いつかわたしの刑事さんが

@soda_story

第1話


 夢と知っていれば目覚めなかった。

 久しぶりに楽しい夢を見た。嫌な職場の病院で、出てくる人たちもいつもの医者や看護師や患者なのに……。

 看護助手だからといって馬鹿にされず、アラームの音に気が付かなくても怒られず、休憩時間が少し長引いても笑って許され、患者からセクハラや無茶な要求をされない。

 実際にそんなことが起こるはずない。せめて、夢の中だけでも楽しくいさせてくれと、いつも願っていた。

 みのりは仮眠していたソファから腰を上げた。

 まだぼーっとしていて、少し頭が痛い。

 口の中は乾いているし、今すぐにでも歯を磨きたい。でも、壁にかかった自分の姿を見ると、そんなことを言っていられない。

(どうして、髪の毛がすぐ跳ねちゃうの)

 ずっとロングだった髪をショートボブにしたことを悔いる。

 ソファに置いていた自分のバッグから、整髪剤を取り出した。五百円玉くらいの大きさを手に取り、髪の毛になじませる。

 髪の毛の跳ねは直るが、ぺしゃんこになる。

 それが余計に苛立つ。

 何をやっても器用にできない。

 だから、仕事でも怒られてばかりだ。

 何度か髪の毛をいじって、自分の中で五十点の出来栄えになってから、トイレに行き、歯磨きをする。

 その途中で、スマホのバイブが鳴る。

 ポケットから取り出すと、『木島すみれ』という文字が映る。

 同じ病院で働く看護師だ。

 急いで口をゆすいでから、電話に出た。

 みのりが口を開く前に、

「今すぐ203号室にきて!」

 と、甲高い怒鳴り声が聞こえた。

 みのりは返事をするのも忘れて、通話を切った。

 スマホをポケットに仕舞いながら、思わず舌打ちをした。

 木島すみれ。いま、みのりが抱えている一番の問題の相手であった。

 医者には媚を売って、看護助手には常に高圧的な態度を取る。背が高く、金持ちが連れて歩きたくなりそうな美人だが、性格のきつさが顔にも出ている。だが、医者たちはマゾ気質なのか、そんなすみれのことを色目で見て、機会があればデートに誘おうと決め込んでいる。

 医者たちもろくでもなくて嫌になるが、それ以上にすみれとは一切関わりたくなかった。

 こんな看護師と一緒に仕事するなんて、わたし可哀想。自分で慰めるのが、精一杯の気休めになる。

 みのりは休憩室を出る前に、大きく息を吐いた。

 それから一分もしないうちに、203号室が見えてきた。

 扉が開けっ放しになっている。

 ここに入院しているのは、植物人間状態で昨年から入院している橋爪という八十代の男性。患者は何も言わないが、家族が口うるさい方で、少しの間でも扉が開けっ放しになっていると、「見世物にするなんてひどい」とクレームを入れてくる。

 あまり反論しても、面倒くさくなるだけなので、「次回からは気を付けます」と口だけの約束をすることに病院側が決めた。

 そして、いつもそういう役割は看護助手のみのりに回された。

 嫌な気持ちを抑えながら、203号室に入ると、ベッドの脇に担当医の今泉と、すみれが眉間に皺を寄せている。

 今泉は三十歳だが、中肉中背だが、猫背な上に白髪が混じり、五十近くに見えるときもある。すみれは今泉よりも十センチメートルほど背が高い。

「あの、どうされたのですか」

 みのりが恐る恐る声をかけると、

「この状況を見ても、わからないわけ?」

 すみれが呆れたように首を傾げる。

「え?」

 みのりはベッドに横たわっている橋爪に目を落とした。

 橋爪は常に呼吸器をしていたが、そのチューブが抜けていた。

「池田さん」

 今泉が複雑な表情で顔を向ける。

 その途端、心臓が徐々に激しく鼓動を打つようになる。

「はい」

 みのりは震える声で答えた。

 今泉が何か言おうとしたが、それよりもすみれが先に、

「橋爪さんが亡くなったの」

 と、低い声で告げた。

 すみれはチューブを手に取り、見せつけてくる。 

「池田さんのせいでしょ!」

「え?」

「とぼけないで」

 みのりは身に覚えのないことに、頭が真っ白になった。

 元から、責められるとパニックを起こしやすい。大声を上げられただけでも、過去の恐い記憶がフラッシュバックして、パニックを起こすことがある。

「池田さん」

 今泉が落ち着いた口調ながら、厳しい目で呼びかけた。

 みのりの手は震えていた。

 それに構わず、今泉は続ける。

「休憩に入ったのが三十分前。その前に、橋爪さんを床ずれしないように動かしたんですね」

「はい」

 みのりが頷くと、すみれが大きくため息をつく。

「その時に、チューブが外れたのか」

 今泉が小さな声で、ため息交じりに言った。

「先生、遺族にはなんて説明をしましょう」

 すみれは強い口調できいた。

「それは、また後で話そう」

「でも、先生」

「私の勝手な判断じゃ、これは隠しきれないよ」

「だけど、病院側の責任にされては困りませんか? 池田さんのせいで、病院側にも不利益が生じるでしょうし、先生だって責任転嫁されかねませんよ」

 すみれは必死に今泉に説明しながら、冷ややかな目をみのりに向けた。

「さっきから私のせいみたいになっていますけど……」

 続けようとしたところを、

「言い訳はやめて」

 すみれは冷たく言い放つ。

 今泉はずっと床の一点を見つめている。

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