【更新無期停止】突然

貴音真

第1話「女と強盗」

『はい。救急ですか?消防ですか?』

!」

 電話の向こうの冷静な声に女は興奮した様子で答えた。

『申し訳ありません、もう一度落ち着いてお願い致します』

「あ、あの!帰ったら男の人部屋にいてあのその……」

 何度も言葉をながら話すその女は完全に取り乱していたが、通話先のオペレーターに落ち着くように諭されると少しずつ冷静さを取り戻し、やっとの事で自身の置かれた状況を説明する事が出来た。

 女の置かれた状況を説明するとこうである───


 女は陸の孤島とも言える山間やまあいにて小さな山荘を営んでおり、その山荘から最寄の人家までは車で三〇分程の位置にあり、消防、救急、警察などの機関があるのはそこから更に車で三〇分程度の位置となる為、山荘とそれらの機関との往き来をするには片道一時間程度掛かる。

 この日、月に二度の買い出し日に伴い山荘の営業を取り止めていた女が買い出しから帰るとそこに男がいた。

 男は女が留守であった為に空き巣に及んでいる最中であったと思われ、その手には刃渡り二〇センチ程のサバイバルナイフが握られていた。

 このナイフが悲劇を生んだ。

「て、てめえ誰だ!?」

 男は女に怒鳴り付けた。

「えっ!…あ、はい。私は早乙女さおとめ乙女おとめです。一応この山荘の主人です。ところで貴方はお客様ですか?すみません今日はお休みなんですよ。あ、でも折角来てくださったのですからお食事かお飲物程度で宜しければおもてなし致します。直ぐに用意しますのであちらの広間にてお待ちください。コーヒーと紅茶、どちらになさります?」

 女は男の声の大きさに一瞬驚いたものの冷静に男の質問に答え、そして手にした荷物を床に置くと靴を脱いでスリッパに履き替え、再び荷物を抱えてキッチンルームへ向かおうとした。この時、女が男の手に握られたサバイバルナイフの存在に気が付いていたら結果は変わっていたのかも知れない。

「お、おう、すまねえな。じゃあ紅茶で…ってそう言う事じゃねえ!なに普通に喋ってんだ!こいつが見えねえのか!?金だ!金を出せ!」

 男は手にしたサバイバルナイフを自身の胸先に構え、女に見せつける様にしてと揺らした。

 その時だった。

「ひいやああああああああ!!」

 突如女が大きな悲鳴を上げた。

ですう!!アシダカ軍曹ですううううううう!!」

 叫ぶ女の抱える荷物の中には一匹の大きな蜘蛛がおり、成人男性のてのひらに匹敵する体躯からだを持つその大きな蜘蛛を見た女は手にした荷物を男へ向けて放り投げていた。

 この蜘蛛、その名もアシダカグモという。

 凡そ日本国内に似つかわしくないそのきょが故に一見するとタランチュラ類の仲間に見えるが人体へ影響を及ぼす毒性はなく、巣を張らずに動き回る徘徊性の蜘蛛であると共にゴキブリ、場合によってはネズミまでも捕食する事から所謂益虫の部類に当たる。

 だが、その見た目のインパクトは益虫と呼ぶには余りにも目を見張るものがある。

 何しろ前述の通り、成人男性のてのひら程の大きさがある蜘蛛がゴキブリやネズミと変わらぬスピードで跳ね回るだけでなく、このアシダカグモには全ての獲物を仕止めるまで狩りを止めない習性がある為、仮に一匹のゴキブリを仕止めて食事をしているアシダカグモの横を違うゴキブリが通り過ぎた瞬間にはその二匹目のゴキブリを追い回すというのだから凄まじい狩猟本能である。

 そんなアシダカグモのハンティングを初めて目の当たりにした際のインパクトは尋常ではないと言えよう。

 食欲よりも狩猟本能……

 この習性ときょにより、アシダカグモは一部で軍曹などと呼称されて畏怖されている。

 その軍曹が女が荷物を置いた一瞬の間に荷物の中に入り込んでいた。

 山荘を営んでいる女にとって軍曹は見慣れている存在であり、時折入り込んでくる厄介な野ネズミなどを退治してくれる同志である。

 だが、いかに同志であろうとも蜘蛛は蜘蛛であり、突然現れたら驚くのも無理はなかった。

「うおっ!?なな、なん…うわああああああああ!?で!……あぐあっ!!」

 男へ向けて放り投げられた荷物、そしてその荷物に入り込んだ軍曹。

 それは正しく悲劇だった。

 軍曹は男の顔に引っ付き、それに驚いた男は足を滑らせた。

 そして男は手にしたサバイバルナイフを宙に放り、そのサバイバルナイフが男の腹を突き刺した。


 ───こうして女は携帯の電波の届かない山荘に唯一備え付けられた連絡手段である固定電話から緊急連絡をしたのである。


『状況はわかりました。既に隊員と警察を向かわせましたが、何分遠いので暫く掛かると思われます。ですので、到着するまでこちらの指示に従って応急処置をお願いします』

「わ、私がですか!?」

 女は自身にそれが出来るのかと不安になり思わずオペレーターに問い掛けていた。

『はい、お願い致します。大丈夫ですから落ち着いて指示に従ってください』

「……わ、わかりました。やってみます」

 女は神妙な面持ちで答えた。

『それでは先ずは男性に呼び掛けて意識を確認してください。痛む箇所について明確に答えられるかで判断しますので、どこが痛むか聞いてくだされば結構です』

「わかりました」

 女はの向こうにいるオペレーターの指示に従って男へと声を掛けた。

「あの、大丈夫ですか?どこか痛いところはありますか?」

「は、腹がものすごく痛い……つか当たり前だろ……ぐううう……」

「すみません。そうですよね。……あの、ナイフが刺さったお腹が痛いと答えてくれました」

『わかりました。意識ははっきりしている様ですね。では痛くても絶対に刺さった物を抜いたり動かさないように伝えてください。それから───』

 女はオペレーターの指示に従い、男に応急処置を施した。

 そして……

『───では、処置はこれで終わりです。到着するまでこの電話は切らず、何か容態に変化があったら必ず直ぐに報せてください』

「わかりました。到着をお待ちしています」

 女は子機を近くの棚に置き、ほっと胸を撫で下ろした。

「……お、おい……」

「はい?」

「はい?、じゃねえよ……俺、このまま……し、死ぬのかな……?」

 応急処置を受けた男はすっかり弱気になり、女に対して自らの容態を確かめるようにして語り掛けた。

「何言ってるんですか、このくらいの出血なら死にませんよ」

「はは……あんた、強いな……なんか悪いことしちまったな……」

「はい?何がです?」

「……あんた気付いてないのか?俺、空き巣に入ったんだぜ?」

「えええええ!!?」

「……本当に気付いてなかったのか……」

「空き巣……そうですか、空き巣に……」

 男が空き巣に入った。

 その事実を知った瞬間、女の声が暗くおぞましいに執り憑かれた様に変化した。

「……お、おい、なにして……」

「何って、わかりません?これは撒き餌です。アシダカ軍曹を呼ぶ為の。ほら、動いちゃダメですからね?動いたら死んじゃいますよ?ふふふ……」

 女はそう言いながら近くに転がっていた荷物の中に入っていた生きた沢蟹を男に向けてぶちまけた。

 すると、どこからともなく一匹の大蜘蛛が、先程男の顔に止まったアシダカグモが現れてそれを追い回し始めた。

「ひいいいいいいい!!やめでぐれええええええ!!」

 アシダカグモは、顔で、腹で、股間で、肩で、男の肉体からだの様々な場所で動き回る沢蟹を次々と仕止めていった。

 女はそれを見ながら更に沢蟹をぶちまけた。

 アシダカグモは軍曹の異名に相応しいハンティングを繰り広げた。

「ぎいやあああああああ!!取ってくれえええええええ!!俺は蜘蛛が苦手なんだああああああ!!」

 男は自身の腹にナイフが刺さっている事も忘れ、叫び、そして悶え転げた。

 傷口からは血が噴き出し、明らかに致死量と思われるおびただしい血が辺りを赤く染めた。

『どうしました!?どうしました早乙女さん!?何かあったんですか!?』

 オペレーターが呼び掛けると女は子機を手にして答えた。

「あ、あ……あの!買い物の荷物に蜘蛛が大きな蜘蛛が!それで男の人が暴れて血が!」

『落ち着いてください。蜘蛛がどうしたんですか?』

「蜘蛛が!!」

 女はそう言いながら心の中でこう言った。


 私の両親は空き巣に殺されたのよ……

 空き巣なんてみんな死ねばいいのよ……


 血溜ちだまりの中、体躯からだを真っ赤に染めたでアシダカグモが沢蟹を追い掛けていた。

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