第20話 麻栗の回想2 ~あるいは、陰キャが淫キャになったワケ~
わたしよりも、ちょっとだけ背の低い男の子。
彼の名前が貫井聖夢だということをわたしが知るのは、すぐのことでした。彼が勝手にわたしにそう自己紹介してきたからです。
はっきり言って、わたしは彼に対して、最初はなんの興味も抱くことはできませんでした。
静謐で完璧な、わたしの平穏で穏やかな世界。それに無断で踏み入ってくる、とても迷惑でやかましい存在程度にしか思えなかったのです。
わたしがそう思っているにも関わらず、彼はことあるごとに学校の図書館を訪れては、頻繁にわたしに話しかけてくるようになりました。
「麻栗っていつも文字ばっかの本読んでるよな~」
とか、
「なあなあ、『ショーセツ』って面白いのか?」
とか、
「本読んでる時のお前って、すっげえ綺麗な目してるよな!」
……とか。
当時は本当に、鬱陶しくて仕方のない存在だと思っていました。おまけに、わたしの方から名乗ったわけでもないのに、遠慮なく下の名前で呼び捨てなんかしたりして……なんてデリカシーのない男なのだと当時は思ったものでした。
それでもひたすら無視して、無視して、無視し続けて……だというのに、そんなわたしに彼が話しかける日々は相変わらず続きに続いて。
そんな感じで、三ヶ月ほど経過したある日のことでした。わたしが彼に、「いい加減にしてください」と、はっきりと言葉を返したのは。
ある日の放課後のことでした。小学校の図書館で、司書の先生もなく、わたしと彼とはその空間に二人きりで、窓からは西日が赤く差し込んでいて、そして。
彼は……聖くんは、今日も今日とて本を読むわたしのそばまでやってきていて、あれこれと話しかけてきて。
それがその日は酷く――大変に酷く、疎ましく思えてならなくなって。
「どうしていつもいつもわたしに話しかけてくるんですか。どうせわたしなんて、『話したところで面白くない嫌な奴』なんですから、わたしに関わらないでください。話しかけないでください」
だからつい、彼に向かってそんな言葉をまくし立てていたのです。
「あなたがわたしのことをどう思っているかは知りませんが、どうせわたしと話したところで嫌な思いをするだけですよ。どうやらわたしは話すだけで人を不愉快にするらしいので。無愛想で笑いもしない、嫌味なだけの地味な奴、というものらしいので、わたしと一緒にいたところであなたが損するだけなのでは?」
そんなことを言ったわたしに、彼はこう返してきました。
「おおやったぜ! 麻栗が初めて返事してくれた!」
……この人頭悪いのかな、とこの時は思いました。
***
結局、わたしはそのまま彼に押し切られるようにして、会話を交わすようになりました。
といっても、基本的には彼があれこれと喋り、それに対してわたしが気のない相槌を打つ、という、極めて一方的なコミュニケーションではありましたが。
わたしにとって彼は衝撃そのものでした。
どれだけ冷たくしても、無愛想にしても、決してわたしから離れていかない。
どんなに無視をしたところで、嫌そうな顔をするわけでもない。
一人で勝手に喋り散らかして、それで勝手に満足して、勝手に楽しそうにしている人間というのは、それまで出会ったことのない類の人種だったのです。
それと同時に、この頃になると少しずつ分かってきたこともありました。
まず、彼がさほど人の目を気にしない人間であるということ。
もう一つは、そんな彼が周りからやや孤立しがちな人間であるということです。
もしかすると、彼は彼なりにわたしにシンパシーを覚えていたのかもしれません。
集団に馴染めない……それゆえにどこか孤立しがちになってしまう人間同士としてのシンパシーを。
わたしが、そんな風に感じた理由は簡単です。
わたしもまた、覚えていたのです。彼――聖くんに対して、自分と似た人間に対して感じるようなシンパシーを。
***
「麻栗! 良かったら今日、ウチ来いよ!」
聖くんにそんな風に言われたのは、彼と知り合ってから半年ほど過ぎた頃のことでした。
「どうしたの、聖くん? 藪から棒に」
「だって
白いものを口から吐き出しながら、聖くんはそう言いました。
なるほど、とわたしは納得しました。
外はすでに冬の寒さが感じられる時期を迎えており、図書室の空調は設備も古く、わたしや彼の息遣いに白いものが含まれるのも多くなり始めておりました。
たとえ厚着をしていても、ぶるりと芯まで凍える空気には、さすがに耐えかねると彼も思ったのでしょう。
同じように感じたわたしは、「うん、分かった」と彼に首肯を返したところで……ふと、気になったことを訊ねました。
「……わたしなんかが聖くんの家に行ってもいいの?」
「え、なんで? 別にいいよ?」
「え?」
「え? なんか俺変なこと言った?」
「う、ううん……」
慌ててわたしは首を横に振ります。
この頃のわたしは、あまり自分に自信が持てない人間でした。聖くん以外に話す相手もおらず、周りからは遠巻きにされ、家族からは愛想の悪い不景気な子として扱われておりましたから。
そんな自分が聖くんにこうして受け入れられていること自体が、なんとも不思議でならないくらいだったのです。
「ま、いいや。とにかく、行こうぜ!」
聖くんはそう言って、わたしの手を引いて図書室から連れ出してくれました。
彼の指先が振れたところだけ、寒いのに妙にジンと熱くなったのを覚えています。
***
その後、学校を出て、彼の家へと向かいました。
一緒に道を歩いている最中、胸がジンジンと高鳴っているのに気づきました。自分がおかしくなったような気分でした。今にして思えば、それは恋の始まりの鐘だというのが分かるのですが……当時はそれこそ、心臓の病気になってしまったに違いないと考えておりました。
聖くんの家にたどり着いても心臓の高鳴りは収まりませんでした。
それどころか、聖くんの部屋に通されたところで、彼に「麻栗、熱でもあるのか?」と心配すらされてしまいました。どうやらわたしの顔は、真っ赤に染まっていたらしいのです。
「だ、だだ、大丈夫、だよ。あ、歩いてたら暑くなってきちゃっただけだからっ」
火照った顔をごまかすように、慌ててわたしはそう言います。なんだか、そう言ってごまかさなければならないような気がしたのです。
「あ、あのっ、ごめんね、あのわたし……お手洗い借りても大丈夫かな?」
「お、うんこか?」
「ち、違うけどっ!」
「まあなんでもいいや。トイレ、部屋出て右行ったところの突き当たりな」
「う、うん。ありがとう」
少々デリカシーに欠ける聖くんに内心でちょっとぷんすかしながらも、わたしはトイレを借りました。
心臓と顔の火照りを抑えたくて、便器に座って「はぁ……」と熱のこもった吐息を漏らします。
「わたし……どうしたんだろう。なんだか、ドキドキしてる……」
まだ『恋』を知らない未熟な心は、戸惑うことしかできません。
しかしそうしているうちに、次第に頭も冷え、鼓動も徐々に落ち着いてきました。
ある程度胸のドキドキが収まったところで、念のためトイレの水を流してから洗面所を出ます。
それから聖くんの部屋へと戻るべく彼の扉を開こうとしたところで――中から声が聞こえてみました。
「――聖夢。珍しくお友達連れてきたと思ったら、なんだか随分陰気な子ね? ちょっと付き合うの、考えた方がいいんじゃない?」
それは聖くんのお母さんの声でした。
玄関で挨拶した時は、感じの良い、優しそうな顔と声で話しかけてくれた人でした。それに安心して、わたしも頭を下げて返したはずでした。
それが、どこかまとわりつくような、嫌な感じのする声で、聖くんにそんなことを言ったのです。
怖くて逃げだしたくなりました。不愉快で吐きそうになりました。怯えて立ち竦みました。――聖くんがわたしの敵に回ってしまったらと思うと、頭がおかしくなりそうでした。
そんな風にして、パニックになりかけた、ちょうどその時だったのです。
「どこが? いい子じゃん」
部屋の中から、聖くんのそんな言葉が聞こえてきたのは。
「てか、俺が誰と友達になろうが俺の勝手じゃん。麻栗のことよく知りもしないくせに嫌なこと言わないでよ」
「――ッ」
その言葉を聞いたわたしは、足音を忍ばせて再びトイレに戻ります。
こっそりと便器に改めて腰を下ろして、両手で顔を覆います。
胸が張り裂けそうなほど、心臓が再び暴れ出しておりました。
頭が沸騰しそうなほど、首から上が熱くなってしまいました。
そしてなぜか――下腹部に熱を感じました。下着に湿り気も覚えました。
スカートとパンツを脱いでみれば、おしっことは異なる染みが、クロッチの部分をうっすらと濃く湿らせておりました。
「これって……」
なぜそんな染みが生まれたのか、当時のわたしは知識もなかったため分かりませんでした。しかし本能的な部分で、聖くんを想ったから濡れたのだということを理解しておりました。
同時にわたしは悟ったのです。わたしの人生というものは、聖くんと出会うためだけに存在していたのだと。
そして同時に分かったのです。美しい存在がこの世に唯一あるとするならば、それは聖くん以外にありえないのだと。
そう――わたしは恋に落ちたのでした。
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