メイヘム・インナーワールド

すやすや太郎

第1話 情け無用

 顕谷あらやは目を覚ました。他人が使っていたベッドにいきなり放り込まれたみたいな違和感を感じながら、起き上がる。


 ちらっと壁にかかった時計を見ると七時前で、その秒針の動きをじっとみていると見覚えのある部屋に自分がいる事に気付く。


 澄ました顔で一階のキッチンへと向かう。ヤカンに水を入れてコンロで火にかける。そしてカーテンを勢いよく開けた。


 良く言えば広がる大自然、悪く言えば鬱蒼と生い茂る木々に囲まれていることを実感する。それを新鮮に感じられることは素晴らしい。木々を通してできた木漏れ日は顕谷の心を落ち着かせた。


 一日の始まりにはコーヒーが合うと顕谷は思い込んでいる。豆にも淹れ方にもこだわりは無い。顕谷は全て勘でコーヒーを淹れる。こだわっている事実よりも、こだわっているふりをすることが何よりも大切で、何事も形から入るべきであると顕谷は思っていた。そして今自分が置かれている状況を思い返そうとした。


 四十半ばで早期退職して、この刎馬はねま島で生活を始めてから丁度一週間が経っていたはずだ。ただひたすらに静寂な生活を求めていた。だからこのログハウスには一切電子機器を置いていない。


 ということはコーヒーをいざ淹れようとしても、その方法は検索できない。でも良いじゃ無いか、どうせ大した味の違いはわからないのだから。


 それからこの世界や宇宙の成り立ちについて思いを馳せたり、今日は何をしようかなどとぼんやり考え、浴室に向かい洗顔と歯磨きを済ませる。


 再び台所へ向かうと、火にかけっぱなしだったヤカンが悲鳴を上げていた。とりあえず薄い紙をカップの上に敷き、適当に砕いた豆を流し込む。そして一気に上から熱湯をかけた。


 そういえば一気にお湯を入れてはいけなかったはずだ。ゆっくりとお湯をかけると味が良くなるという話を聞いた気がする、と思い出した時にはすでにカップがお湯で溢れていた。


 失敗を気にすることもなく、そのまま待つ。抽出された黒い液体が溜まるのをひたすらに待つ。ゆったりとしたこの時間の流れが、心からの安らぎに違いないと顕谷は思い込もうとしていた。実際は手持ち無沙汰で早く飲みたい一心だったが、ただ待つしか無い。


 五分ほどその場に立ち尽くし、もういいだろうとカップを持って玄関から外に出た。


 むせかえるほどの自然の匂い、それとコーヒーの匂いが混ざり合う。木々のざわめき、種類など知らぬどこぞの鳥や虫の鳴き声に耳を傾ける。


 そして顕谷は手に持ったコーヒーを背後にいた何者かにぶっかけた。


 見事顔面に熱々のコーヒーがかかる。そいつは、うううと呻きながら顕谷にナイフを向けて、こう言った。


「あちいな、くそ……! 絶対に殺す。許さん!」


 コイツ、殺されても文句は言えないよな……


 顕谷がぼんやり考えていると、そいつはナイフを刺そうと一歩踏み出した。


 瞬間、顕谷はその脚を踏みつけた。そいつはバランスを崩し転倒した。そして全身をピクピク痙攣させてから動かなくなった。


 しまった……ナイフが首に刺さってしまったようだ。


 可哀想に。もう殺さないと決めたのに殺してしまった。


 なんと中途半端なヤツなんだろうか、俺は。


 顕谷はとりあえず落ち着こうとコーヒーを飲もうとしたが、中身はなかった。先ほど客に振舞ったからだという事に気付き、顕谷は無性に腹が立ってきた。


 もしかしたらまだ息があるかもしれない。一言文句を言ってやろう。


 顕谷は動かなくなったそいつの身体を仰向けにした。


「コイツ……誰かに似てるな……」


 よく考えてみても答えは出ず、暫くして気づく。


「あ、オレに似てるんだ……」


 どこからみても自分と瓜二つ。鏡を見たようだと言いたいところだが、反転してないので少し違和感がある。しかし全く同じ顔だ。


 なんてことだ……双子の兄弟を殺してしまった……


 顕谷は愕然とした。双子の兄弟がいた覚えはなかったが、それ以外に考えられない。いくら何でもそっくりさんと言えるレベルではない。絶対に一卵性の双子だ。


 今まで数多の人間の命を奪ってきた顕谷だったが、この事実はかなりこたえた。


 どうしようか……まあ一卵性はクローンみたいなものだから、自分自身であると言っても良いんじゃないか。じゃあこれは広い意味での自殺みたいなもの……


 うん! これはセーフなのかもしれない。いや、でも家族殺しと自殺のどちらが罪深いんだろうか……


「ごふっ!」


 突然双子の弟が血を吹き出した。


 まだ生きていたんだ! 因みに弟と言ったのはあまりにもコイツが間抜けでしょうがないからだ。弟はそういう存在だからそうに違いない。


「おい!大丈夫か?救急車は呼べないし、これといった治療もできないが安心してくれ!これ以上手を出すつもりはない」


「お、お、おまえ……何で? いつの間に拠点に来たんだ?」


「は? 拠点? 何言ってんだ。ここはオレの家だ」


「ははは」と乾いた笑みを弟は浮かべて続けた。


「おい……誰なんだよ……知らないぞ、お前みたいなやつ……」


「おいおい、兄に向かってなんて口聞くんだ? まあ、なんだ。どうせなら死ぬ前になにか一言くれよ。コーヒーを無駄にしたことは特別に許してやるからさ」


「ぐふっ………これが最期かよ……つくづくオレも………ツイて、ねえ」


 最期の瞬間まで、顕谷は弟が何を言いたいのかは全く理解できなかった。


 まあ双子の弟ということなら仕方ない。どこかに墓でも作ってやろう。


 顕谷は遺体の首元に刺さったナイフを抜き、ポケットにしまうと、哀れな亡骸を持ち上げた。


 いざ運ぼうとした瞬間、突然爆弾でも落ちてきたかのような、とてつもない衝撃が大気を揺らした。驚いて遺体を落としてしまう。


 爆発だ。それもかなり規模のでかい。この方角だと集落がある北の港じゃないだろうか……


 嫌な予感が顕谷の心を支配した。


 まさか……追っ手が? いや、それでもこんな派手なことする必要がない。


 待てよ、この弟が先遣隊だったとしたら? この場にいるのはまずいかもしれない。


 その時、顕谷は足元にに無惨にも横たわる遺体に何か異常な事態が起こっていることに気づいた。


 遺体の全体に少しモヤがかかっていった。そうとしかいえない。まるで少しずつ解像度が下がっていっているような……


 顕谷は目を擦ってみたが変わりなく、昔の携帯電話で撮った画質の悪い写真のようになった遺体は少しずつ形を保てずに崩れてきている。


 やがて粗さがドット絵のようになって、消えた。一滴の血すら残っていない。


 あまりのことに顕谷は言葉も出なかった。


 夢を見ていたのか? いや、確かにオレは殺したし、弟は死んだはずだ。これは夢なんかじゃない。


 何やら違和感がして、さきほどポケットに突っ込んだナイフを取り出した。


 そのナイフにも異変が起こっていた。先ほどの遺体のように徐々に実像が掴めなくなっていき、消えていった。


 あぁ、気が狂いそうだ……落ち着かなければ。とにかく冷静に。


 こんなときほど心を落ち着けなければならない。


 そうだな。コーヒーでも飲んで落ち着きたい。


 ああ、なんでコーヒーを台無しにしてしまったんだろう……


 数秒の逡巡の後、顕谷は決めた。


 「よし、爆発が起こった方に向かおう」


 決めたらすぐに走り出した。山間にあるこのログハウスから全力で走れば、一時間以内に北の漁村集落まで向かうことができるはず。




 山道を駆け足で下っていくと突然何者かが目の前に現れた。


 道化師クラウンだった。


 一目瞭然。どこからどうみても道化師。


 真っ白に塗った顔に強制的な笑顔のメイク。そして真っ赤な付け鼻ともじゃとじゃの髪の毛。フリルのついたド派手な衣装。


 二人はその場で立ち止まった。顕谷がまず口を開いた。


「誰だ……? 何で道化師がこんな山中に?」


 道化師も驚いたような表情で話す。


「誰だって言われても、僕は道化師さ。こっちこそ聞きたいよ。君は誰なんだい?」


「オレは顕谷だ。上のログハウスに住んでる」


「そりゃ顕谷だろうさ。でも上のログハウスを拠点にしてるってことは……やっぱり敵なのかな?」


 道化師の雰囲気が変わった。明らかに敵意を剥き出しにしてきている。


 顕谷にとってこの感覚には覚えがあった。どこか懐かしいような感覚。だが決して感傷に浸ることができて気持ち良いとかじゃない不快なもの。それは純粋な殺意。


「ま、待ってくれ。オレに敵意は無い。オレだってよくわかってないんだ。ついさっき双子の弟に殺されかけたし、急に北の方で爆発が起こるし。いったい何が起きてるんだ? 何か知ってるなら教えてくれ」


「双子の弟……? それはジョークを言ってるのかい? いや、おかしいな。おかしい。笑えないぞ」


「ジョークじゃない! オレと同じ顔だったんだよ。双子の弟以外ありえないだろ? しかもそいつ死んだら急に消えちまって。何が何だか……」


 暫く沈黙が流れた。ピエロは俯いて身体を震わせている。


 顕谷は身構えた。こいつも殺しに来るなら、やりたくはないが迎え討つしかない。


「ぎゃははははははははは!!」


 道化師がのたうちまわりながら手で地面を叩いている。どうやら笑っているようだ。


「なんだよ……お前おかしいぞ。なにがそんなに面白いんだ?」


 道化師は息も絶え絶えになりながら答える。


「いやぁ、もしかしたらそうだとしたら面白くてつい。失礼失礼」ごほんと咳をして続ける。


「君はこの島で起きていることを何も知らないんだね?」


「あぁ、そうだよ。何も知らない」


「だとしたらすまない。君はどうやら敵じゃないみたいだ。えーと、君の職業を教えてもらって良いかな?」


「は? 急に何で? うん………何もしてない。無職だよ」


「無職くん。ようこそ、このくそったれたゲームの世界へ。君を歓迎しよう。どうだい? 僕についてくるか?」


 道化師が顕谷へ手を差し伸べた。どうやら握手を求めているみたいだ。


 顕谷は考える。どうやら殺し合いをするつもりでもないらしい。敵ではないことはうまく伝わったようだ。何もわからない現状で、他に選択肢はない。コイツが害を及ぼさないのなら選択肢は一つしかない。


 顕谷は握手に応えた。


「よろしく、無職くん」


 突然、道化師の手がすっぽ抜けた。文字通り抜けて、ぽとんと落ちた。


 何のことだか顕谷はまったく理解できなかった。


 道化師は笑いながら「騙された?? びっくりした?? 義手なんだよね〜」とおどけた。


「……二度とするな」


「はい。すんません」


 かなり聞き分けの良い道化師だった。

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