海月の歌
ンガェヒゥ
第1話
葉子が死んだ、と聞いた時私が抱いたものは、悲しみでも、空虚さでも、驚きでも無かった。
そこにあったのは、確かな納得だけだった。あるべきものがあるべき場所にようやく収まった、という、安心を伴う納得感。
お葬式で葉子の横たわる姿を見た時も、遺族に挨拶する時も、涙が流れるなんてことは無かった。
実感が無い、という訳では無かった。悲しすぎて逆に涙が出なかったなんて事でもない。葉子の死は事実として受け止めていたし、理解も出来ていた。ただ、私にとって葉子の死は「ようやく葉子が葉子になった」という納得があっただけだった。
葉子は不思議なひとだった。とても力強く輝いていて、それなのに目を離したらふと消えてしまいそうな儚さも持ち合わせていた。確かに生きているのに、どこかが決定的に浮ついている。
極端な言い方をすれば生きていることのほうが不自然に思えてならなかった。
葬式が終わってもう一度遺族に挨拶をして、私は堤防に向かった。
葉子は海が好きだった。好き、と言っても潜るわけでも水遊びをするわけでも無くて、ただじっと波打ち際で横になっているばかりだった。私はそれを少し離れた場所で眺めていた。
「何の意味があるの?」と訊いたことがある。ずっと昔のことだ。葉子のそれは小学生の時から続いていた。
「さあ」
「わからないの?」
「わからない。でもこうすると、安心するの」
「どうして?」
「さあ」
私達は結局何もわからないまま、そのまま黙って過ごしていた。
数時間後、探しに来た親にひどく叱られたのを覚えている。その時の葉子はまるで反省した様子も見せずに、ただ、少し悲しそうに俯いていた。それが怒られて悲しいだとか、そういうところから来る表情でないのだけはなんとなく分かった。
堤防の上に寝そべる。少し大雑把な感触のコンクリートは硬くて、中々に寝心地が悪い。海風はまだ少し冷たくて、小さく身震いをした。陽の光は暖かくて結構気持ちが良い。
波の音が好きだった。目を瞑ってその音に心を預けると、何処までも行けてしまいそうな気がするのだ。
私の心の全部を包み込んでくれるような音。暖かな陽ざしと肌を撫でる少し冷たい海風、遠くに聞こえる船の音。
平穏だった。先程までの息が詰まるような空気はそこには微塵も感じられない。
葉子の突然過ぎる死に、葉子のご両親はひどく沈んでいた。それはそうだ。葉子は傍目から見て変わっていたとはいえ、将来を有望されるほど才能に溢れていた。何をやらせても一番で、なのに自慢気にすることもなければ才能をひけらかしたりもせず、誰に対しても優しかった。
すごかったのだ、葉子は。それなのに私なんかとずっと一緒に居てくれた。
そんな葉子が死んでしまえば、多くの人が悲しむのは当たり前だった。けれどその悲しみはどこから来るのだろう。喪失?痛み?あるいはもったいないという感情?そのどれも葉子には似合わない。
葉子はきっと人でいられなくなったのだ。人という枷では縛り付けられなくなって、葉子は葉子になった。
死んだと言えばそうなのだろう。葉子の肉体は死んだ。けれどそれだけだ。彼女ならすぐにでも生まれ変わって、自由気ままに過ごしているに違い無かった。
葉子を見つけなきゃ。
陽に晒されてじんわりと身体が温まる中で起き上がりながらそう考える。私なりの恩返しだった。それに約束もしていたから。
生まれ変わって気ままに過ごしているのだとしても、葉子はきっと寂しがっている。
葉子が実は寂しがり屋だということを、ほとんどの人は知らない。知ろうとしなかったから。
「葉子は何でも出来るから」なんて言われて、実際葉子は何でも出来て、だから皆が彼女の表面だけを見て、その奥底を理解しようとしなかった。
彼女の本当を知っているのは私だけ。彼女が本当を見せてくれたのも私だけだ。
私はそれが誇らしかった。葉子の特別だというその証拠が、何よりも。
家への道を辿りながら、考えを膨らませる。
葉子は何になっているんだろう。葉子は海が好きだった。だから居るならきっと、海の中だ。でも、海は広い。途方も無く広がっている。その中から葉子を見つけ出すことが簡単じゃ無いことくらいは分かっている。
でも私には自信があった。葉子がたとえどんな姿になっていても、私には絶対に分かる。
けれどもやっぱり、一人じゃとてもじゃないけど厳しい。あんまり気は進まないけど、他人に頼らないといけなかった。
*
「葉子を知らない?」
麻衣ちゃんからそう訊かれた時、軽く目眩がした気がした。
「誰って?」
私は惚けたフリをして聞き返す。聞き間違ってなどいないし、もちろんハッキリと聞こえていたけれど、それでも聞き間違いであって欲しかった。
「葉子。どこに行ったか知らない?」
今度こそ目眩がした。
葉子は私の妹だ。麻衣ちゃんはその友達で、小さい頃から良く知った中だった。何をするにも一緒で、よく突飛なことをする葉子の世話をよく見てくれていた。歳が離れていることもあって、私を姉のように慕ってくれて、私自身麻衣ちゃんをもう一人の妹のように感じていたし、そう接していた。
けれどそれは葉子が死ぬまでの話だ。葉子が死んでから麻衣ちゃんはぱったり家を訪ねてこなくなったし、顔を合わせる事すら無くなっていた。その間どうしていたのかは全く知らない。私としては、きっと悲しんでいるのだろうなと思っていた。それは間違い無くきっとそうだっただろうし、この小さな町で見かけなくなったのもそれが原因なんだろうなと思っていた。だから無闇にこちらから訪ねたりもしなかったのだ。つまりちょっとした気遣いとも言えるものだった。
けどそれは間違いだったのかも知れないと、今になって思った。きっと無理にでも訪ねるべきだったのだろう。だってこんな世迷い言を言い始めるだなんて、思いもしていなかったのだ。
「知らないの?由加さんなら知ってると思ったのに」
その言葉にははっきりと失望が滲んでいた。知らないも何も、葉子は死んだのだ。間違い無く死んで、今は小さな骨片と塵だけになっている。それをはっきり伝えないといけないと分かっているのに、それを言ってしまったら、麻衣ちゃんが今度こそ決定的に崩れ去ってしまいそうで心底恐ろしくなった。
「知らない……」
だから嘘を吐いた。麻衣ちゃんが壊れてしまわないように、その戯言に付き合うことにした。
「じゃあ一緒に探そうよ」
「え?」
「葉子、一人で寂しいと思うんだ」
至極当然とでも言うかのような口ぶりでそんなことを言う麻衣ちゃんに、私は何かを言い返すこともできずに「うん」とだけ呟いた。
狂っている。そう思った。
麻衣ちゃんの「葉子探し」は、端的に言って常軌を逸していた。
「違う」
麻衣ちゃんはそう呟いて、浜辺に打ち上げられた、多分クラゲだった何かを海に投げ入れた。
「麻衣ちゃん?クラゲはあんまり素手で触っちゃ……」
「知ってるよ。あれは大丈夫なやつ」
「詳しいんだね」
「葉子が教えてくれたから」
麻衣ちゃんはそう言うと砂浜に視線を戻して、「葉子、海が好きだったから」と呟いた。
その言葉に少しだけ納得がいった。たしかに、葉子は海が好きだった。葉子とよく一緒に居た麻衣ちゃんもまた、よく図鑑を読んでいたのを知っている。お互いに色んなことを教え合ったりしたのだろう。けれどそれはそれだ。いくら詳しくなったとしても、危険なものに変わりは無い。外の方では「触っただけで数時間後に死んだ」なんて話も聞いたりするのだ。それを伝えようと口を開けようとしたところで、麻衣ちゃんは「あ」と言って砂浜の一点を見つめ始めた。
視線の先を追うと、そこには巻き貝が居た。縞状の模様にラグビーボールの様な形状。間違い無く毒を持った種だった。
「麻衣ちゃん!触っちゃ」
駄目。と、そう注意しようとした時、
「違う」
そう言って麻衣ちゃんはふいと視線を外した。
「違う」?何が?
そう考えて、そういえばさっきも「違う」と呟いていた、と思い出す。
まさか。まさかとは思うが、麻衣ちゃんは。
「あの……ねえ」
怖い。訊くのが怖かった。
もし考えた通りの答えが返ってきたら、いよいよ麻衣ちゃんは狂っている事になってしまう。そうなったら、私にはどうすれば良いのか分からなくなってしまう。でもきっと、私はそれに共感してしまう。それが何より怖かった。
「違うって、何が?」
けれど、開いた口を閉じること無く、私は震える声でそう訊ねていた。
訊いてはいけないと思うのに、聴かなきゃいけない、と、強く思ってしまった。
「そういえば言ってなかったっけ」
麻衣ちゃんはそうして、事も無げに、さも当然であるかのように言い放った。
「葉子。きっと海にいると思うんだ。葉子は死んじゃったけど、きっとクラゲとかにでもなってるんだと思う」
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