見れて良かったです」
「そうか。仕事は楽しいか? 辛いことはあるか?」
「いいえ、ありません」
「ならいいんだ」
俺は少し安心した。俺のためとはいえ、無理して働くより楽しんでくれたほうが気が軽い。
「司祭様からは、よく働いてくれるって褒めてくださるのです。私のおかげで入信される方が増えたと仰っていました」
ハチスは得意げな顔でそう言った。
「それは凄いな」
俺は素直に感心した。
「ありがとうございます。ところで、なぜお尻を撫でているんですか?」
「おっと、悪い」
パッと離す。
ついやってしまった。反省しないと。
でも、こんなことをしてしまうのは、彼が魅力的だから仕方がないと思うのだ。他の奴らにはできない、俺だけの特権だ。
「この後は何かあんの?」
「あとは礼拝堂のおそうじでしょうか。それと、信徒の方から手紙を預かっているので、それを司祭様に届けます」
その手紙、お前宛だったりしないか?
「そっか。じゃあ、公園で待ってるわ」
「わかりました。終わったらすぐ行きますね」
「おう」
「では、いってきます」
「いってらっしゃい」
ハチスは去っていった。
教会を出ると、ほんのりと雲が赤い。教会のすぐ隣には、広い公園がある。歩道の石畳と遊具を避けて全体的に芝生が生えており、所々に木製のテーブルとベンチがある。俺はベンチに座って待つことにした。
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