💰ボクと取引をしない?


 夕食の間、ダリスはずっと「もうダメだ」とか、「出る杭は叩かれるんだ」とか、「クレープもいいな」とか、一人でブツブツと呟いていた。

 すっかり参ってしまったらしいダリスの様子に、チトセはチャンスが訪れたことを確信する。


 真っ青な顔で執務室へと戻っていく、ダリスの背中を静かに追う。

 頭の中がいっぱいいっぱいなのだろう。

 チトセがすぐ後ろを歩いているのに全く気づかない。


 ダリスが入った執務室の扉は、あの日からずっと壊れたまま。

 本来開く方向とは逆側に開いている扉を、静かにノックして室内に入る。


「……チトセか。何の用だ?」


 こんなにボロボロの状態になっても尚、チトセの前では強がった態度を崩さない。


 チトセが扉を壊した日から、二人の間にはちょっとした溝ができている。

 以前はクレープひとつを手土産に相談に来ていたダリスが、自らチトセに助言を求めてこない程度には深い溝だ。


 だからチトセは、自身の目的のためにこの溝を利用することにした。

 ダリスが苦しんでいることはわかっていたけど、あえて放っておいた。


 それが最善だ、と判断したから。


 チトセは満を持して問いかける。


「ねえ、ボクと取引をしない?」

「取引?」


 そう。取引だ。

 ダリスと出会った日にも、二人は取引をした。

 チトセは彼にこの世界で生きていくためのサポートをしてもらう代わりに、彼の剣となってモンスターと戦うことを約束した。 


 あの頃のチトセは、取引に出せるモノなんて何も持っていなかった。

 だけど、今は違う。


 ホークスブリゲイドの人海戦術によって、ダリスは危急存亡ききゅうそんぼうときを迎えた。


 チトセの知識と能力ケイパビリティを最も高く売れる、最高のタイミングが訪れた。


「ボクが、ダリスを勝たせてあげるよ」

「………………」


 しばらく待つも、返事が返ってこない


「ホークスブリゲイドに、ショウに勝ちたくないの?」

「………………」


 返事どころか反応もない。

 ただの屍じゃないんだから、「うん」とか「すん」とか「ぽん」とか言ってくれ。


 デスクに置かれた燭台の薄明りに、ぼおっとダリスの顔が照らされている。

 顔はチトセの方を向いているのに、よくよく見たら目の焦点が合っていない。


 まるで幽鬼のような顔をしたダリスが小さく口を開く。


「……そうだな。……チトセなら、アイツにも勝てるんだろうな。きっと」

「ダリス?」

「でもそれは、チトセが勝つんであって、俺が勝つわけじゃない」

「なに言って――」

「そうじゃないか! 俺なんかじゃショウには勝てないって、だから自分が力を貸してやるって、そう言いたいんだろ!?」


 ダリスの両掌りょうてがテーブルを強く叩いた。

 バンッと音が響いたあとは、堰を切ったように、次から次へと言葉がこぼれ出す。

 

「俺は……前世で社畜だったんだ。来る日も来る日も、与えられたノルマをこなすために営業をかけて、上司から指示されたとおりに交渉をして、終電で帰って、始発で出社して、もちろん勤怠システムは九時六時に固定で残業代なんか都市伝説。何のために仕事をしているのか、この仕事がどういう役に立っているのか、わからないまま、わかろうともしないまま、ただ命令されるがままに意思もなく働き続ける、会社に飼われた家畜だった。

 だからこの世界に転生して、真・鑑定のスキルに気がついたときは本当に興奮した。他人のステータスを判別できるこの能力さえあれば、今度こそ俺は成り上がることができるって、俺だって何者かになれるって、そう思ったんだ。

 でも……世の中はそんなに甘くないってことだよな。俺なんか器じゃないっていうか、生まれ変わっても無能は無能っていうか、きっとこの世界でも…………って。ねえ、俺の話、聞いてる?」


 大きなあくびを左手で隠しながら、チトセはコクコクとうなずく。


「聞いてた。ダリスは前世で社畜だったんだね。そっか、そっか」

「一番最初のワンセンテンスで力尽きてんじゃねえか」


 仕方がないじゃない。

 オッサンの自分語りとか、校長の式辞挨拶と同じくらい退屈なんだから。

 ましてや中身がオッサンの前世語りなんて、眠らずに起きていられただけでも褒めて欲しいくらいだ。近代史の授業の方が何倍も面白い。


「大変だったんだなあ、って思いましたまる」

「感想が小学生並みっ!!」

「それはともかく。ダリスは大きな間違いをしているよ」

「間違い?」

「そう。大きな大きな間違い。ダリスに本当に必要なものは、モンスターを倒す戦闘力でもなければ、駆け引きを制する頭脳でもない。もちろん、ビジネスの知識でもない」

「なんだよ、それ。戦闘力でもなくて、頭脳でもなくて、じゃあ、本当に必要なものってなんなんだよ」

「それはね、冷静な判断と素早い決断」

「判断と決断?」


 世に経営者と呼ばれる人は数多いるが、生き残れる者はそう多くはない。

 では生き残れる者と、敗れ去る者の大きな違いはなにか。


「生き残るために、勝つために、何をすればいいかを判断する。考える役目は自分でなくたって構わない。選択肢はどれも正しく見えるけど、選べるものは一つだけ。それでも歯を食いしばって決断する。それが『経営者』に本当に必要なもの」


 冷静な判断をできなければ会社は進むべき方向を見失い、決断を先延ばしにするほど問題は大きくなっていく。


「だからね。勝つために必要なら、人の力を借りることなんて何も恥ずかしいことじゃないんだ。むしろ積極的に借りていくくらいじゃないと」


 もちろん技術レベルが高かったり、営業スキルが高い経営者は優秀だ。ビジネスの知識だって無いよりはあった方がいい。

 でもそれらは、社内、もしくは社外の人に任せることができる。


 つまり、その役目はチトセでも問題ない。

 それでも唯一、判断と決断だけは絶対に経営者がやらなくてはならない。


 今の状況だって元はといえば、ショウから取引を持ち掛けられたときに、ダリスがくだらない理由で断った――判断と決断を間違った――ことから始まっている。だけどまだ、ここから巻き返すことはできる。


「それじゃあ、もう一度聞くよ。ボクと取引をしない?」


 これでも決断できないようなら、彼はそれまでの男だということだ。

 だけど、ダリスならきっと。




💰Tips


【危急存亡の秋】

 生き残れるか、滅亡するかの瀬戸際の時期。

 危急存亡の“時”ではない。


 三国志に登場する諸葛亮孔明が書いたとされる文書に記されていた「今天下三分して、益州疲弊す。 此れ誠に危急存亡の秋なり」に由来する。

 秋は生きていくのに欠かせない穀物の収穫時期であり、一年で最も重要な季節であったことから、『重大な時期』という意味がある。

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