7-2◆中田 朔の真実

「散らかってるけど、適当に座って。……水とコーヒーしかないけど、飲む?」

「いえ、大丈夫です。あんまりモノがないんですね。床に本と服積むのやめたら、すごく綺麗な部屋になりそう……」

 陽奈子ひなこにもよく同じことを言われた。


「……週末にまとめてやる派なんだよ」

 冷蔵庫から水のペットボトルを一本取り出して、一気に半分まで飲む。ペットボトルを持ってリビングに戻ると、渡会はまだ部屋の中をうろついていた。


 リビングの奥の扉に気づいて、そちらに近寄っていく。急いでペットボトルをテーブルに置いて、扉に掛けようとした彼女の手を後ろからつかんで止める。

「そっちは、開けないでくれる。寝室だから」


「……すいません」

 そのまま手を下ろすと、振り返って扉を背にして、俺の顔をじっと見上げる。

「この前、先生が電話くれた時、本当はもう父に会ってました。今日は、父のことを弁護してくれた人の事務所に行って……そこで、裁判記録を見せてもらっていました」

「裁判記録……一人で?」


祥子しょうこさんや父が、色々と動いてくれました。けど、読んだのは私だけです」

 裁判記録なんて、予想外の言葉だった。裁判記録がどんなものか、詳しくは知らない。


 出廷した個人まで、特定できる内容なのだろうか? だが恐らく、俺が思うよりもずっと多くのことを彼女は知っている。

「どうしてそんなものを……読もうと?」


「きっかけは……また、父の事故のことを中傷するメッセージが、私に届き始めたことでした」

 片方の手でスマホを差し出す。画面の上には携帯番号が表示され、下にメッセージが並んでいる。


 周囲の非難から逃れるために、名前も住む処も変えた彼女のことを考えると、絶望に近かっただろう。

「これは……中傷ちゅうしょう……最後の方は、ほぼ脅迫きょうはくだな……」


「事実を知りたくて、父に会いに行きました。こんな風に言われても仕方がないのか、私……分からなくなって」

「だから、会いに行くと言い出したのか。父親に聞けば済む話じゃなかったのか?」


 父親に会って事故のことを聞くと言っていた筈だ。裁判記録まで読む必要はない。話ができない状況だったのだろうか。


「父からは、行永さんのことを詮索せんさくするのはやめて欲しいと言われました。それで、詳しい事は聞けなくて……。でも、祥子さんが提案してくれて、記録を読むことに……」


 詮索しないで欲しい、ということはやはり何か隠していることがあるのだろうか。相澤あいざわが不利になるような何かが。


「これを送ってきた犯人に、何か手は打っているのか? 警察とか、弁護士に相談した?」

「はい……。心配、ですか?」

「当たり前だろ」

 彼女は俺から目をらして、少しうつむいた。


「本当に? 私が心配ですか? 記録を読んで、事故にった行永ゆきながさんの家族にとって、つらい裁判だったと思いました……。そして、先生にとっても……。先生は、行永さんの恋人だったんですね」


 薄色うすいろの瞳が、揺らぐことなく再び俺を捕える。彼女を手放すことを惜しんでいれば、いつかこうなるかもしれないと分かっていたはずだった。けれどもう少し、何も知らない瞳で見つめられていたかった。


「……そうだよ」

「車の中で私と同じって言ったこと、あれは行永さんのことだったんじゃないですか? 先生は、私の話で気づいた筈ですよね? いつからですか? 通院最後の日? 水族館? どうして隠してたんですか?」


「いつ気づいたなんて……そんなこと確認するために、わざわざここに来たのか?」

 渡会は首を横に振る。

「このメッセージの送り主について、私が考えたことを聞いてほしかったからです」


「良いよ……話して」

「先生と水族館に行ってしばらくして……メッセージが届き始めました。この番号は、高校に入ってから新しく取ったんです。だから、送り主は高校に入ってから出会った人。その中で私と父のことを知っているのは、先生と……あともう一人、優亜ゆあ……須藤すとうさんです」


 意外な人物の名前に驚く。

「どうして須藤が、そんなことを知ってるんだ?」

「私の、中学時代の同級生と優亜が知り合いで……その子に確認したら、父の事故について、優亜に話してたことが分かりました」


「じゃあ、渡会が気づいてないだけで、同じような経路で事故の話を知ってる子がいるかもしれない」

 こんなところまで来ているのだから、俺を疑っているに違いないが、おそらく推理に抜けがある。


「話を知っていても、無理です。他の子は……先生以外は、アプリのQRだけを交換してるんです。両方は先生だけ。アプリから電話番号は検索できない設定にしてます。優亜には、確かに恨まれてましたけど……電話番号を使ったショートメッセージが送れるのは先生しか考えられません」


「いや……そんなメッセージを渡会に送っても無意味だ」

「けど、結果として父に連絡を取ることになりました。先生は私から、父の様子を聞き出したかったんじゃないですか?」


 確かにそれは間違ってない。だが、俺がこのメッセージを送っていないことも事実だ。須藤が彼女の番号を知りえた可能性はないのだろうか。


「やっぱり、父のこと……その、ゆるせないですか? だったら私のことも、同じ……ですよね。ずっと、皆そうでしたから」

 相澤を憎む気持ちが消えていない。しかし今は彼女を大事に思う気持ちもある。彼女を失うことを怖いとすら思い始めている。


「……困ったな」

 いや、須藤が渡会の番号を手に入れる機会はあった。須藤には、不本意ではあるがスマホを渡してしまった。あのとき連絡先を開いていた。ただ、そんなことを今伝えても、返って不信感をあおるだけだろう。


「実は、車の中で一回この番号に掛けたんです。もう一度、この番号に電話を掛けます。メッセージを送ったスマホが家の中にあれば、分かるはずです」


 渡会がスマホを操作する。これが、俺の家で話をしたかった本当の理由だ。部屋の中で、渡会のスマホの呼出音だけが、かすかに聞こえる。しばらく俺を見つめたまま、スマホを握りしめていたが、くるりと身体からだひるがえして、寝室の扉を開ける。


「こっちの部屋は……?」

 そう言って寝室に足を踏み入れ、歩き回り、ベッドの下をのぞき込んでスマホが鳴っていないか確認しようとしている。だが、彼女のスマホの呼出音だけが、微かに聞こえるだけだった。


 呆然ぼうぜんとしている彼女の手から、スマホを抜き取ると、終了アイコンをタップして、メッセージ画面をもう一度見る。もし俺が犯人だったとしても、脅迫用のスマホ電源は使うときにしかONにしないだろう。


 この方法が確実とは到底思えないが、呼出音が鳴らなかったことで、犯人は他にいると分かってくれれば良いのだが。

「この方法で分かった場合……、こんな文章を送ってくる犯人の家で二人きりって、自分が危なくなる状況って思わなかった?」


 彼女は背を向けたまま床に座り込んで、力なく頭を横に振る。

「先生じゃなかったら、こんな方法では確かめないです」

「疑った割に、随分ずいぶんと信頼しているんだな」


 送られてきたメッセージの殆どは、当時裁判中に書かれた記事を、なぞったような文章だった。だが、文の最後に感情的な表現がある。『許さない』、『嘘つき』、『逃げるな』、『卑怯な女』……。


 一番最近のものは『学校に来れなくしてやる』だ。『行けなくしてやる』、ではなく『来れなくしてやる』という表現は、同じ学校に居る人間でなければ、使わないだろう。


「先生は最後まで、自殺を否定してました。だから、ここに書いてあることが本当なら、責められるつもりでここに来ました」

「渡会を責める気持ちはない。こんなメッセージは送ってない」


 スマホをベッド上に放り、彼女の隣に腰を下ろして目線を合わせる。彼女はこちらに身体をひねり、俺の顔を見つめる。


「けど、私をだましてたのは間違いないですよね。……大事だなんて、目的があったからずっと優しくしてくれてたんですよね? 言ってください。私は、何を聞かされても平気です」



 通院が終わった時に、彼女を手放しておけば良かった。ずっと思い出さないようにしていた。証人として呼ばれたときに、弁護士から聞かされた陽奈子ひなこのこと。陽奈子はあまり愚痴ぐちを言わない性格で、代わりに俺の泣き言を良く聞いてくれた。


 陽奈子が相談してくるときは、たいてい解決策がいくつか彼女の中にあって、いつも『平気』と言って笑っていた。

 俺はその言葉に甘えていた。


『学年主任の先生から、性的なニュアンスのある誘いを、何度か受けて困っていたことは、ご存じですか?』


 弁護士の質問を、すぐに理解できなかった。そんなことは一度も話してくれなかった。『初めての職場で、行永さんが悩んでいたことは、先輩にあたる女性教諭から証言が取れています』


 『あなたはどれくらい、行永さんに対して時間を割いていましたか? 彼女が、どれくらい残業していたか。何に悩んでいたか、その内容は知っていますか?』


 『あなたがデートをキャンセルしたこの日、行永さんはいわゆる合コンに行っていました。あなた方の関係はもう終わりに近かったのではないですか?』


 『その程度の関係で、何故彼女が自殺する筈がないとまで、言い切れるのでしょうか』


 卒研と、教授の学会準備や採用試験で忙しかった。一時的に時間が取れなくなっただけだ。たった三カ月半。陽奈子が悩んでいたなんて。それならどうして俺に相談してくれなかった? 


 いや、違う。事故の1週間前、ようやく会える時間が取れそうだと電話した。俺は自分のことばっかり話して、陽奈子はほとんどど自分の話をしなかった。違和感はあった。でも聞かなかった。


 次に直接会った時に陽奈子の話を聞けば良い、そう思って流した。次なんてなかったのに。

「平気なわけないだろ。……まだ、質問に答えてなかったな。いつ、気づいたか」

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