第26話 黄金の秋

 日は沈んだ。

 しかし今宵こよいは中天に満月が煌々こうこうと輝いており、ものを見ることができるほどには明るい。


 黒と白のモノクロームに満たされる林の中は、木々の枝葉がつくる天蓋てんがいれから、所々に月光が差し込んでいる。


 そのうちの一条に、レルシアがいた。

 抜身ぬきみの剣を片手に下げ、月光の中に浮かび上がる彼女は、いつかの夜と同じく美しく、そしてやはり悲しげだった。


「……嘘だ」

 しかし、言葉とは裏腹に、嘘でないとわかってしまった。むしろ、いろいろなことがに落ちてゆく。

 アランは後に続ける言葉を見つけることができず、黙った。


 父が、私を殺そうとしている。

 それも、あろうことか、レルシアを使って。


 知らず知らず、拳を握り締めていた。

 今、アランの胸中にふつふつと湧き上がってくるのは、ただ、怒りだった。


 悲しみなどない。もともと父に愛情など感じたこともない。

 幼いころより、抱き上げられた記憶も、やさしい笑顔を向けられた記憶もない。それらを与えてくれたのは、すべてセレオスの祖父母だった。


 父は、母のことなど愛してはいなかったのだろう。

 ただ自分の王位の安定のためだけに、親子ほども年の違う母を妻に娶り、子をなしたのだ。

 そして、後妻とその子供のために、不要になった自分を殺そうとしている。こんなにもあっさりと。


 吐き気がする。

 握りしめた拳は、爪が手のひらに食い込むほども力がこもる。

 ふざけるな。

 心の中で思ったつもりだったが、口に漏れていたらしい。

 レルシアの顔から微笑みが消え、悲しみだけが残って、彼女は目を伏せた。


「申し訳ございません、アラン様。お命を、ください」


 彼女が再びアランを見たとき、その目には恐ろしいほどの殺気がこもっていた。その目を見たアランの体が反射的に緊張した。


 レルシアが動いた。


 アランの体が無意識に反応する。体は後ろに動いた。


 今までアランの首があった場所を、レルシアの剣が横ぎに切り裂く。

 ぎりぎりのところで、剣はアランののどをかすめた。


「待て、待ってくれ、レルシア」


 アランは叫ぶが、レルシアは無言でさらに足を一歩踏み出す。

 そして再度、剣を横に薙ぐ。

 今度はアランは大きく下がり、それをかわした。


「君とは」

 距離を取ろうとするが、レルシアはさらに踏み込んでくる。

 アランはやむをえず剣を抜いた。


「戦いたくない」

 再び彼女が切りつけ、アランはそれを剣で受け止めた。

 凄まじい衝撃に、手が痺れそうになる。


 父。

 父の命で動く、レルシア。


 アランの中で、くらく粘度のある怒りが、どろりと流れた。


 続けてレルシアが放った突きをさばくと、アランは、レルシアの胴を狙って剣を振った。

 だがその攻撃は、難なく防がれた。

 いや、たとえ当たっていたとしても、相手は鎧を着ているのだ。胴を狙った攻撃では、相手を殺すことなどできない。

 アランは続けて、二度、三度と攻撃を加える。

 しかし、どれもレルシアの剣の鋭さとは比べ物にならない。

 技術が、ではない。殺気がこもっていないのだ。当然、どれも容易たやすく防がれた。

 アランはそれでようやく自覚した。自分には、レルシアは斬れないのだと。

 

「レルシア、頼む、思い直してくれ」


 答えの代わりに、剣が返ってくる。だがアランは続ける。


「私は、お前のことが……」


 アランの胸中が、絞り出されるように言葉になろうとした。しかし。


「やめて」


 攻撃が止まり、これまでになく鋭い声で、レルシアがアランの言葉を制した。


「聞きたくない。聞いてどうなるというの」


 レルシアは首を振り、手に持つ剣の切先が揺れた。



 *  *  *



 松明たいまつを持つことも忘れて飛び出したセレオスは、暗い林の中をできる限りの速度で進んだ。

 木々が行く手を阻む。

 足元は暗く、何が潜んでいるか判然としない。

 悪くすれば、窪みに足を取られたり、折れた枝を踏み抜いたりして、大怪我をする危険もある。

 だが、セレオスは構わず、やみくもに街の方向へ進んだ。


 アランにもしものことがあったら……。


 考えただけで、目の前が暗くなり、胸が締め付けられるように苦しくなる。


 段差につまずき転びそうになるのを、木の幹をつかんで踏みとどまりながら、セレオスは強く思う。


 アランだけは。

 アランだけは必ず自分が守る。

 何を犠牲にしても。 

 この身で足りるのならば、喜んで捧げよう。


 ――そう、あの時のように。


 思い出すのは、あの幼き日。

 黄金の秋。



 十年前のその日。

 どこまでも晴れ渡り、目が痛いほどの青空が広がる、ある秋の日。

 幼いセレオスはアランに従い、森を訪れていた。その日、アランが初めて王の狩に随伴を許されたのだった。

 

 猟師が犬を連れて先頭を歩き、その後を馬に乗った王と貴族たちが行く。そしてその後を、従者や側近たちが馬や歩きで、ぞろそろと続く。

 セレオスとアランはそのさらに後ろの最後尾を、馬でついて行った。


 王都近隣の森は秋を迎えると、まるで黄金の宮殿へと姿を変える。

 澄んだ空気の中、鮮やかに黄葉した木々は、秋の光を受けて黄金色に輝く。

 どこまでも続くカラマツは黄金を降らせるかのように落葉し、足元は金色の野となる。

 まさに黄金の秋という形容がふさわしい。


 その黄金の宮殿の中を、セレオスはアランとふたり、馬を並べて進んだ。


 そのうち、どうしたわけか、二人は大人たちの集団から離れてしまった。

 美しい景色に見惚みとれ、注意が散漫になっていたためかもしれない。

 あるいは、何か興味をそそられるものがあり、道を外れたのだったかもしれない。仔細しさいは、忘れた。


 いずれにせよ、気がついたときには、二人は完全に大人たちを見失ってしまっていた。

 もちろん、道もわからない。

 あわてて、もと来た道を引き返そうとしたが、すぐにそれもわからなくなってしまった。


 二人はしかたなく、途中で見つけた小川をたどって進むことにした。それほど大きい森ではないはずだった。流れに沿って進めば、いずれ森から出られると考えたのだ。


 二人とも、どちらかと言えば楽観的なたちである。

 木漏れ日の輝く美しい森の中ということもあって、不安はなかった。

 セレオスはむしろ、予想外の冒険に心が躍っていた。おそらく、アランもそうだっただろう。


 しばらく進んだとき、小川のほとりに人影が見えた。

 はじめは、狩に参加している猟師かと思った。

 もう冒険は終わりか。セレオスは内心がっかりしたのを覚えている。


 だが、馬を降り近づいてみると、それは猟師ではなかった。

 大人になったばかりというほどの青年。汚い身なりで、地べたに座り込んでいる。一目で、まっとうな人間でないことがわかった。手には瓶を持っている。酒を飲んでいたようだ。


 男は擦り切れた頭巾の下から、上目遣いにふたりを見た。

 無精髭に覆われた頬はこけ、半開きの口からは黄色い歯がのぞいている。

 

 目が合った瞬間、ふたりは逃げようとした。

 だが、振り返ろうとしたアランが、何者かに突き飛ばされた。

 アランの体は地面に倒れ込み、散り積もった落ち葉が、黄金の蝶のように舞い上がった。


 いつの間にそこにいたのか。

 アランを突き飛ばしたのは、やはり汚い身なりの、太った中年の男だった。手には、抜身ぬきみの小剣を下げていた。

「これはこれは、どこのお坊ちゃん方ですかな」

 男はたるんだ頬を片側だけ吊り上げて笑った。


「どうするんだい、そいつら」

 座っていた青年がのっそりと腰を上げながら尋ねると、太った男は馬鹿にしたような顔で答えた。

「決まっている。身代金を取るんだ。この身なりを見ろ。きっと貴族のガキだ。他へ移る前に、最後にひと仕事だ」


 太った男は青年に命じてセレオスを捕まえさせると、自分は倒れているアランに小剣を突きつけた。


「名前は。どこの家のガキだ」


 アランが黙っていると、男はアランの脇腹を蹴った。アランの顔が苦痛にゆがむ。


 セレオスは怒り、暴れようとしたが、青年に羽交い絞めにされている。子供の力では動けなかった。


 男はアランが答えないので、剣を左手に持ち替えて馬乗りになり、アランの顔を殴った。

 一発、二発。

「名前を言え」

 男が怒鳴りつけたが、アランは何も言わず、睨み返した。


 男は馬乗りのまま、少しのあいだ動きを止めた。セレオスからは後ろ姿しか見えない。何かを考えている様子だった。


 男はさらにもう一発アランを殴った。それでアランはぐったりとのびてしまった。


 すると男は小剣を地面に突き刺し、立ち上がった。

 そして、自由になった両手を自分の腰にやり、何やら動かす。


 次の瞬間、セレオスの背筋が凍りついた。

 男は帯を緩め、下穿きを下げたのだ。


 薄汚いチュニックの裾がめくれて、汚い尻がのぞく。

 次に、男はアランの着衣に手を付けはじめた。


 男の意図を理解したセレオスは、激しく叫びながら暴れた。

 だが、青年に背後から腕で首を絞められた。窒息しそうになる。


 頭の上から、青年が下品な笑い声とともに、太った男に声をかけた。

「あんたも好きだね」


 男はアランの腹辺りに向かってかがみこみ、アランの腰帯を緩めはじめた。

 アランはまだ、気を失ったままだ。

 男は力任せにアランのズボンをずり下げ、下着に手を掛ける。


 その時、必死にもがくセレオスの足が、青年の足の甲を踏みつけた。

 あっ、と青年が叫び、首に巻き付いた腕の力が一瞬抜けた。

 その隙にセレオスは身体をずらし、青年の腕に噛み付いた。

 今度は大きな悲鳴を上げ、青年の腕が外れる。


 セレオスは腰の小剣を抜いた。

 男がアランに向かってかがみこんだまま、何事かと振り返る。

 セレオスは放たれた矢のように迫り寄り、抜き放った小剣を男の頭に叩きつけた。


 刃は、ごん、という鈍い音を立てて、男の側頭部を打ち割った。

 斬られるというより、ほとんど殴り倒されるようにして、男は頭から血を吹き出しながら、横向きに倒れた。

 

「この野郎」

 背後で、青年が叫んだ。


 振り向くと、顔を真っ赤にした青年が、腰から短剣を抜き襲い掛かってきた。


 セレオスは必死で、小剣を鋭く振って応戦した。

 青年は初めこそ、思ったよりも激しい抵抗になかなか近寄れないでいたが、やがて業を煮やし、ついに闇雲に飛びかかってきた。

 それはセレオスにとって予想外の動きで、突然の勢いと体格の違いもあり、かわすことができなかった。二人は揉みあいになり、とうとう、背後にあった小川に一緒に落ちてしまった。


 大きな飛沫しぶきが跳ね上がり、水面は激しく波打った。


 やがて二人が立ち上がったとき、セレオスは腹を押さえていた。

 衣服には紅のみが広がり、紅い雫がしたたり落ちる。

 斬られていた。


「ガキのくせに。てこずらせる」

 男が荒い息で、セレオスをにらみつけた。

「だがもう、終わりだ」


 セレオスは肩で息をしながら、男を睨み返した。

 体が重く、思うように動かない。

 だが、アランは自分が守らなければならない。それが、アランの従者たる自分の役目なのだ。

 例え、差し違えてでも。


 セレオスは相手の攻撃を待った。男が自分に短剣を突き立てた瞬間に、自分も男に剣を突き立てる。そう決めた。それしか、アランを守る方法はなかった。セレオスは、死ぬことを決めた。


 しかし、男が攻撃してくることはなかった。

 突然、男は前向きに倒れ、水面に水飛沫みずしぶきを立てたのだ。


 その後ろには、アランが立っていた。

 怒りに歪む形相ぎょうそうで、倒れた男を睨みつけている。


 男の背には、アランの剣が突き立っていた。


「大丈夫か」

 アランはセレオスに駆け寄り、肩を抱いた。

 その顔を見て、セレオスはふっと体の力が抜けていくのを感じた。

「しっかりしろ」

 アランがセレオスの体を抱きかかえた。


「寒い」

 アランに言うと、彼はセレオスを岸まで引っ張り上げ、服をめくって傷を見た。


「大丈夫だ、傷は浅い。頑張れ」


 セレオスは弱々しくうなずいたが、ひどく寒かった。


 アランは馬を探しにいったが、見つけられずに戻ってきた。今の騒ぎで、逃げ出したのかもしれない。


 少し悩んだ末、アランは、ここで助けを待つと言った。

「おそらく、今頃は私たちがいないことがわかって、騒ぎになっているだろう。獲物を探すための猟師や猟犬が、私たちを探しているはずだ」

 ぶって連れていくには、お前の怪我は重すぎる。アランはそう言い添えた。

 セレオスは素直にうなずいた。そして、寒い、とつぶやいた。


 いつの間にか日が傾き、あたりは薄暗くなり始めていた。

 秋の寒さが、体の芯に忍び寄る。


 アランは男たちの残した荷物を漁ってみた。擦り切れた毛布が一枚見つかった。薄くて汚い毛布だったが、この際、ないよりましだった。


 アランはセレオスの濡れた服を脱がせ、自分も濡れた服を脱ぐと、セレオスの身体に腕をまわして一緒に横になり、毛布をかけた。セレオスを強く抱きしめ、ぴったりと体を寄せる。

 冷えてゆくセレオスの体を、自分の体温で温めようとしてくれているらしい。


 じっさい、セレオスはアランの熱を強く感じ、心地よい暖かさに包まれた。

 最前までの寒さは、どこかへ消えてしまった。


「アラン様」


「なんだ」


「落ち葉が、綺麗です。見上げていると、まるで星が降ってくるようで」


「ああ」


 セレオスは右手をそっとアランの背中に回してみた。

 手のひらを背中に押し付けると、彼の鼓動を感じた。そうしていると、不思議と安心することができた。


 いつしか、彼は心地よい眠りの中へと引き込まれていた。


 犬の声がする。

 セレオスが目を覚ますと、一匹の猟犬が、彼らに向かって吠えていた。

 無論、飼い主に彼らの発見を報告するためであった。



 この日以降、セレオスにとってアランを守るというのは、役割や義務などではなくなった。もはやアランを守ることはセレオスの存在理由であり、自分を構成するすべてとなった。

 アランに助けられた命、アランを救うためになげうつつことに躊躇ためらいいなどあるはずがない。

 セレオスが恐れるのはただ、アランを守れずにおいて自分がみじめに生きながらえること。

 それに比べれば、いかなる犠牲も些事さじにすぎない。

 

 セレオスは月明かりの下、アランを求めて彷徨う。

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