仕合わせ

ディメンションキャット

エスケープ

 纏わりつく熱気を腕で払い、重い瞼を覚ます自動販売機の光を浴びる。 擦り切れたポッケから、擦り切れた二つ折り財布を取り出す。

 160円のコーラに目眩を覚えた俺は、小銭入れを手のひらの上から少しズレた所でひっくり返して、入っていた数枚の一円玉を丁寧に地面にばら撒く。 しゃがみこむ正当な理由を得た俺は、まず落とした一円玉を全て拾って、そのままの自然な流れで自販機の下に手を差し込む。

 右から左へゆっくりと動かす手には様々な感触が訪れる。

 石、空き缶、石、吸い殻、石、石、吸い殻。 いつも通りのつまらない感覚に、苦笑いを浮かべたその時、一枚の薄い長方形の紙を親指が撫でる。

 心拍数が上がるのを抑えながら、期待せぬように自分に言い聞かせながら、俺は人差し指と中指でその一枚を引き抜く。

 硬貨ならば、大きさと重さから目で見るまでも無く、その値段を判断出来るため驚きは無い。 そもそも毎日のように硬貨は手に入る。 だが、紙幣はそうでは無い。 その大きさが分からないからこその高揚を味わいながら、書かれたゼロの数を拝もうとしたその時だった。


「え……?」


 俺の夜に似合わない透き通った声が後ろから聞こえた。

 一瞬、焦る。

 自らの行動の卑しさを反射的に客観視して耳が赤くなり、汗が流れる。 が、そんな動揺も直ぐに収まる。

 冷静に、自販機の下に落ちていた空き缶を紙幣と共に手に取った俺は、そのまま隣のゴミ箱に空き缶だけを捨てる。

 あくまでも、自販機の下に転がって行った空き缶を捨てただけですよーと、膝を払いながら俯き加減に後ろを振り返る。

 初めに目に入ったのは、小さな黒いローファーだった。ぴったりと揃えられた左右の足、そこから、ゆっくりと視線を上げていく、その動作のあいだ時間は無かった。

 黒い靴下が映える真っ白な長い脚と短すぎず長すぎずの健全的な長さのスカート、指が少し見えるオーバーサイズのクリーム色のカーディガン、セーラー服独特の大きな襟と赤いリボンが主張する胸元。

 俺はそこで、彼女が後ろに立っている当然の理由に気付く。そして自分の惨めさを思い出す。

 彼女の顔に到達しようとしていた目の照準を地面に移動し、固定したまま、俺は足早に自販機の光から逃げた。






 錆び付いたアパートの階段を登り、四畳半に帰る。

 玄関の鏡に映る、よれよれのスウェットを着た死んだ瞳をした最下層の人間を見て、俺は陰鬱に拾い物の靴を脱ぎ捨てる。薄汚いカビた香りを放つ畳に迎えられながら、何人もの居住者に使い古されたちゃぶ台に腰を下ろす。

 薄い隣人との境界が透過する嬌声をBGMに、夕食に作ったもやし炒めの残りを摘む夜十二時。

 胡坐をかいて座る太ももに違和感を感じて、俺は今日の戦利品を思い出した。 箸をフライパンに置いて、ジーンズのポッケに慎重に取り出したその紙幣は、一万円札だった。



 深くは語らない、長くも語らない。

 俺が、昼は時たまに日雇いの労働に身をやつし、夜は毎日のように小銭拾いをする、そういった生活に至った訳などどうでもいい。 貯金が尽きそうなことも、どうでもいい。 生物学上の親は早々に俺を置いて何処かへ行ったし、家族も友達も居ない俺は社会との繋がりは皆無で、産まれていないも同義なのだから餓死しようとも構わない。 重要なのは今、どう凌ぐかだ。 死への恐怖を克服するまでの時間稼ぎの今を。

 どうせゴールは死じゃないか。



 胃が満たされた俺はそのまま、寝転んで瞼を閉じて眠ろうとした。

 が、ふと、あの女子高生が気になった。

 俺は学校にほとんど行っていない。あの空気感が合わなかったからだ。

 だが、今更ながら有りもしない過去を考える。 

 俺もちゃんと学校に行けていれば、彼女のような人と交際をしたり、テストで赤点を取ったり、友人と放課後に笑いあったり、そんな過去があったのかもしれない。きちんと勉強をしていれば、こんな境遇に陥ってなかったかもしれない。

 二十五を超えて碌な生活を送っていない自分と、華やかな今と輝かしい未来の両方を持つ彼女は天と地以上に離れていた。

 そんな劣等感と諦めの感情に沈みながら、俺はようやく夢に落ちた。






 翌日、俺は昨日一万円を拾った自販機の下で、全く同じように一万円を拾った。 その翌日も、その翌日も一万円を私は拾った。

 そして、その時はいつも誰かの視線を感じた。






 どう考えても人為的なものだ。 ちゃぶ台に並べられた四万円を前にしながら、首を捻る。 俺も、ここ数日の全てが偶然だと思うほど馬鹿では無い。 きっと誰かがワザと置いている。その誰かは、俺の様子を見て可哀想だと上から憐れんでいるんだろう。

 腹立たしい、俺は動物園の見世物では無いのに。 そんな怒りとは裏腹に、そのお金を有難いと喜ぶプライドの無い俺が居る。

 どちらにせよ、その人間をこの目で確認したい。俺はそう思い立ち、まだお昼前、例の自販機がある公園へと向かった。

 自販機が斜め前に見えるベンチに腰掛けて、俺はその人物が現れるのを待つ。 昼前の公園は親子連れで賑わい、俺は浮いていた。

 木が作る陰と、葉を揺らす風、背中から聞こえる噴水の音が夏の鬱陶しい暑さから、俺を逃がしてくれる。






 俺がうつらうつら、と船を漕いでいると、いつの間にか陽は橙色になって沈みかけていた。

 目的の人物を見過ごしたか?と、目を擦りながら辺りをキョロキョロと見渡せば、見覚えのある制服を着た女子高生が近付いてきていた。

 直感する、彼女はあの日の夜に後ろに立っていた女子高生だと。 まだ、向こうはこちらに気付いていない。 そもそも俺のことなど覚えていないかもしれないが、念の為に深く帽子を被る。

 彼女はこちらに背を向ける形で自販機へと向かい合った。 おかげで、堂々と彼女の動向を観察できる、傍から見ればただの不審者かもしれないが。 あの時は見れなかったが彼女は艶やかで長い黒髪で、後ろ姿だけで十分にその可憐さは見て取れた。

 その彼女は肩から掛けていた鞄から長財布を取りだして、一枚のお札を手に握ったかと思えば、次の瞬間にはゆっくりと、自販機の下にそれを忍ばせた。おそらくは一万円札を。






 塾の帰り道、疲れきった脳を使わないように、ぼうっと何も考えずに夜の街を歩くことが日課だった。

 家に帰っても無関心な父親と過保護な母親が、冷戦を繰り広げているだけで、私が帰れば話が思わぬ方向に転がって余計に面倒な事態になる。

 そういうわけで私は、出来るだけ遅く帰るように塾から家へ歩いて帰るようにしていた。


 ここまでが尤もらしい理由。


 実際はもっと快楽的な理由によって、私の足は突き動かされる。 単に楽しいのだ、夜の散歩は。高校生の自分が出来る犯罪では無いけれども、悪いこと。何となく自分自身が自由へ解放されているような気がして、それが堪らなく楽しくて。

 あの日も、私は静まり返った夜を味わいながら歩いていた。ただ、いつもと違うのは公園に寄ったことだ。

 喉が渇いたから、という平凡な理由で公園にある自動販売機から飲み物を買おうと思っただけだった。

 そして、彼に出会った。

 自販機が遠目に見える距離で、私は男の人の不思議な挙動を確認していた。 私はかなり目が良い、そのため彼がわざと小銭を落としたのに気付いた。

 私はバレないように彼に近付くことにした。 こんな深夜、彼は危ない人間かもしれない、が好奇心には勝てない。

 真後ろまで来て、彼が腕を自販機の下に伸ばしてるのを見て、ようやく彼の先の小銭をわざと落とすという不合理な行動の理由を察した。

 彼は自分の行動に多少なりとも恥じらいを感じているのだ。精一杯の見栄として、あくまでも自分は自分の落とした小銭を拾っていると思われたいのだ。

 ヨレヨレのスウェットに、ぼろぼろのサンダルを履いて、必死に腕を伸ばす彼のみすぼらしい見てくれで、そんな風に自分を大きく見せようとする彼に私の心はきゅっと締め付けられた。

 自分の感情がはっきりと動いたのを感じたのは初めてだった。

 

「え……?」


 私はあたかも今来たかのように、そう言って彼に存在を知らせる。

 彼は慌てた様子で、ずっと前からあったであろう自販機の下の空き缶を引っ張り出してきて、白々しくため息をつきながら隣のゴミ箱に捨てる。

 そのバレバレの行動が堪らなくいじらしい。

 拳に大切に隠した紙幣をポケットにすぐさま入れて、彼は私の目を見ること無く立ち去ってしまう。

 私は何か、何か言って引き留めようとした。 なのに、上手く言葉が出てこない。 言葉は喉でつっかえて、彼はそのまま遠くに行ってしまった。







 なぜ、あんな子供が。

 そんなはてなマークを脳に浮かべながら、家に帰った俺は焼きそばを食べていた。彼女のお金のおかげで、ここ数日はもやし炒めよりも幾分かマシな食事を出来ている。

 紙幣を置いていく人間が誰であれ、俺は断るつもりでいた。

 そんな情けをかけられる筋合いは無い、俺よりも苦しい生活をしている方も居る。その方たちにそのお金は使ってくれ。

 こんな風にカッコよく断るつもりだった……のに、一度味わった果実は手放せない。 毎日一万円、いつまで続くかも分からないが終わるまでは全て得たい。

 それに、女子高生の気まぐれに過ぎないんだろう。 別に福祉の精神とかそんなものでは無く、遊びの延長として俺の醜い行動、金にしがみつく所を楽しんでいるんだろう。

 ならば、カッコつける必要なんて無い。 彼女が求める道化を演じ、一万円を貰う。 これはある意味、仕事のようなものだ。

 



 

 

 再び、夜。

 俺はもう小銭をワザと落とすだとか、そういう小細工を辞めた。 どうせ見られているんだから、変に取り繕う必要も無い。

 洗練された最小限の動きで、膝を付いて腕を伸ばす。 別に、膝を付かずとも腰を曲げるだけで届く位置に一万円は落ちているのだが、こちらもある程度情けない姿を見せなければ申し訳無いだろう。 同じ理由で、一万円を拾ったあとも必死に他の小銭があるかどうかを確認する。

 その時、音が鳴った。 スマホのカメラの録画ボタンを押した時の、特有のあの音が。 静かな夜の公園、普段なら聴き逃すような小さな音。

 心のピンが外れた。

 それは違うだろう、と。 ネットのおもちゃと称される彼らの中に自分が居るのを想像する。 若者たちのSNSで拡散される俺の動画。 馬鹿にしたように俺の真似をする遊び。

 最悪の事態を想像して気分が悪くなりながらも、俺は無意識に彼女の元へと足早に向かっていた。






「おい、何してんだ?」


 俺の怒気を含んだ声に、彼女はビクッと震える。

 近くの草むらの陰に潜んでいた彼女は俺が近付くと、自分から立って姿をさらけ出した。 突如として現れたその可憐な顔立ちにドキッとしてしまう自分も居たが、それよりも怒りの感情が勝る。


「なぁ、何か言ったらどうなんだ。そもそもどういうつもりっ……」


 腕を掴まれる。 想像以上よりも強く、意志を持ったその行動に俺は狼狽える。


「違う!」


 同じように震えながらも力強い声で、彼女は下を向いたまま叫んだ。


「何が違うんだ。 俺のことを見て嘲笑っていたんだろう? 確かに俺は社会の底辺だけどな、やっていいこと、やっちゃいけないことの区別ぐらいは分かる」


 一度、思っていたことを口にすればもう止まらない。激流のように言葉が後から後から続いていく。


「悪趣味じゃないか? 貧乏人が金に飛びつく姿を撮影して、それをネットにでも上げるんだろう? 今までもずっと撮影していたのか? 俺の人生はお前のエンタメじゃないんだよ」


 彼女は黙って、俺の言葉を受け止める。 理性はもう止めろと告げるが、腹の中の黒い感情はブレーキを知らない。


「お前にとって軽いかもしれないその金も、俺にとっては喉から手が出るほど欲しいものだ。 お前が持ってるその未来も現在も、もう俺には二度と手に入らないものなんだよ」


 違う。 こんなことを言いたい訳じゃないのに。視界が廻る、蝉の声がやたらと煩く聞こえる。


「お前らとは住む場所が違うんだ。頼むからほっといてくれ、その姿を俺の視界に映さないでくれ。 見たくも無いんだ、僻みとか妬みとか、そんな俺が出てくるのも嫌なんだ」


 いつの間にか、俺は膝を付いていた。 彼女の腕にぶら下がるように。 彼女にもたれ掛かるように。 そんな俺を嫌がる素振り一つ見せず、彼女は慈しみを携えた目で見つめて、口を開いた。


「うん、うん。でも、違うの。私、あなたのことが好きなの」

「……え?」





「あなたのことが好き」


 言っちゃった。 どうしようも無い彼の情けない姿を見たら、我慢出来なくなった。

 間違いなく、これは初恋なんだろう。 第三者が見れば、歪んでいると言われるかもしれない。 でも、この感情は本当だから。

 私の言葉を一分ほどの茫然自失とした時間を経て、彼はようやく飲み込んだ。


「えっと……それは恋愛的な意味、で?」


 戸惑いながら、さっきの怒りが嘘だったかのように、膝を付きながら私を見上げで彼は問う。 その子犬のような従順さと手軽さに、私は再び心が締め付けられる。


「うん」


 もう蝉の声なんて聞こえなかった。






 それから、私たちは幸せの絶頂に居た。 私の親は大企業の社長で幸いお金に困るようなことは無かった。 中学受験合格祝いや、都度のお小遣いなどで貯まったお金は底を尽くようなことは無い。

 ちょうど夏休みが始まったことも功を奏した。 塾に自習に行くと言えば、簡単に親の目を逃れることが出来た。

 そのため、毎日のように私は彼のアパートに入り浸っていた。 古臭い香りもどこか心地良かった。

 ある日、いつものように彼のぼろアパートで安逸を堪能していた時、彼はこう聞いた。


「君は、俺のどこが好きなんだい?」

「うーん」


 私は少し苦笑いしてから、自分の身の上話をすることにした。 彼の話を聞いて、自分は語らないというのも失礼な気がしたし、お互いのバックボーンを知ることは仲が深まる気もした。

 




 私は、縛られた人生を歩んできた。

 親は大企業の社長で恵まれた環境に居ることは理解している。 ただ、子供心には窮屈だった。

 成功を当然と思われる遺伝子と環境の中で、失敗は許されない。

 平凡な私が一瞬でも努力を怠れば、すぐにボロを出して、親の失望を買う。 物心ついた頃から、親の顔を伺って生きてきた私にとってそれは何よりの恐怖だった。

 それに加えて、周りの人間がみな完璧だったことが私を苦しめた。

 私は中学受験で最難関レベルの超進学校に入学した。 周りの人は天才か尋常ではない量を積んで来た人だけで、努力は当たり前のものと化していた。 その学校では天才で無い子ですら、努力の才能は持っていた。

 さっきも言ったけど、恵まれた環境は失敗の理由を与えてくれないから。 失敗はすなわち自分の存在価値が無くなるのと同義だから。

 無関心で結果だけを見る父親と、その父親の気分を損なわないように過保護に私を縛る母親。 私は操り人形のように生きてきた。

 そのレールの中で、私は貴方を見つけた。

 貴方は私の見たことのある人のなかで一番自由に生きていて、それがとても羨ましく思えた。

 それに貴方を見ていると……いや、なんでもないや。



 私はそこまで言って話を切り上げた。 ここからの話は私の嗜好のようなものだし、彼が不機嫌になる可能性もあるから。

 私が歪んでいることを理解するのは私だけでいい。

 私の話を聞いた彼は、麦茶の入ったコップの結露をじっくりと見つめて物思いに耽っているように見えた。





 俺は彼女の話を聞いて、やはり羨ましいと思った。 決められたレールに乗って、努力を続けるだけで成功が約束されているのならばそれ程良いことは無いのでは無いのか? それとも俺には理解出来ない悩みなのだろうか。

 ただ一つ事実を言えることが有るとすれば、彼女が俺を好いてくれることは、耐えようが無いほどに俺にとって分不相応な幸せだということだ。

 なぜなら彼女が、塾をサボって親の期待を裏切ってここに来ている時点で、彼女は沢山のものを捨てているのだから。

 俺は彼女から貰ってばかりだ。 何も捨てていないのに。




 その翌日の朝、彼女はあの日の告白から初めて俺の家に来なかった。

 久しぶりの一人の家、彼女が居たからと言って特段騒がしい訳でも無かったのに、どこか静か過ぎて、何となく居心地が悪くなる。

 ちゃぶ台に上半身を預けて、暑さから逃げるように冷えた天板を堪能する。 いつも彼女がやっていたことだ。 そうやってると、ここに居ないはずの彼女を感じて、知らぬうちに欠かせない存在になっていたんだなぁ、と俺はそのまま、窓から空を眺めた。

 ぽつり、ぽつり、と雨が降り始めていた。

 


 


 その日の夜、俺が夕飯を食べ終わった頃に扉を叩く音がした。 オンボロアパートは、インターホンが機能しないのだ。

 いつもの慎ましげなその音に、俺は箸をちゃぶ台に投げて扉へ駆け寄る。

 勢い良く扉を開ければ、ずぶ濡れの彼女が居た。


「大丈夫か!?」

「……さむい」


 そう言って彼女は、俺にもたれるように倒れ込んだ。





 身体を拭いて、着替えさせる。 暖かい食べ物を、ということで鍋を作ってやり、一先ず落ち着いた。 俺のアパートにシャワーなど付いていないため、俺が出来ることはそれだけだった。 それでも彼女は嬉しそうに微笑んでくれた。

 二人で鍋をつつきながら、話を聞けば遂に塾に行っていないことがバレたらしい。 詳しい理由は分からないが、昨日帰ったら、母親に叱責を受けたそうだ。 それも一晩中、ずっと。 父親は無関心、母を止めることも一緒になって怒ることも無かったらしい。

 これからは家を出るな、と母はそう言って部屋の鍵を外から閉めて今日の朝に出掛け、彼女は何時間もドアと格闘して、打ち破って逃げてきたそうだ。

 俺にとっては衝撃的な話だった。 同時に許せない話だった。


「わたし……帰りたくない。あんな……家に、もう嫌だ」


消え入りそうな声で、虚ろな目で彼女はそう言った。





 彼女がまだ隣で寝ている早朝、起こさぬようにゆっくりと、布団を出て俺は身支度をする。

 別に凝った用意は必要無い、彼女の荷物から住所だけ拝借して、あとは一つ。 キッチンの棚から取って、俺は部屋を出た。

 今度は俺が捨てる番だ。






 ここはどこだろう。 真っ白な大理石みたいな硬い床に私は座り込んでいる。 前には彼の背中があって、その先は眩しくてよく見えない。

 直感的に分かった。 彼がどこか遠くへ行ってしまうんだ、私は置いていかれてるんだ、って。

 必死に私が止めようと、声を枯らすのに彼は聞こえていないかのようにどんどんと、先へ歩いていく。 眩しい、眩しい光の方向へ。

 待ってよ、ねぇ、私を置いて行かないで。 待って、待ってよ。


「……待って!!」


 目を覚ませば、家の小綺麗な天井とは似ても似つかないボロボロの木製の天井が見えた。 汗をびっしょりかいた体が裸なことに、気付いて私は自分が何処に居るのか理解した。

 少し冷静になって、急に恥ずかしくなって、乾いているであろう昨日の服をベランダから取って、慌てて着る。

 時計の短針は8を指している。

 なぜ、彼は居ないのだろうか? さっきの夢を思い出して、私は不安になった。

 自分が一人だということに気付いたからか、嫌なことを思い出す。

 そうだ、お母さんから絶対連絡来てる。どうしよ……。 取り敢えず、見ないと。

 私が陰鬱とした気分で、スマホを手に取ろうとしたその時だった。


「もう、大丈夫だから」


 何時の間にか、部屋に入ってきていた彼は息切れ気味にそう言った。

 その声に私は安堵する。 落ち着いた低い声は私の不安を抱きしめてくれる。

 でも彼の言った、もう、大丈夫だからってどういうことだろう?

 私がその言葉の意味を聞こうと、スマホから顔を上げる。

 彼の足が見える。赤い液体が滴っていた。

 私の中の時間が止まった。

 黒いズボンにも、黒いTシャツにも。畳に赤い液体が滲んでいく。そして、彼の手には真っ赤な包丁が握られていた。

 私はもう彼の目を見ることが出来なかった。






「怖い?」

「ちょっと、ね。でもこのまま生きる方がもっと怖い」


 吹きさらしの強い風の中、二人。 崖の上で手を繋ぐ。


「じゃあ行こうか」

「うん」

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