第22話 レルシア、心のむこうに
それから、数日が経った。
旅慣れたブロワとレルシアによると、ケルニの街まではなお数日を要するだろうという見込みだった。
南の空高く太陽が輝き、雲の落とす影が大地を動いていく。
アランはレルシアに指導された素振りをひと通り終え、剣を腰に納めた。
「まだ無駄な力がとれていませんが、それでもだいぶ良くなりました」
褒められ、アランの顔が自然とほころんだ。
やるからには遠慮しないと脅したレルシアではあったが、しかし、今は旅の途中であり、いつオーガや魔獣を相手に戦わねばならぬかわからない。余力を十分に残しておく必要があった。
必然、稽古の内容も手加減が加わる。
素振りにしても、本来はもっと回数を重ねなければならないのだと言われた。
ひたすら反復を繰り返し、動きを体に覚えさせることにより、意識せずとも体が勝手に動くようになるのを目指す。それと同時に、肉体を追い込むことで筋力の鍛錬にもなる。
だが今は、適度に体が疲労するまで、だ。
アランは額にうっすらとにじんだ汗を
吹き通る風が心地よい。
軽めの稽古とはいえ、アランにとっては充実を感じられるものであった。
「ブロワの姿が見えないな」
「付近の様子を探ってくると言って、馬で出ていきました」
レルシアも腰を下ろした。
柔らかな陽光が二人をつつむ。
アランがレルシアを見ていると、彼女は髪の乱れをなおし始めた。
くくっていた紐をほどくと、豊かな赤い髪が広がり、背中を流れた。
彼女は紐を口にくわえ、両手で髪を
アランは一瞬、時を忘れて、その様子を眺めていた。
そのうち、レルシアが気づいて、こちらを見た。
上目づかいに微笑み、どうかしたのか、と問いたげに。
「レルシアは……」
アランは気になっていたことを、聞いてみることにした。
「なぜ、近衛剣士団に入った?」
レルシアは、ああ、と言いながら目を伏せ、紐を結び終えた手を下ろした。
「……拾っていただいたのです」
「剣士団にか」
彼女はうなずいた。
「私は貧しい行商人の子でした。母は早くに亡くなったそうで、私は覚えていません。父と兄、それから弟と私。四人で、街から街へと転々と旅する暮らしでした」
母を覚えていない。その言葉にアランは強い親近感を覚えた。
しかし、その安易な共感は、続く言葉によってあっけなく拒まれた。
「私が八歳のとき、父が
ある貴族のお抱えの商人の口が空いている。そういう話だった。
この地域は商業網が未発達であるため、購入したくとも物が入ってこないということがよくある。織物、酒、嗜好品、工芸品。欲しいものを手に入れるためには、それを調達するルートを自前で整える必要があり、そのために動くのがお抱えの商人だった。
レルシアの父はその話に飛びついた。早くしなければ他の商人に先を越されると急かされ、有り金をはたいて仲介者に高額な手数料を払った。
今にして思えば、あからさまな詐欺だ。
しかし、子供を三人も抱え、苦しい旅を続ける父は、夢を見てしまったのだろう。
父は、三人の子供を連れて、その貴族の所領を目指した。
意気揚々とその貴族の館を
それでも、父が用件を伝えると、いちおうは中に引っ込んだ。
だが再び扉が開いた時、顔を出した召使は彼らに罵声を浴びせると、乱暴に門を閉ざした。
父は、それから三日、がんばった。
貴族の館を訪れ、何かの間違いだ、伯爵様に話を通していただければきっとわかる、必ずわかる。そう頼み込んだ。
しかし、三日目の夜、現実を受け入れた父はついに、首をくくった。
残された、兄妹三人。
彼らは、父の故郷の村を目指すことにした。
別に、何かのあてがあるわけではなかった。だが、それ以外に目指すべき場所もなかった。
しかし、兄も、途中の街の酒場でつまらない喧嘩に巻き込まれて死んだ。
目指すべき村の名前は、兄しか知らなかった。
父の残したわずかな路銀も、持っていたのは兄だった。
八歳のレルシアと六歳の弟は、見知らぬ街でついに、一文なしで放り出された。
途方に暮れたレルシアと弟は、それから数日、その街を浮浪した。
夜は路地の隅で眠り、空腹に耐えかねてパンをかっぱらった。
一度は成功した。しかし、二度目で捕まってしまった。
逃げる途中で弟がこけてしまい、助けに戻ったレルシアともども、大人たちに囲まれ、折檻された。
二人に身寄りがないことがわかると、街のやくざ者たちが呼ばれた。パン屋の主人と何か話したやくざ者たちは、ぐったりした二人を担ぎ上げ、別々に運んでいった。
すまねえな、男と女じゃ、売られる先が違うのさ。
そう声をかけられた記憶が、おぼろげにある。
それから数日後、レルシアは一人、男に連れられ街道を歩いていた。
彼女を売るために、もっと大きな街に向かうのだ。
この国では、表立って奴隷はいない。だが、裏で人が売り買いされるのはいつの時代も同じだ。
捕まってからの数日間、彼女は食事を与えてもらえた。あのまま野垂れ死にしていたかもしれないことを思えば、今の境遇はましなのかもしれない。
弟のことは心配ではあったが、やはり売られるのなら、それなりの扱いはされているだろう。
生きていけるのなら、それでいいか。
とぼとぼと歩きながらレルシアがそのように思い始めたころ。
二人は魔狼に襲われた。
比較的安全と思われていた街道に突然現れた数匹の魔狼。
ろくな装備もしてなかった男は、あっけなく殺された。
こちらに狙いを定め、牙をむく魔狼。
ああそうか、ここで私は死ぬのか。
レルシアは案外、冷静にそれを受け入れていた。それならそれでいい。この世は、生きるには辛いことが多すぎる。
しかし魔狼は、突然現れた兵士たちに蹴散らされた。
蹴散らしたのは、たまたま付近の警備にあたっていた近衛剣士団だった。
近衛剣士団はその名の通り王の護衛が本来の任務だが、王が命じればどのような任務でも遂行する。
この頃の王にはまだ、近衛剣士団を動かしてでも街道の安全を確保しようという気があった。
「運が良かったのです。助けてもらっただけでなく、見込みがあるということで、面倒も見てもらえました。訓練を受け、正式に団員として認められたのは、十八の時でした」
「……弟さんは」
レルシアは首を振る。
「だめでした。事情を話すとすぐに剣士団の人が動いて、探してみてくれましたが。手がかりすら見つからなかったそうです。……無理もないですよね。私たちは剣で戦うだけの集団です。裏の人間から情報を引き出せるような者はいません。どこに売られたのか。今、どうしているのか。……もう、死んでしまっているかも」
アランは、レルシアという女が、少しだけわかった気がした。
彼女という人物を構成する、重要な要素が理解できたと思った。
そして、その一方で、彼は自分を恥じてもいた。
自分が今まで少なからず、悩み、苦しんできた、母の暗殺の疑惑、王位継承の陰謀、そして肉親との人間関係。それらすべてが、急速に矮小なものに思えてきた。あれだけ自分の心を締め付け、圧迫していたのが嘘のように。
自分は飢えたことがない。
寝るのはいつも清潔なベッドだった。
セレオスと、祖父、祖母。血のつながりはないが、彼らに家族の温もりを与えてもらってきた。
そんな当たり前だと思っていたことが、実はどれだけ恵まれていたことだったのか、気づかされたのだ。
彼女の苦しみに比べれば、自分の苦しみなど、口にするのも恥ずかしいものに思えた。
アランは努めて明るい声を出し、言った。
「でも、生きているかもしれない。この旅が終わったら、探そう。私もできる限り力になる」
約束。
アランは
彼と交わした約束は、今は守れなかった。
自分の立場も、発言力も、なにより自分自身の見識が、力が足りない。
だが、今は無理でも、いつか必ず守らなければならない。
そのために、自分は王子として成長しなければならない。
今、レルシアに言った言葉は、半端な気持ちで言ったつもりはなかった。
その想いは、いくらかでもレルシアに伝わったらしい。
「ありがとうございます」
一瞬、レルシアは嬉しそうに笑った。
しかし。
「そう、この旅が終わったら……」
そのつぶやきとともに、彼女の顔がまた少し
アランはその意味を測りかねた。
だが、それを問うのは何となくはばかられた。
その時、蹄の音が近づいてきた。
ブロワが帰ってきたのだ。
彼はこちらに向かって馬を走らせながら、西の空を指さした。
「竜だ」
アランとレルシアは、空を見上げる。
彼の言葉の通り、青い空を飛ぶその小さな影は、確かに竜に違いなかった。
アランはしばし、その姿に見入った。
あれが、倒すべき敵。
門番との約束も、レルシアとの約束も、まずはあの竜と戦わないことには話にならない。
いや、その前に、後をつけてくるオーガのことを忘れてはいけない。
それが片付いてから、竜だ。
前途の多難を、改めて思い知る。
アランは立ち上がり、竜を見上げていた。
* * *
その夜。
アランとブロワは、焚き火を前に並んで座っていた。
レルシアは今、岩の影で体を
耳をすませているわけではないが、衣擦れの音が小さく聞こえる。
「いいんですか?」
ブロワが小さくささやいたので、アランの返事も自然とささやき声になった。
「何がだ」
「のぞくなら、今ですよ」
予想外の言葉に、アランは真顔でブロワを見た。
「惚れてるんでしょう。見ていればわかります」
それでもアランが黙っていると、ブロワがじれったそうに言葉を重ねた。
「もうすぐケルニに着きます。手を出すんなら、それまでに出した方がいい。ケルニに着いてしまえば、身分やら何やらのしがらみが戻ってしまう。ただの男と女の関係でいられるのは、今だけです。今のうちに手を出しておけかなければ、身分抜きでの恋はできませんぞ」
「それがなぜ、のぞくという行動になるんだ」
「私が見るに、彼女の方もまんざらではありません。……いや確かに、のぞきという言い方は良くなかった。手を出していらっしゃい。鎧を外している今が、話が早い」
「そんな性急な」
アランが呆れた。
「だいいち、拒まれたらどうする。これから先の旅がやりにくくなる」
「何を気弱なことを。拒まれても、あきらめず、繰り返し求愛すればよろしいのです。女ってのは、押しに弱いものですぜ」
「勝手なことを」
そんなやり取りをしている間に、岩陰から聞こえてくる音が変化した。柔らかな衣擦れの音から、硬質な金属の触れ合う音へと。
「ああ、もう鎧をつけてますね。残念、今日はもうだめですな。だが、彼女もまんざらではないように見えるのは、本当ですよ。自信をお持ちなさい」
「そんな」
そうこうしているうちに、レルシアが戻ってきた。
ブロワは慌てて咳払いをし、アランの視線は泳ぐ。
そんな二人の様子に気づいているのか、いないのか、レルシアはごく普通に、焚き火を囲んで座った。
位置は、ブロワのとなり。
「さあて。今日、私は最後でしたね。最初は確か、レルシア」
ブロワが背伸びをしながら言った。見張りの順番のことである。
「私はもう、休ませてもらいますよ。時間になったら、遠慮なく起こしてください」
そんなことを言いながら、荷物から引っ張り出した毛布を被り、さっさと横になってしまった。
残されたアランと、レルシア。
アランは少しの間、ちらちらとレルシアを見ていた。
しかし、ほどなく。
「私も、もう休む」
と言って、横になってしまった。
後には一人、焚き火を眺めるレルシアが残された。
ほう、と、彼女はため息をついた。
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