海に還す

月花

海に還す

 今日は朝から風が穏やかで、海辺にただよう潮の香りがいつもより柔らかい気がしていた。海岸に差している日の光もぽかぽかと暖かい。

 春先にしては過ごしやすい日だな、とセトはぼんやり思った。むしろ鹿の毛皮でできた羽織では少し暑いくらいで、髪の生え際がうっすらと汗ばんでいた。


 隣に立っているレイも同じことを考えているのか、きょろきょろとよそ見をしている。羽毛で丸々とした小鳥を眺めているから、セトは肘で彼を小突いた。


「駄目だよ、ちゃんと前を見なきゃ。お勤めの時間なんだから」


 こそこそとたしなめる。レイはつまらなさそうに返事をして、「じゃあ喋るのも駄目じゃん」と言った。


「だ、だってレイが真面目にやらないから」

「そもそも原典に書いてある決まりは、お勤めの間は二十歩後ろで控える、だけだろ。前を見るとか無言とかは、いつの間にか口伝で勝手に付け加えられただけだ」

「ああ言えばこう言う」


 セトは困ったように呟いた。

 いつだって彼の言うことは正しいから、それ以上言い返すことができなかったのだ。


 二人はどちらからともなく視線を前に戻す。海を見下ろせる崖の端には一人の少女が立っていた。あとひと月で十四歳になる彼女は、この島にたった一人の巫で、神の遣いだ。


 浜の祈りは十日に一回行われる日々の儀式だった。この小さな島を守る神に感謝を伝えて海の安寧を願う、そんな時間。海の恵みで日々を生かされているセトたちにとっては何よりも大切な仕事だった。

 セトは「時間だ」と独り言をこぼしてから、すうっと息を吸った。


「リィリィ、終わりだよ」


 少女は自分の名前を呼ばれたことに気が付いて振り返った。


 二人を順番に見ると、よたよたと小走りで近づいてくる。そのままセトの腕の中にすっぽりと収まった彼女は満足げだ。

 表情があまりないのでわかりにくいが、物心ついたころから一緒に過ごしているセトたちだけは手に取るようにわかるのだ。


「走ると危ないよ、転んじゃう」


 同い年でほとんど背丈の変わらない彼女にぶつかられるとよろけそうになる。レイは最近背が伸び始めたというのに、セトはまだ少しも成長しないのだ。

 自分が叱られた、とわかった彼女はむっとしたように視線を逸らした。


「リィリィ、そっちは小言ばっかりでうるさいだろ。俺のところに来いよ」


 彼はリィリィの手を取ると、「早く戻って昼飯にしよう。セトの分も二人で食べような」とわざとらしく言って駆けだした。

 セトは「やめてよ、おれ今日の昼ごはん楽しみにしていたんだから!」と大声で返した。

 ここに来る途中見かけた舟に大物が乗っているのが見えたから、たぶん屋敷に戻ったら新鮮な刺身が用意されているのだ。


「おれの分横取りしたら、午後の狩りは手伝ってあげないから!」


 それは勘弁、とレイが足を止めて振り返った。セトは走って追いつく。

 それから三人並んで浜辺を歩いた。ずっと向こうまで続く砂浜は太陽の光を受けてきらきらと輝いていた。


 浜辺のすぐそばに並んでいる家では、夜明けに獲れたばかりの魚を手早くさばいている。昼時だから焼き始めていて、煙が風にたなびいた。海風に香ばしい香りが混ざっていた。


 リィリィの姿を見た島民たちはみんなにこやかに手を振る。そのうちの一人が「セト、レイ!」と声をあげた。


「おばさん、おはようございます」

「ちょっと待っていな。巫様に果物を分けてさしあげたいから」


 慌てて家の中に戻っていった彼女は、よく熟れた果実を一つずつ持たせてくれた。

 レイとリィリィはさっそくかぶりついていたけれど、セトは「昼ごはんの前に食べたら叱られてしまうし……」ともごもご言いながら迷う。


「ほら、しゃんとしな!」

「痛いっ」

「あんたは巫様の側付きでレイの義弟なんだ、しっかりしないと。少しはレイを見習いな」


 そんなことを言われたって、とセトは眉を下げる。

 レイは小さいころから物怖じせずになんでもできて、頭もよくて、セトではとうてい追いつけないのだ。


 セトは気まずさで目をそらす。彼女はため息をつくと豪快にセトの頭を撫で回した。


「あんたはできる子なんだからさ」


 セトはぐしゃぐしゃになった髪を直しながら、ふと「あれ何だろう」と呟いた。波打ち際に何か大きなものが落ちていることに気が付いたのだ。

 最初はずいぶん立派な流木だな、と思ったけれど、それにしては色が違うような気がする。


 何かおかしいと思ったのか、レイは「リィリィを頼んだ」とだけ言い残して走って行った。

 あっと声をあげたがもう遅い。ふらふらと後を追おうとするリィリィの手首を掴んで、「おれと一緒に待とう」と言った。


 豆粒ほどの大きさになったレイがしゃがみこんだ。それを遠くから眺めていたが、おーい、と大声で呼ばれたので走って向かう。


 砂浜に打ち上げられたそれをレイと一緒に見下ろした。どうして、こんなところに。

 セトが状況を飲みこめずぱちぱちと瞬きを繰り返していると、レイは驚いたように呟いた。


「……これ、人間だ」


 この島の人間ではなかった。

 顔つきも着ているものもまったく違うのだから。三十歳くらいに見える細い男だった。


 リィリィがこてんと首を傾げて、頬をつつく。「危ないから近づかないで」とセトが動転している間にも、レイが「息してる。たぶんまだ生きてるぞ」と担ぎ上げた。






 島の外からやってきた人間を見たのは初めてだった。

 一番長生きの老婆に聞いてみると、遺体で流れつくことはあっても生きているのを見たのは人生で一度きりだったらしい。


 セトはそこはかとない不安に襲われていたが、レイは「すごいぞ、こんな珍しいことはもうないかもしれない」と興奮気味にまくしたてた。


「なぜそのままにしておかなかったのです」


 屋敷を取りまとめている女がため息をついた。彼女は庭の落ち葉を掃きながらひとり言のように、けれどセトにちくりと針を刺すように言う。

 縁側でぼうっとしていたセトはうっと言葉を詰まらせた。本当はセトも同じ気持ちなのだ。だって、とセトは小声になる。


「リィリィが触っちゃったし。禊をしたならもう置き去りにはできないよ」

「巫様が……」


 彼女は少し考えるようにうつむいて、「何か深いお考えがあるのでしょう。あなたもレイも側付きとして必ずそばに控えるのですよ」と念押しした。

 この島にとってリィリィは絶対だ。彼女のすることに逆らう人間はいない。


 数時間して男は目を覚ました。


 男は混乱しているのか、勢いよく起き上がったかと思えば眩暈で顔を押さえた。「船が沈んで」とか「一緒に仲間が乗っていて」とか脈絡もなく訴えたが、まとまりがなく理解できない。

 レイは真顔で「さっぱりわからん」と遮ってこちらが知っていることだけ述べた。


「ここは俺たちの島。あんたは朝、海から流れ着いた。一緒にあったのはそこに置いているものだけ。他の人間はいなかった。どう、状況は理解した?」


 セトは一杯の水を注いで、恐る恐る差し出した。男はたどたどしい手つきで受け取ると一口だけ含んだ。そして自分の喉が渇いていることに気付いたのか、一気に飲み干した。


 少しして気持ちも落ち着いてきたのか、男は「子ども相手に取り乱してすまなかった」と頭を下げ、自分のことをぽつりぽつりと話し始めた。

 最初の印象とは違ってとても論理的で理知的に話す男だった。彼の言うことはところどころわからなかったが、そのたびに少しかみ砕いて説明してくれた。


「僕はエヴァンス。学者だ」


 彼は動物――とりわけ鳥について調べているらしく、いろいろなところへ旅に出ては生態を記録しているのだと言う。


 今回も十人の仲間と海を渡ろうとしていたが、運悪く嵐に巻きこまれて、そこからのことは何も覚えていないようだった。たぶん助ってはいないだろうと誰もが思う。


「海流はとても激しいんです。島の人間でも、熟練の船乗りでないと」

「あんた、本当によく生きていたな」

「今朝、浜の祈りをしたのがよかったのかな」


 そういえば厄落としの儀もしなくちゃ、とセトは立ちあがった。


「リィリィ、寝ているんじゃないか?」

「今日は暖かいからね」


 エヴァンスのことは任せて部屋を出る。彼女の部屋の扉を開くと、彼女は布団も敷かずに床の上ですやすやと昼寝をしていた。


 何度か揺さぶって起こすと、案の定不機嫌になった。気持ちよく眠っていたところを無理やり起こされたリィリィはむくれた顔をしている。

 そんな彼女をなだめながらなんとか戻ると、いつの間に打ち解けたのか、レイは大きな声でこの島について話していた。


「それで島民は三百人くらい。だいたいは海辺に住んでいるけど、山で暮らしているのもいるかな。木こりとか」

「島の広さはどれくらいなんだい?」

「俺たちなら半日歩けば一周できる」

「思っていたより小さな島だね。だから集落が一つしかなくても生活できるのか」


 部屋に入ってきた二人に気が付いたレイが「続きはまた後でな」と笑った。酒瓶を受け取った彼はセトの耳元で「結構面白い人だった。話しやすいし」と囁く。


「外の人間なんだからもうちょっと警戒した方がいいんじゃ……」

「でも武器なんて持ってないじゃん。いざとなったら俺たちでどうとでもできる」

「それは、そうだけど」

「それよりおまえも外の話聞いたら? 島にいないような生き物がいっぱいいるんだって。俺たちの背より大きくて、しかも走る鳥だぞ。全然信じられないよな!」


 やれやれ、と眉を下げる。

 レイは昔から興味を持ったことには一直線だ。


 うとうとと舟をこいでいるリィリィの肩をたたいて、エヴァンスの前に座らせる。熱のこもった手を開かせて神木の枝を持たせた。「ほら、ぎゅっと握って」と小声でささやく。


「あの、今から何を?」

「静かにしていて」


 困惑気味のエヴァンスは口を閉じる。セトとレイは小さな酒瓶を傾けて手のひらに少し出すと、彼に向かって振りかけた。

 彼はうわっと声をあげて背をのけぞらせる。その後リィリィの持つ神木の枝で頭を撫でさせた。薄い緑色の葉がわしゃわしゃと髪をかき乱す。


「はい、終わりです」


 エヴァンスは顔にしたたる酒をやや迷惑そうにぬぐった。


「これは何かの儀式かい?」

「厄落としの儀っていうんだ。島を長く離れていた人間についた悪いものを落とすためにやる。リィリィにこれをしてもらったから、あんたも島の神に受け入れてもらえるよ」

「リィリィちゃんは島の神職なのかな?」


 彼は興味深そうにリィリィを見るが、セトは「駄目です!」と大声をあげた。


「駄目?」

「リィリィと呼ばないでください。彼女の名前を呼んでいいのはおれとレイだけなんです」

「僕から話しかけるのも禁止?」

「それは――構いませんけど。でもリィリィは喋れませんよ。神聖な神の遣いだから」

「なるほど、神官といより預言者に近いのかな。俗世の人間と交わると穢れるという考え方か……。この島には大陸とは違う、独特の土着信仰が根付いているというわけだね」


 エヴァンスはぶつぶつとひとり言を呟き始めた。何を言っているのか聞き取れないし、少し怖いし、セトはわずかに身を引いた。


「君たちは許されているのかい?」

「おれたちは側付きだから特別なんだ。リィリィの直前と直後に生まれた子どもが選ばれて義兄弟になる。俺が兄で、セトが弟!」

「確かにそう見えるね」


 エヴァンスは二人を順番に見ると軽くうなずいた。

 セトはわずかに目を伏せる。それは自分の方が背も低くて、気弱で、頼りなさそうに見えるからでしょうか、なんて聞き返すこともできずに指先をもぞもぞとさせた。


 外が少し騒がしくなってきたことに気が付いたセトは「そろそろ午後の狩りに出ないと」と逃げるように腰を上げた。


「子どもも狩りをするのかい?」

「島の祭りが近いので」


 ほら行かなくちゃ、とレイの肩をたたく。名残惜しそうにしていた彼はあっと声をあげて手を打った。


「エヴァンスさんも狩りについて来れば? 厄落としが終わっているから出歩けるし」

「えっ」

「鳥を射るんだ。見たいだろ?」


 何を言い出すんだ、とセトは視線だけで訴えた。ただでさえ釘を刺されているのだから余計なことはしたくない。そんなセトの気持ちに気がつかないエヴァンスは目を輝かせて「ぜひ見たい」と前のめりになった。


「ええ……」


 レイが一度言い出したらひっこめないのは知っているし、口論で勝てたためしもない。

 セトがおどおどしているうちに、レイが「早く行こうぜ」と外を指さした。仕方がないのでエヴァンスも連れて山へ向かう。


 今日は雲一つない青空だった。


 気ままに飛び回る鳥を見つけると、セトは使いこんだ古い弓に矢をつがえる。狙いを定めているときだけは感情の波が消えるような気がする。


 腕を力ませながらキリキリと引き絞り、ヒュッと静かに放った。

 矢は美しい軌道を描きながら空を裂いた。


 近くでどさっと落ちる音がする。セトは弓を片手に茂みをかき分けて、丸々太った鳥を見つけると両足を掴んで持ち上げた。


 後ろから走ってきたエヴァンスはセトの両肩を掴んだ。

 突然のことにびくっと身体を硬直させるが、エヴァンスは気にも留めない。


「すごいじゃないか!」


 え、と声が出る。彼は眩しいほどの笑顔だった。

 あの距離から矢で射るのは相当難しいだろう、銃でもどうだか、とまくしたてる。自分の言葉を挟むことすらできない。


「セトは弓の名手なんだ」


 矢を数本無駄にしたばかりのレイは自慢げに言った。


 鳥を射るたびにエヴァンスが両手を叩いて大げさに褒めるものだから、最初は困り顔だったセトも顔を赤くしながらはにかんだ。






 エヴァンスは口を開けば面白い話をする。島の外のおかしな生き物、壮大な歴史、流行っている遊び、魅力的な物語――彼が与えるものはどれも刺激的だったのだ。

 最初は遠巻きに見ていた島の人間もだんだんと引き付けられ、彼はたった数日でなじんでしまった。


 朝早く、セトたちは屋敷の庭に藁を敷いた。そのうえに座りこんで必要なものを広げる。


「じゃあ先生はこっちの木を削って」


 レイは小刀を渡した。受け取った彼は慣れない手つきで木の先を削って尖らせていく。


 彼を先生と呼びだしたのはレイだった。


 いろんなことを教えてくれる人なんだから先生だろ、とレイが言って、気づけばみんな真似するようになったのだ。

 彼に一番付きまとって話を聞いているのはレイだった。もともと頭のいいレイは、あっという間に彼の知識を吸収して第二の先生になりつつある。


「ところで僕は何を作らされているんだろう」

「今度の祭りに使う矢。自分の分身だから、ちゃんと自分で作らなきゃいけないんだ」

「あ、手はもっと上に添えてください。手元が狂ったときに指が落ちます」


 彼は慌てて持ち替える。しばらく格闘していたけれど、だんだん手が疲れてきたのかナイフを下した。


「そういえば何の祭りなのかな?」

「リィリィの十四歳の誕生日です。前後合わせて三日間やります」

「それはおめでたい!」


 彼女は三日間も誕生日を楽しめるんだね、と笑うエヴァンスに首を振る。


「リィリィが出るのは二日目までです」

「どうして? 主役なのに?」

「二日目に、リィリィを神へお返しする儀式がありますから」


 ちょうど縁側にリィリィがやってきた。裸足のまま歩いてこようとする彼女に、「待って、待って!」と大声で叫ぶ。急いで駆け寄って背中におぶった。

 どうやら洗髪が終わったばかりらしく、長い髪がしっとりと濡れていた。


 藁の上でおろされた彼女は、セトとレイの真ん中に座りこんだ。「狭いって」とレイは笑ったが、彼女はどいてくれそうにない。


「神へお返しするって、具体的には何をするんだい?」


 ようやく手を動かし始めたエヴァンスが話の続きをする。セトは彼女の髪を梳いてやりながら答えた。


「リィリィを崖から海へ落として、沈めるんです」


 絡まった髪を丁寧にほどいていく。


 カタッと物音がした。それがナイフの落ちる音だと分かったのは一拍おいてからだった。


「何を言っているんだ、君たちは。冗談にしてはタチが悪い」

「冗談?」


 セトもレイもきょとんとした顔で返す。冗談なんて言った覚えはない。両目を見開いたエヴァンスはすべてを悟ったような顔で、「ありえない。あまりにも残酷だ」と呟いた。


「とても人間のやることとは思えない」






 エヴァンスは衝撃と嫌悪感のにじむ目で見つめてきた。だからセトは言葉を尽くして最初から最後まで説明した。


 リィリィは神の遣いとして大切に育てられてきたこと。穢れをうつされないように五歳までは人間の言葉を決して耳に入れない。

 それからは側付としてセトとレイが毎日をともに過ごした。あらゆる季節を一緒に見てきた。

 島の人間は清廉な祈りを、敬愛を、畏怖を彼女に捧げた。そうやって生きてきた。それがこの島のすべてだった。


「まさか――彼女は話さないのではなく、話せないのか?」


 エヴァンスは頭を抱える。


「十三歳とは思えないほど幼いふるまいも、まともに育てられていないことが原因か」

「まともにって――」


 セトは思わず声を荒げた。それはおかしい。彼女は誰よりも尊くて、敬われるべき存在だ。だからこそすべてのしきたりが守られてきた。エヴァンスの言葉は最大の侮辱だ。


 セトが唇を震わせているのにも気づかず、彼は必死の形相で続ける。


「今からでも遅くはない。彼女を島の外へ逃がすんだ。四六時中をともにする君たちならできるはずだ」

「そんなことをして何になるんですか」

「何に、って」


 彼は一秒も迷わない。


「彼女の命が救われる。人間として当たり前のことだろう」


 エヴァンスの目はとてもまっすぐで、陰りなどありはしなかった。

 その目を見てしまったら、もう何を言っても無駄なのだとわかって、セトは力ませた腕をだらんと下す。「僕が手はずを整えよう。君たちの協力があれば必ずできる」と言い残してその場を立ち去った。


 セトはゆっくりと振り返った。うつむいたまま足先を見ているレイは一言も発さない。なぜだか無性に腹が立って、「どうして何も言ってくれなかったの」と非難を向ける。


「君なら、あのわけのわからない言葉に言い返せたはずなのに」


 彼はまだ何も言わない。ねえ、聞いてるの、と少し声を荒げればようやく返事があった。


「俺はあの人の言うことが正しいんじゃないかと思う」


 絞り出すような声だった。少し震えていたけれど、それでも彼ははっきりとそう言った。

 セトはわずかにかぶりを振る。


「急に何を言い出すの」

「だって俺はリィリィが大事だ。大事だからもっともっと一緒にいたい。何年も、年十年でも。それはおかしいことなのか?」

「そんなのおれだって同じだよ。リィリィが大好き。でも十四歳になったら神にお返ししなきゃいけないって、僕たちが生まれるよりずっと前から決まっていたことじゃないか」

「でも先生の暮らしている場所にこの儀式はないはずだ。つまり島の外へ連れ出せばリィリィは生きていけるってことだろ」

「そんなのあまりに身勝手だ!」


 セトは両手を握りしめた。


「もしそうだとして、リィリィがいなくなったらこの島はどうなるの? みんなどうすればいい? どうやって生きていけばいい? これは僕たちだけの問題じゃないんだよ」

「俺はどうだっていい!」


 彼は叫ぶように言った。

 嘘だ、と反射で返しまう。レイは嘘じゃないと言い切る。


「どうだっていいんだよ、俺は。リィリィとおまえより大事なものなんて俺にはないんだ。ああ――最初からこうしていればよかったのに、なんで今まで気づかなかったんだろう」


 思考を反芻するようにひとり言を繰り返していた彼は、やがて大きく息を吐いた。そしてセトの手首を強く握る。跡がつくほどに。


「だからセト、おまえも一緒にこい。どこへ行ったって俺がおまえたちを守るから」


 どんな困難にも立ち向かっていけそうな、頼りがいのある眼差し。いつもの彼の目なのになぜだろう、どうしてもうなずくことができなかったのだ。

 脈だけが異様に速かった。






 あれだけの言い争いが嘘だったかのように静かな日々が続いた。誰も何も言い出さなかったのだ。レイもエヴァンスも、あの日のことは少しも口にしようとしない。

 あれは自分の見た白昼夢か何かだったのかもしれない――そうであってほしいと心から思った。


 祭りの一日目、久しぶりにレイと二人きりになった。リィリィは着替えに行ってしまって、二人は待ちぼうけなのだ。部屋で向かい合うようにして腰を下ろす。

 最初は「ずっと慌ただしかったね」とか「料理が美味そうだ」とか他愛のない話をしていたけれど、ふと沈黙が生まれて、しばらく黙りこんでしまう。それからレイは意を決したように顔を上げた。


「先生が舟を用意してくれた」


 セトは息を詰める。なんのこと、なんてとぼけるのはとても難しかった。


「浜辺にとめてある舟のなかで一番頑丈そうなのがあるだろ。あれの鍵を壊してくれたんだ。いつでも動かせる。海図も手に入った」

「レイ、まだそんなことを」

「決行日はもう決めた」


 彼は身を乗り出した。


「頼むよ、俺と一緒に来るって言ってくれ。俺たちが逃げたら、島に残ったおまえがどんな目にあわされるかわからない」


 あんまりにも必死な、縋るような目だった。セトはぎゅっと唇を噛む。

 うなずけ。いつだってレイの方が正しいのだから、早くうなずいてしまえばよかったのだ。けれど身体は強張ったままどうしても動いてくれない。


 レイはゆっくりと目を伏せた。

 苦しげに顔を歪ませて、「いいか、明日の朝だ」と言う。


「明日の朝だぞ」


 言い聞かせるように繰り返した彼は、立ち上がって足早に部屋を出て行った。






 日が暮れて、空の端は群青とオレンジが入り混じる。すっかり薄暗くなった外からは焚火の音と音楽が聞こえていた。屋敷の庭には島民からの贈り物が積み上げられている。

 セトは縁側に腰かけてしばらく眺めていた。


 時々一人で縁側に座ってぼうっとするのが好きだった。

 レイはどちらかと言えばせっかちだし、リィリィはすぐに飽きてどこかへ行ってしまうけれど、セトはいつまでだって座っていられるのだ。

 花の甘い香り、木々の青さ、鳥の鳴く声、遠くから聞こえる人々のざわめき――この島のすべてが好きだった。


 それでも前夜祭から抜け出すわけにはいかないから、あたりが完全に暗くなったころには立ち上がった。いつのまにか星の瞬きも強くなっている。


 二人はどこだろう。

 どこかの部屋にいるはずだから順番にのぞいていく。廊下にペタペタと足音が響く。屋敷はしんと静まりかえっていて――静かすぎる。呼吸がだんだんと早くなっていく。気づけば早足になっていた。


 レイもリィリィも、そういえばエヴァンスも、誰もどこにもいないと気づいたのはしばらくしてからのことだった。


「駄目……」


 セトは無意識に呟いていた。さーっと全身の血が引いていく。嫌な予感というには思い当たることが多すぎたのだ。


 騙された、と理解するまでそう時間はかからなかった。


 このままでは取り返しがつかないことになる。

 セトはすぐに弓矢を背負って、縁側に並べていた靴を足にひっかけた。少しつまずいて、けれどなんとか態勢を立て直す。

 松明に火を灯して走り出した。どこへ行けばいいのかなんてわからなかった。それでも海の見える場所――浜を一目で見下ろせる場所へ。ならいつも浜の祈りをする崖しかない。


 坂道を一息に駆け下りて、広場で踊る人々の間を突っ切る。「そんなに急いでどうしたんだ」とか「ご馳走ができているよ」とか声をかけてくれるのもすべて無視して、ただひたすらに走った。


 全力疾走で上がっていく呼吸。背筋ににじむ汗。足元もよく見えないほど暗かった。今にも消えそうになる松明の明かりだけを頼りに走るしかなかった。


 どうして、と心の中で何度も繰り返した。


 どうしてこんなことをするんだ。ずっと三人でやってきた。

 穏やかな日々、清い信仰、満ち足りた愛情。何もかもがそこにあったはずなのに。全部、全部台無しになってしまう。


 両ひざに手をつきながらぜえぜえと息を荒げた。

 崖の上までたどり着いたセトは乱暴に汗をぬぐい、松明を高くかかげた。そのよく見える両目で浜を端から端まで浜辺をしらみつぶしに探していく。


「あ――」


 見つけた。見つけてしまった。

 岩場の波をかき分けるようにして船が漕ぎだしたのだ。眉間にしわを寄せながらじっと目を凝らせば、レイやエヴァンスが錨を回収しているのがわかった。リィリィも乗っている。


「レイ!」


 このままではまずい――とっさに叫んでいた。腹から声をだすようにして、喉がちぎれそうになるほど大きな声で。


「レイ、聞こえているんでしょ! 行ったら駄目だ、お願いだから引き返して!」


 こんなに大きな声を出したのは生まれて初めてだった。

 レイはふと顔を上げる。あんなに遠くにいるのに視線が交わったのだと思った。やっぱり聞こえているんだ、とセトは言葉をかけ続ける。

 けれどレイが戻ろうとする気配はなくて、不意に顔を背けられた。舟はゆらゆらと揺れて遠ざかるばかりだ。


 息は浅かった。もう何十回目かもわからない「どうして」を呟いていた。


 どうして、こんなことになってしまったのだろう。いつだって正しいのはレイで、自分はその後ろを必死についていくだけだったのに。追いつけないとわかっている背中を懸命に追いかけて。ずっとレイみたいになりたかった。

 なのに今は彼の歩いていく先が真っ暗で、何も見えやしない。


 黒い波は寄せては返すを繰り返した。舟はセトの声なんて届かないところへ行ってしまった。


 リィリィを失いたくないのはセトだって同じだった。大事なのだ、本当に。

 だからこそ神へ返すべきだったし、この島で生きる人々をどうでもいいなんて死んでも言えなかった。言えるわけがないのだ。すべてが大好きだったから。


「嫌だ、嫌だよ――」


 思えばあの日からおかしくなってしまった。

 何もかもが狂い始めた。


 もし叶うならどうかあの日へ戻してほしい、とセトは痛烈なまでに願っていた。願っていたけれど、同時にそれが何一つ意味を持たないことも知っていたのだ。


 これだけはどうしても譲れなかった。

 震える手は背負った弓矢へ伸びていた。


 矢先に布をきつく巻き、松明の火を移して燃やす。そして体温を失った指先で矢をつがえる。

 ドクドクと嫌な音を立てる心臓を鎮めるように、深く息を吸う。何度も吸う。瞬きの回数は減って、全身の力が抜けていく。


 空を飛び回る鳥を射抜くときと同じだ。狙いを定めれば、思考も動揺もかき消える。


 柔らかな目元は不思議なほど澄んでいて――セトは呼吸の波に合わせて矢を放った。


 眩しいほどに光る火矢は暗闇を駆け抜ける。


 もうずいぶん遠くまで行った舟の、ピンと張られた帆に突き刺さる。小さな火は炎に変わり、あっという間に燃え広がった。轟々と燃え上がり、焼け落ちていく舟は真っ暗な海でひときわ鮮やかに輝いた。まるで夜空の星が落ちてきたかのように。


 呆然と、立ち尽くしていた。

 大きな瞳に炎の灯りが反射していた。


 セトはその場に崩れ落ちる。こみあげてきた嗚咽を殺して、声も出さずに一人で泣いた。


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