夏の名

北嶌千惺

第1話 なつやすみ

 蝉の鳴き声。寄せて返す波の音。じりじりと照り返す太陽。テニスの午前練習の後だと、堪える暑さだが、なんとなく涼しく感じるのは海と風のおかげだろうか。

「あっちい……」

 それでもこの一言はこぼれる。階段の中ほどで、手すりに座って、香坂咲守こうさかさくまは友人を待っている。

「暑くて暑くてたまらない咲守さくま君に!このアイスをあげよう」

 下段から冷たいアイスの袋が現れた。

「どこに行ったのかと思えば、これ買ってたのか」

「暑い、疲れた、のどが渇いた。これらを潤すには氷系のアイスしかないだろう?」

「これ、夏海ちゃんとこの?」

 袋を開けながら尋ねる。寺の息子である、友人の弓削光雅ゆげこうがは頷いた。

「光雅のおごり?」

 シャクッとアイスをかじる。熱い体に染み渡るような冷たさ。少し気分が晴れる。

「九十円くれるか?」

 そういいながら、光雅は右手を差し出した。

「この前焼きそば買ったな」

 二週間前に二人で遊びに行ったときに、咲守が光雅におごっていたのを思い出した。

 光雅は微笑んで右手をしまった。ふと海の方を見て見ると、一つ小さな船が浮かんでいるのを見つけた。

「んー。……あれ、咲守の叔父さんじゃないか?」

 光雅が指さした先を見るが、咲守には黒い人影が動いているようにしか見えなかった。

「……分からん。良く見えるな」

「視力だけはいいからな。……呼んでみるか」

 言い終わると、光雅は勢いよく空気を吸い込んだ。

「おじさーん!衛おじさーん!」

 咲守はあまりの大声に思わず耳を塞ぐ。

 光雅は大きく腕を振った。

 船の上の人物は、少し時間を置いてから手を振り返した。

「ほらな?」

「ほんとだ」

 香坂衛はこの町の交番勤務員だ。今日は休みなのだろう。船の上で釣りをしていた。

 アイスが溶けてきて、早く家に帰ろうと手すりから手を離した時、下方から女の子の叫び声が聞こえてきた。

「ちょっと、光兄こうにい!うるさい!」

 階段の下を見て見ると、短いツインテールをした女の子が、仁王立ちで光雅の方を睨んでいた。

「あれー、夏海ちゃんじゃん。さっきぶりー」

 ひらひらと手を振る。陽気な光雅とは反対に、津積夏海つつみなつみは怒っていた。

「今お母さんが大変なの、知ってるでしょ⁉うるさくしないで!」

「あれ?今もしかして体調悪い?」

 光雅の言葉に、夏海は少し俯いた。

 先ほど夏海の母は表にいなかったので、光雅は夏海の母、津積渚の様態を知らない。

「……少し。さっきまでは元気だったのに」

「夏海ちゃん、今お母さん何か月目だっけ?」

 夏海は顔を上げた。

「たしかね、九か月と二週間、か三週間」

 夏海の母は、今妊娠中だ。夏海が今小学二年生なので、七才ほど年が離れる妹弟になる。

「もうそんな経つのか。夏海ちゃんは妹と弟、どっちがいいんだっけ?」

「妹!」

 夏海は食い気味に答えた。

「妹ができたらね、一緒にお人形さんで遊ぶの。それから一緒にお料理してね、いっぱいお世話するの!」

「そっかー、頑張れよー」

 光雅が手を振る。夏海はそんな光雅を指さして言った。

「そういうわけだから!うるさくしないでよね」

「はーい」

「夏海ちゃん。俺たちこれから母さんの作った、ひじきの炒め物と黒糖のドーナツ食べるんけど、食べにくる?」

 咲守のお誘いに、夏海の顔がパッと華やぐ。

咲兄さくにいのお母さんのドーナツ大好き!でもね、あたしこれからみかんちゃんと遊びに行くの」

 夏海は残念そうな顔を見せた。

 葉月みかんは夏海とは違う小学校に通う女の子。咲守たちの通う高校とみかんの小学校が近いことがあり、夏海が遊びに行った時に偶然出会って意気投合した。

「じゃあ夜まで取っておくからさ、晩御飯の時間になったらおいで。おばさんも来られるなら連れてきて。一緒にご飯にしよう」

 夏海の顔が再び華やいだ。

「分かった!みかんちゃんも呼んでいい?」

「いいよ。ご飯は多い方がおいしいし」

「ありがとう!じゃあね!」

 夏海は階段下の売店へと戻っていった。

「しっかし妹かー。でもこういうのって、だいたい兄、姉の想いとは別の性別で産まれてくるよな」

「まあ、確かに。俺も弟が欲しいって言ったけど、結局妹だったからな」

 咲守の妹は今中学二年生。部活には入っておらず、今は家にいるはずだ。

「その点オレの兄貴は弟が欲しいって言ってオレが生まれたから、結構喜んでたらしい」

「でも露樹つゆきさんは違ったって言ってなかったか?」

「姉貴はオレの時も兄貴の時も、妹を願ったんだと」

 光雅の姉、露樹は長男の公博が産まれた時も、光雅が産まれた時も、心底がっかりした。

 それでもかわいい弟たち。露樹はがっかりした思いもすっかり忘れて、二人を愛した。

「ところで咲守、夏休みの宿題終わったか?」

「えー、夏休み入ってまだ一週間だぞ?手すらつけてない」

「だよなー。と、いうことで、急いで帰る!走るぞー!」

 いうが早いが、光雅は階段を駆け上っていく。

「あ、おい!光雅!」

「夏海ちゃんが帰ってくる前にできるだけ終わらせるぞ!」

 なぜ光雅がここまでやる気になっているのか。咲守はすぐに分かった。

「ああ、そうだな。今年の夏は、忙しくなりそうだ!」

 光雅に続いて、咲守も走り出す。長い階段は五十段ほどある。そこから香坂家までは約三分。熱い夏、部活の後。これだけ疲労と暑さが重なれば、一気に体の体力が奪われる。

 香坂家に着くと、庭掃除をしていた咲守の母である七海が、驚いた表情で出迎えた。

「どうしたの一体。汗だくで、息切らしちゃって」

 男子二人は肩を震わせて、浅い呼吸を繰り返した。

「ちょ、ちょっと……息が……」

「み、水。母さん、水を……」

 母は息子とその友人を見て、微笑ましそうに笑った。

「分かったわ。ついでに昼食の準備もしておくから、お風呂に入ってらっしゃい。光雅君、あなたの服は前に来た時のものがあるから用意しておくわ」

「はー……い。ありがとうございますー……」

 七海は近くにあったペットボトルを二人に渡した。

 一気に水を飲み干した二人は、急いで風呂場へと向かった。

「ふふふ。本当に元気ね」

 風が凪いだ。周りの生き物が皆元気に動く。

「今年の夏は、騒がしくなりそうね」




 一服をして、咲守は夕飯の時に大勢の人が来ることを七海に伝えると、七海は喜びながら夕食の買い出しへと出かけた。

 夕飯時になると、香坂家には津積夏海と渚、葉月みかん、光雅の両親の美鶴と小治郎が集まった。夏海の父である津積火実十ひみとは出張でいない。

 香坂家の広い居間では、明るく楽し気な声が満ちていた。

「あー!それわたしのちまき!お兄ちゃん!」

「んー。とっておかないのが悪い」

 咲守はちまきの笹をはいで食べた。

「お母さん!お兄ちゃんが!」

「落ち着きなさい優美ゆみ。ちまきならまた作ってあげるから」

「そうそう。食べ物一つに品なく声を荒げてたら、良い彼氏ができないぞ」

 ちまきを食べ終えて、咲守は次の食べ物へと手を伸ばす。

「余計なお世話!お兄ちゃんなんて大っ嫌い!」

「さいですか。お好きにどうぞ」

 香坂兄妹の喧嘩を微笑ましく見ていたのは大人たちだった。

「相も変わらず仲がいいのね」

「よくない!」

「喧嘩は駄目だよぅ」

 怒鳴る優美に、みかんが弱々しく指摘する。

「だって!」

「あ、エビのマヨネーズ和え、最後の一個」

「わたしがもらう!」

 咲守がしれっというと、優美はすかさず最後のエビをとった。

 美味しそうに食べる優美の横で、黙々と食事を進める夫婦がいた。

「あ、あの。光雅お兄さんのお母さん、お父さん、楽しくないですか?」

 美鶴と小治郎は、みかんに言われて顔を見合わせた。初めて会ったみかんにとっては、二人が嫌そうに食べているように見えた。

「ああ、ふふふ。楽しいわよ。とても」

「私たちはいつもこうなんです。特に不機嫌になったわけではないから、気にしないでほしい。ごめんなさい」

 小治郎は隣にいるみかんの頭を撫でた。優しく温かい手だった。それだけで悪い人ではないことは分かった。

 食事を始めて二時間して解散した。

 優美は津積母娘を家まで送っていた。

「優姉は、咲兄が嫌いなの?」

「大っ嫌い!あたしのちまき食べたんだもん!光雅君のお姉さんとお兄さんは優しいのに!」

「夏海、どうしてそう思ったの?」

 手を繋ぐ渚の顔を見上げる。

「だって、優姉と咲兄って、時々けんかするの。兄妹ってみんなそうなの?あたしも赤ちゃんと喧嘩しちゃう?」

 不安そうな顔を渚と優美に向ける。渚は軽く笑った。

「そうね、そんなものよ」

「うーん……」

 家に着くまで喧嘩の話はそれ以上しなかったが、優美が帰った後、渚は娘に聞いた。

「でも、優美ちゃんも咲守君のこと本気で嫌ってはないこと、分かるでしょう?」

「うん。だって咲兄優しいし、勉強も教えてくれるし、優姉にお土産とか買ってるもん」

「夏海も喧嘩は絶対すると思う。けどね、それは相手と近いからするの。好きだからするのよ」

「うーん?よくわかんない」

「そう?まああの様子だと、明日か明後日には元に戻ってるわよ」

 渚はそういうが、夏美にはそうは思えなかった。だから次の日、二人が何事もなかったように夏休みの宿題をしていることに驚いた。

 夏海はあの後二人がどうなったのかが気になって、十時ごろに香坂家に行った。今までこんな気になったことはなかったが、自分がお姉さんになるのだと思って、兄妹とはどのようなものなのかと、今までより一層気になっていた。

「優姉、昨日喧嘩してなかった?」

 居間で咲守が優美に数学を教えている光景を見て、夏海は困惑した。

 優美は言葉に詰まって目を逸らした。

「こいつ、昨日の夜宿題しようとしたら、数学が分からないー、って言って、教えろって泣きついて来てさー」

「泣いてない!嘘言わないで!」

「父さんいなくて、母さんに言ったはいいけど手が離せないからお兄ちゃんに教えてもらいなさいって言われて。俺の部屋の前に来たはいいけど、嫌いと言った手前声かけられずに、部屋の前で右往左往していたのは誰だっけ?」

「なんで全部言うの!」

 立ち上がって怒る妹に落ち着くように促す。

「お兄ちゃん特性ちまきがあるから。それと、最中もあるぞー」

 それを聞いて、優美は静かに座った。

「いいんだ?」

「……だって、お兄ちゃんのちまき、お母さんのよりおいしいんだもん」

「へー、咲兄すごいんだね」

「これでも家庭科の評価4なんだ」

 夏海はよくわかっていない様子で、相槌をうった。

「夏海ちゃん来たことだし、休憩にするか。お茶入れるから、上がって」

「やった!ちまきも?」

 咲守は時計を見た。

「ああ、そうだな。そろそろ出来上がる時間か」

 咲守は台所に行って、蒸し器の中を確認する。蒸気とともに良い香りが漂ってくる。タイマーも止まっているので、まずは火を消してもう少しだけ時間を置いて皿に並べた。

「はいどうぞ。熱いから気を付けて」

 夏海はちまきを手に取ってみるが、熱くてとても持てるものではなかった。

 冷めるまで待つことにした夏海は、それまでの時間を潰そうと、一度家へ戻って宿題を持ってきた。

「咲兄、あたしにも教えて!英語と算数」

「え、今の小二って、宿題出すほど本格的に英語やってんの?信じらんねー」

「あたしのクラスの先生だけみたいだよ」

 咲守は参ったという風に頭を掻いた。

「俺英語できないんだよ。日本人なら英語する前に、きちんとした日本語を学ぶべきだと思う」

「これ、お兄ちゃんの英語から逃げるための常套句」

 優美は人差し指を咲守に差して、こそっと耳打ちした。

「じょうとうく?」

「決まり文句よ」

「いつも言ってるってことだね」

 夏海は理解して、両手を合わせた。

「ところでお兄ちゃん。時間はいいの?」

 時間は十一時をまわっていた。

「あー、もうこんな時間か。昼飯食ってくる」

「どこか行くの?」

「部活。今日午後錬なんだ」

「だから宿題はわたしが教えてあげる」

 朝に助産師の仕事へ出かけた七海が作り置きしていた昼食を温めて食べ、部活へ行く準備に取り掛かった。

「咲守ー」

 十二時になって光雅が自転車に乗って咲守を迎えに来た。ここから高校までは三十から四十分ほどかかる。

「お兄ちゃーん!光雅君来たよー!」

 咲守の返事がなかったので、優美が兄を呼ぶ。すると、彼は階段を駆け下りてきた。

「おはよー。今日も暑いな」

「なー。でも今日は波が高いし、明日は台風だとかなんとか」

 咲守も荷物を自転車の前籠に乗せて、自転車にまたがる。

「優美、出かけるときは戸締りしておけよ」

「分かってる」

「それから――」

 咲守が言葉に詰まるのを見て、優美は小首を傾げた。

「いや、何でもない。行ってきますー」

「?いってらっしゃーい」

「兄たちいってらっしゃーい」

 咲守たちは手を振って、坂を下っていった。

 下っている途中、優美の顔に陰りが見えた気がした。

 優美が居間へ戻った時、夏海がまた兄妹についての質問を投げかけてきた。

「優姉は咲兄のどんなところが嫌いなの?」

 またその話かと少し嫌気がさしたが、優美は宿題をしながら答えることにした。

「いじわるする所とか、わたしのお菓子勝手に食べちゃうとか、いちいち人前でわたしの笑い話したりとか。兎に角いっぱい」

「じゃあ好きな所は?」

 好きな所を聞かれて、シャープペンシルを持つ手が止まった。頬杖をついて、少し考える。

「……去年の、誕生日に、ケーキ買ってもらったの」

「へー!どんなの?」

「ここからだと遠い、都会にしかないケーキ屋さんの。普通のケーキより少し高いやつ。誕生日の二日前のテレビでやってて。美味しそうだな、って言ったら、誕生日の日に買ってきてくれたの。すごく高くて、電車代もバス代もかかったのに。……お兄ちゃん何も言わないから、お父さんが買ってきてくれたのかと思ったら違ったの。じゃあ誰だろうって思ってたら、お兄ちゃんがお母さんに怒られてるところ見ちゃって。あ、お兄ちゃんがわたしの為に買ってきてくれたんだ。ってその時分かったの」

 その前から、咲守は七海からお小遣いを三か月分前借していた。その時は、近くのケーキ店で優美のためのケーキを買うということしか言っていなかった。

「その時はすっごく嬉しかった。まさかそこまでしていてくれていたなんて、思ってもみなかったから」

「咲兄、優しいもんね」

「う、うーん。…………うん」

 嫌なことばかりが記憶に残るが、優美のことを想ってして来たことも多くある。

ただ思い出すと、とても気恥しくなってしまう。

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