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連続更新お疲れ様です。
正木もタイミングが悪いですね。
清洲では正木も里見と同罪と見られているなんて。
経済制裁されて頼みの綱の上杉との商いが停止されて、完全に命綱が切れたから里見義堯に謝罪を要求したけど、義堯は謝罪どころか認めることもしないから内輪もめの状態になった。
正木は里見に巻き添えになった感じに近いですね。
外房正木は里見家の重臣で同盟者に近いから離れられずに生きるしかないから10年以上一緒に行動するしかなかったけど、もっと早く行動を起こせなかったのか?って思いますね。
確かに稲村の変(天文の内訌)で通綱と時茂の兄弥次郎と実堯が結果的に義豊に殺害されて義堯と一緒に時茂が義豊相手に下剋上を起こして、運命共同体になったのは事実ですから簡単に離反できなくなってしまったことは事実ですから、そのあたりも勘案しなければなりませんが。
事実は滝川恒昭氏の言うように永正15年(1518年)、里見義通が危篤となったとき嫡男・義豊は既に元服していて父の代理を務めていた。
そこで、義豊は家督を継いで稲村城に入り、叔父の実堯とその子・義堯は上総金谷城に入った。
ところが、北条氏綱は上総へ侵攻の最大の障害である義豊を牽制・排除をするために実堯や水軍を掌握するその側近の正木通綱に接近する姿勢を示した。
この動きを見た義豊や正木水軍の台頭に危機感を抱く譜代の重臣らは小弓公方足利義明の了承の元、天文2年7月27日の夜、実堯と通綱を稲村城に呼んで誅殺したというものです。
今の状況には北条も一枚噛んでいたということですね。
何と言っても
正統な当主である義豊を誅殺して里見氏の家督を奪ったこと。
そのために里見氏にとっては仇敵である北条氏の援助を受けたこと。
程なく北条氏を裏切って対立陣営である小弓公方側に寝返ったこと。
など里見義堯にとってあまりに都合が悪い事実が存在していましたからね。
そこで義堯が義豊の生年を繰り下げて未成年とし、里見実堯が幼君・義豊の後見人(陣代)として誠意を尽くしながら、義豊の無分別により殺害されて、義堯はその敵討ちの為に挙兵したという事実に反するシナリオを作り上げたのが事実のようです。
例えば、保田妙本寺には里見義堯から譲られたとされる「源家系図」が現存していますが、義豊の記述は「太郎」とのみ書かれて事蹟などは削られている、あるいは義豊以前の里見氏関係古文書の異常な少なさなど、義堯以後の記録の抹殺・改竄を疑わせる事例が見受けられます。
宗滴老が語ったとされる「朝倉宗滴話記」では「日本に国持人使の上手よき手本と可申仁は、今川殿、甲斐武田殿、三好修理大夫殿、長尾殿、安芸毛利、織田上総介方、関東正木大膳亮方、此等の事」と言って、正木大膳亮=正木時茂も含まれているんですけどね。
この世界線では宗滴老は正木時茂の事を評価しないでしょうね。
里見から離れられなくてグダグダになっていますし・・・。
なんか里見が疫病神に見えてきましたね。
気のせいでしょうか?
とにかく里見は安房と南上総が領国で水不足で米が取れにくいので交易で食っている状況なので経済制裁を食らった時点で当時両属状態だった内房正木を通じて北条ルートで織田に通じていればよかったけど人間そんなにうまくいかないものですよね。
やっぱり後知恵になりますよね。
一抜け出来たのは両属だった内房正木だけだったみたいですね。
この分だと清洲での意見のように里見は当然として、正木も領地を召し上げて北条預かりですか。
この分だと正木時茂は助かりそうにないですね。
切腹か病死か。
強制隠居で尾張に人質としてくればワンチャンありますけどね。
家中がごね得にうんざりしているのは、今川や武田の例がありますからね。
新参者なのに面倒事を多く抱えて臣従して、支援が必要な土地なのに高い地位にいますからね。
尾張だと朝廷の権威が地に落ちて、朝廷が祖となる人も厄介な目で見られているんですか。
となると名門武家は時の主上が始祖だから、基本他の武家は厄介な目で見られているという事に・・・。
頼朝公と関東に関してはそこまで権威が落ちていないけど、それは北条と塚原先生の友好関係を維持しているおかげですか。
ただし関東がごねて手間や資金がかかると評判はすぐに落ちるとは・・・難儀なものですね。
資清さんの言う通り、ケティ誘拐未遂事件、久遠家の南蛮船襲撃事件の件は甘い対応をすると却って里見や正木方(秋元義久や安西実元、岡本安泰、土岐為頼、足利頼純)は困るでしょうね。
問題は小弓公方の遺児で里見が関東副将軍とほざいた根拠になった足利頼純をどうするかですね。
再び出家でしょうか?
それとも上様の所に行くのか。
ともあれ多少厳しい方が同情されるかもしれませんね。
北条と上杉がかなり折れましたからね。
争いを治めようと両家の覚悟をみんなが認めた後に起こった件ですから、評判が悪いのは当然ですが、やはり里見に巻き込まれた正木に同情する声がありますか。
覚悟を示した上杉の領国に戻る上野への支援は比較的理解が得られていますか。
上杉は嫡男が北条に討たれているし、それらを飲み込んでの和睦で北条家に関東管領就任を認めましたからね。
北条家は北条家で上野の返還や古河公方の独立と所領や権威を手放し、長尾家と互角に戦っていましたからね。
譲歩に譲歩を重ねて上杉を立てている。
そんな両家に図らずしも比べられてしまった外房正木はタイミングが悪いですね。
この件は内房正木を従えている氏康さんと話した方がいいでしょうね。
鎌倉府復興に外房正木は水を差した形になってしまいましたが、外房正木は内房正木と違って里見の重臣でもあるし、地理的な問題で簡単には里見から離れられないので泥船から簡単に降りれない状況でしたね。
そして上杉が北条と和睦に応じ、鎌倉府が復興するという事は最後の命綱が切れるという事。
鎌倉府が復興すれば自動的というか連鎖的に経済制裁が完全なものになってしまい、二進も三進も行かなくなるので結局里見義堯が誘拐未遂事件と南蛮船襲撃事件を認めて頭を下げるか、それとも首か身柄を差し出す状況になってしまいましたね。
しかし尾張は安易に戦をすることを嫌いますからね。
尾張と関東は遠すぎてそれが分からなかったんでしょうけど、外房正木からしたら死活問題ですからね。
とは言え、尾張に従うなら尾張のやり方に合わせる必要があったので、外房正木は宗家の内房正木に話をして、北条→尾張から返信を待って挙兵するか否かを判断すればよかったんですが・・・。
なぜ待てなかったのか。
宗滴老が認めた正木時茂が居ながら待てなかったのか、それともそこまで追い詰められていたのか・・・。
個人的には後者だと思うんですよね。
最大限弁護させてもらえば里見は南上総で一番いい土地である久留里を掌握していて、外房正木は小多喜(のちの大多喜)を除いて領地が沿岸部で交易なしではとてもやっていけない勢力ですからね。
しかも上総下総の外房沿岸部の湖沼は汽水交じりでとても農業用水には使えないという事情がありますし、外房正木から交易と水軍を取ったら何も残りませんし。
だから内輪もめから勝手に兵を挙げてしまい、首謀者の首を差し出す代わりに水に流せと迫ったような感じになったと思います。
関東では珍しい事ではありませんが、尾張では通用しませんからね。
せめて内房正木→北条ルートで尾張に相談していれば・・・と思いますね。
とはいえ、内房正木は宗家で外房正木は分家。
なのに里見に長い間重用されていますから、幾ら宗家でも面白くないだろうし、内房は北条と両属、外房は里見の重臣と仲が良くないから宗家に頼りにくかったのは容易に想像できます。
結局は後知恵ですよね。
結果同情よりも苛立つ方が多いでしょうね。
氏康さんは正木に尾張に怒りは一馬を納得させたところで治まらないから織田と和睦したければ余計なことをせず頭を下げろと何度か言っていたんですか。
それは仕方がないですね。
減封は確実ですね。
正木時茂・時忠兄弟の切腹か浅利兄弟のように島流しにされて小多喜・勝浦を取り上げられるかもしれない。
里見水軍の中核の一つを担っていたのが正木水軍ですから、水軍力は惜しいんですけどね。
里見を見捨てたという外聞を嫌っていたのかもしれないのと、正直正木は水運関係で食っていましたからね。
だから蜂起したけど、関東で評価されても尾張では評価されませんからね。
近隣への面目の為に尾張に嫌われる道を選んでしまうとは外房正木はもう終わりですね。
この一件で厚遇されず、むしろ千種家の様な末路をたどるかもしれませんね。
織田が関東と対峙する際の悪い先例として引き合いに出されて関東諸将に恨まれるかもしれませんね。
氏康さんと北条家は災難と見られていますか。
誰もが断っていた仲介を血縁を理由に無理に頼まれたように見られているんですね。
氏康さんは弱体化した里見や正木に興味はないんですね。
尾張で謀ったと思われなければそれでいいと。
もはや里見などアウトオブ眼中ですね(笑)
いい知らせは義氏君は上様から直々に関東公方としての教えを授けられて、氏康さんを頼るように下命をしていましたからね。
今は里見と正木の動きもあって今は落ち着きませんが、疑心暗鬼から遠ざけるくらいは何とかなっていますか。
上様も東西の因縁を終わらせたいですからね。
悪い知らせは正木についてですよね。
和睦と鎌倉府の再興直後の騒ぎですからね。
正木も責任を負うつもりがあるかもしれませんが、そんな話はなかったので厄介なことになるかもしれませんね。
里見が悪手を打ったせいで一馬が板挟みになりますね。
経済制裁を受けた直後に内房正木を通じて北条に話を通し、尾張の指示をまてば無傷で済んだかもしれないのに、貧すれば鈍するですね。
まあ、里見の重鎮として扱われているから直前まで里見を切れなかったのは分かりますが、それにしてもなんで尾張に話を通さずに挙兵したのか。
正木時茂、一生の不覚ですね。
氏康さんは相応の責任を取らせて謝罪行脚させるつもりですから、外房正木家は存続するんでしょうけどね。
一応正木時茂には信茂という有能な跡継ぎがいますし、何とかなるでしょう。
外房正木家は(三浦家庶流で仮冒だろうけど)三浦道寸の子孫ですし、絶やすには惜しい家ですよ。
とはいえ尾張は意地と覚悟だけでやっていけませんからね。
良くも悪くも意地と覚悟だけで北条早雲公相手に3年戦った三浦道寸の血を引いているだけの事はありますね。
代わりと言っては何ですが、織田と長尾で鎌倉府を助ける先例になりますからね。
怪我の功名でしょうか?
滝川益氏さんと長尾景虎さんが友誼を深め、上杉も信濃と接している織田と争う気はないし、義氏君が納得したのならそれが一番いいんでしょうね。
氏康さんは大乱にならないように努める所存ですか。
確かに東国では氏康さんが頼りですし、古河公方家と上杉家はしばらく落ち着かないですからね。
奥羽には一馬の嫁がいて奥羽の北半分は平定しているので、関東が手古摺ると奥羽も困る、西の六角や北畠のようにと東で北条が励まなければならないという考えに行きつくのはやはり「一流は一流を知る」でしょうね。
ようやく12年の友誼を役立てる時が来ましたね。
思えば幻庵老と氏親さん(当時西堂丸君)が尾張見分に来て小田原に南蛮船で送ってからの友誼でしたからね。
幻庵老の眼力は確かだったって事ですね。
今回は外房正木についてと北条氏康さんの心情でしたね。
内房正木なら江戸湾挟んで北条にすぐに頼れますが、外房正木は地理的に里見が邪魔な上に内房正木と違って重臣として重用されている。
だから安易に頼れず限界まで里見につかざる得なかったと思うんですよね。
付いた相手というか、寄り親、つまり上がバカだと下が巻き添えを食う典型例でしたね。
せめて尾張に事前に密使を送っていればよかったんですけどね。
それが悔やまれますね。
経済制裁で里見の一派と見られて巻き添え食らってどうしようもなかったのでしょうけど。
北条氏康さんは甥の義氏君に嫌われていますが、上様のおかげで疑心は遠ざかりましから少しは良くなったと言えますよね。
上杉家と古河公方家はしばらく落ち着かないけど、北条家が尽力するときが来たという事ですね。
最終的には北条家が三国同盟に入った後、臣従するのか、それともそのまま臣従するかは分かりませんが、大きく前進したといえますね。
今回も長くなって申し訳ありません。
次回も楽しみにしています。
では!
正木としては鎌倉府ができあがれば、自分たちが賊軍になること確定しているからこそ、最後の機会にかけたのだろう。しかし尾張から見ればもっと早くやれよ、情勢固まってから面倒押し付けに来るなと言う扱い。格差社会怖いな。
一馬の権威も良くも悪くも上がってしまった
王の側室を狙うなんて蛮行は織田領だけでなく久遠家の民も許さないでしょう
織田も同盟国として容認できないでしょうね
更新ありがとうございます。
10年
もうそんなにか
正木もタイミングが悪い。
鎌倉府が再開する時だから大げさでなくとも祝いの一つもあろうかという時に、内戦を始めるとは…
誤字報告です。
>この御仁が(要る)ところで世が動く。
→「いる」
>和睦と鎌倉府【を】再興してすぐにこの騒ぎでございます。
>まったく、覚悟と意地だけ【で】評価をされる国ではないのだぞ。
作者からの返信
誤字報告ありがとうございます。
修正しました。
更新、お疲れ様です。
正木は時代相応の常識で動きましたが
その常識自体が尾張では変化していますから
何とも言えませんね(苦笑)
久遠クンが思う様に、確かに正木は動くのが遅かったですね。
まだ院の尾張御幸以前だったら
多少の理解は得られたでしょうが……
様々な経験から旧体制に不信と不満を溜まっている尾張では
嫌悪の対象になっても仕方ありませんね(苦笑)
氏康殿が途方に暮れそうになるのも分かりますね(苦笑)
自重を促していたのに、正木は坂東武者の理論で動いてしまった。
戦が一段落したら当主の強制隠居は免れませんね。
詳細は今後の協議次第ですが、様々な方面から配慮を受けた氏康殿なら
過たず、事を進めてくれるでしょうね。
次話の更新、お待ちしております。
タイミング、というのも結構出てきますね。
以前は広忠さんもタイミングが悪い、と何度か言われたかと。
今川や武田もそうみられている…まあどちらも超絶有能で、よく理解してよく働いているから許されてるんですが…