1-6◆渡会 楓の秘密

「……ごめんなさい、嘘です。先生が病院で会ったのは、私の叔母です。私のこと、産んでません。イギリスの大学院に行って、修了したあともしばらく欧州を回ってたから、四年も海外にいたんです」

「は……?」

「もちろん、結婚もしてないですよ。今はフリーです。いつもは祥子さんって、呼んでます。本当は、三三歳です。他に知りたい事あれば、聞いてください。今度は正直に答えます……」


 本当の事を一気に吐き出すと、少しだけ、心のもやが晴れる気がした。先生はいつもより目を大きくして、前方と私を交互に見ている。

「どうしてあの時は、母親だと名乗ったんだ?」


「説明が面倒な時は、母親って言ってしまうんです。シングルマザーって言っておけば、色々聞いてこられないので……。別に、信用してないとかだますとか、そういう気持ちは一切なくて……私のため、なんです。両親がいないので、母親の代わりなのは、本当ですし」


「いないって、どういうこと?」


 先生の質問に、私はふっと短く息をいて、リュックを抱く両手に、力を入れる。

「母は、もうこの世にいません。父とは、事情があって、一緒には暮らせないんです。……まぁそれで、今は祥子さんと一緒に、住んでるんですよ」

 すぐに笑顔をつくる。ただの事実の報告と受け取って欲しい。先生には、変に同情されたくない。


「なるほど……。さっきから聞く程に疑問が増えていったけど、それで合点がてんがいくな」


 やっぱり矛盾むじゅんだらけだったんだ、嘘もまともにけないんだ、私。

「先生が、祥子さんに……その、興味がありそうだったので、私の母のままだと、邪魔じゃましてるみたいで……」


 退勤ラッシュにはまったのか、車はあまり進まない。先生は驚いた様に、私の顔を見た。対向車のライトが車内を照らすと、すぐに目線を右に落とした。


「それで、今はフリーね。いや、そういう意味での興味はないよ。度会わたらいの家族について、知りたかっただけだ」


 車内に沈黙が流れる。先生の言葉で、私はまた息苦しさを感じる。話題を変えた方が良いだろう。突然、こんな重い事実を告げられて、先生も困っているはずだ。何か、楽しい話題を……。


「……その、亡くなったお母さんって、どんな人なんだ?」

 先生は問いかけながら、目線を私に移した。ずっと先生の横顔を見つめて、次の話題を考えていた私の視線とぶつかる。瞳を見詰めて、うながされるまま、記憶を辿る。


「……いつも、何か楽しそうっていうか、よく笑ってたかな。怒ると怖かったけど……。けど、どうして怒ったのかをいつも説明してくれて、だから最後は……嬉しかった。……あと毎年、琥珀糖こはくとう作ってくれてたんです。私、いつも途中で食べてしまって……だから正確には琥珀糖じゃないんですけど」


 母が死んでから、親族以外で、母の話をするのは初めてだと思った。どんな人と問われて、思いつくことをつらつらと口に出すのが精いっぱいで、全然上手くまとめられない。


「よく笑う……度会の笑い声も廊下に良く響いてるから、そんな感じだったのかな」

「え……なんか、恥ずかしいですね。響いてますか……」

「うん。昼、中庭に居るか分かり易くて、助かってた……。それで、お父さんとは、お母さんが亡くなってから、一緒に住んでないのか?」


 少しづつ進む車の動きに合わせて、前方と私の間を、先生の視線が行き来する。暗くて、表情は良く見えないが、私の様子を確認しながら質問してくれているのではないだろうか。


 日が落ちると、車の内と外の境界が曖昧あいまいになって、外の暗闇と自分が一体化しているようだ。雨はいつの間にか、小降りになっている。

「……そう、ですね」


 まるで、他人事みたいに回答してしまい、溜息ためいきが出る。

「一緒に住みたいけど、事情とやらで住めない?」

「住めないですね……。一緒に住みたいとは、もう思ってないですけど」


 自分でも不思議なくらい、質問に対して、素直に答えている。そして、父を責める気持ちが、心の底に沈んでわだかまっているのだと、気付く。


 あの事故のせいで日常が奪われた。父が戻ってきたら、聞きたいことが沢山あった。けれど裁判が終わった後も、私のもとに帰って来なかった。私のためだと祥子さんや弁護士の人に説明されたけど、まるで逃げているように思えた。


「ごめんな、立ち入った事聞いて」

 私は静かに首を横に振る。


「今まで話さないようにしてたんです。でも、先生には話せました。自分でも少し不思議、です……」

「……ん、そうか。人に話すことで楽になることもあるし、自分が本当はどう思ってるのか、気付くこともあるしな。まだ溜めてる事あるなら、聞くよ。」

 渋滞を抜けた車が、動き出した。先生はいつものように、前を見たままそう言った。


「こんな重い話、まだ聞きたいなんて、先生変わり者ですね……。確かに、まだめてることは、あります……」

 父が起こした事故と、自分に起きた事について話してみようか、という気持ちが湧いたが、すぐに恐ろしさが勝った。


 何でも話してよ、相談にのるよ、と言ってきた人は、情報を記者に売った。SNSに嘘を交えて書き込んだ。私は一方的に、人の心というものを信じていた。しかし、私の為に心配してくれていると勝手に思い込んでいたに過ぎなかった。本当は灰色なのに、トマトの色は赤いと感じる、あの会話を思い出した。


「うーん、……その、俺も昔、大事な人を亡くした事があって、二年位は、誰にも話せなかったんだ。けど、大学の恩師に、話を聞いてもらう機会があってな。それで、すごく楽になれたんだよ。本当の話を隠して、適当に誤魔化ごまかすのは、その時は楽なんだけど、なんか気持ちの底に、色々溜まってくんだよな……」


 先生の言葉に、鳥肌が立つ。なくした? 大事な人とは、家族だろうか、友人や恋人だろうか。私と同じ経験をしているというのか。


「なくしたって……?」

「あぁ、度会と同じ。母親が、病気で。まあ俺も今日、度会の話を聞いて吃驚びっくりしたけど……、だからこういうのって、時間と話聞いてもらうことでしか、前に進めないってのは、分かるよ。度会は、まだ止まってるのかもな」


「どうして、そう思うんですか…?」

「まだ色々、自分の中だけにめてるでしょ。思いを外に表現出来ない間は、まだ時間が止まってるんだって言われたから。あと、これは俺の個人的な意見だけど。高校生にしては、ストイックすぎる。自分を抑えてるっていうか……」


 先生の鋭さが嫌になる。前に進んでいない。その通りだ。祥子さん以外に、心から信用できる人間はいない。けれど、私を引き取ったことで、迷惑をかけている祥子さんに、これ以上甘えることはできない。私の半分は、祥子さんの姉の命を奪った男と、つながっているのだ。


「時間って、どれくらいかかりますか?」

「難しいこと聞くなぁ。……とりあえず、楽しい時間を持つことからかな。過去は変えられないから、未来を見る。……そうだな、来週の土曜、何か予定ある?」


「え……? いえ、別に何も……」

「よし、快気祝いだ。朝一〇時に、櫛ヶ浜くしがはま駅のロータリーに集合して、平生ひらお水族館に行ってみないか?」


 櫛ヶ浜駅は、私の家の最寄もより駅だ。平生水族館は、海に突き出した半島にある水族館で、イルカやアシカなどのショーが充実しており、家族連れに人気の水族館だ。

「へ? え、で、でも……私生徒ですよ? 休みの日に、先生と一緒でも大丈夫ですか?」


 子供向けの場所だが、素直に嬉しい。本当は、すぐに「はい」と言いたい。先生と生徒という関係で、休日に学校外で過ごすのは良くないことだ。けれど、それ以上にもう一つ不安がある。


 平生水族館は少し遠く、車でも一時間以上はかかる。うちの高校の誰かに出会う確率は低い。しかし、中学の頃に住んでいた所には近い。もしも、昔の私を知る誰かに見られたら……。そう考えると怖い。


「まあ、本当なら、同じ年頃の男子と街中歩く方が、楽しいだろうけど。二年で言うと、及川おいかわとかか? イルカとかアシカも、それと同じくらい楽しめるよ、たぶん」

 雑誌の読者モデルをやっているとかで有名なモテ男、及川君の名前に、ちょっと笑ってしまう。あと、私が言いよどんでいるのは、そういうことじゃない。


「いえ、私は及川君……とか、そういうことではなくて、私と二人で出掛けて、誰かに見られたりしたら、先生に迷惑がかかるんじゃないですか?」

「結構遠いから大丈夫だろ。それに、別に悪いことしてるわけじゃないし……」


 そこまで言うと、先生は一つ息を深くいた。先生にとっては、あくまで怪我けがをさせた生徒への気遣いに過ぎないと言いたかったのだろう。私と先生の距離は、近づいてなどない。


「いや、ごめん。度会が嫌ならやめよう。人から何か言われるとか、俺の立場がとか、そういうの考えない場合、度会はどうしたい?」


 自分はどうしたいか、純粋な自分の欲求を聞かれている。自分の本当の気持ちを、欲求を言葉にすることが、怖くてたまららない。けれど、声を出さなければ我慢してあきらめるしかない。中学生の頃のように。


「せ、先生と行きたい……」

 この優しい人と、少しでも長く過ごしたい。

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