第2140話・重ねた時の末に
Side:とある水軍の男
ようやく訪れた春に皆の様子も明るい。冬の海の寒さは身に染みるからなぁ。
「熊野の奴ら、また愚痴っていたぞ」
大湊には紀伊の水軍がよくやってくる。坊主や商人を乗せたり荷を運んだりするためにな。熊野あたりは入り用な品を大湊あたりから買うことが、ここ数年多いせいだ。
他にはわざわざこっちまで酒を飲みに来る奴もいる。紀伊じゃ濁り酒しか飲めねえらしいからなぁ。
騒ぎを起こすわけでもなく税も払うし来るのは構わねえが、争うことが減って顔見知りになったせいか、なにかと愚痴を聞くことが増えた。
こっちは織田様が決めた値で商いをするが、熊野は織田様や北畠様のご領地と比べてすべての品が高いからな。まず、それを愚痴る。あとはこっちと熊野の水軍衆の暮らしの違いも羨ましくて仕方ないらしい。
端の者からすると、上が誰だろうと暮らしが良くなるならそっちがいいからな。身分あるお方は面目やらなにやらとあるらしいが。
「熊野様が疎まれると思わなかったと愚痴っていたよ」
「そんなことオレたちに愚痴られてもなぁ」
熊野様がどんな寺社かよく知らねえし、オレたちは世話になったわけでもねえ。名のある古いところだってのは知っているけど、今日生きるのに精いっぱいだったこともあって、行ったこともねえしな。
そもそもなんで熊野様まで尾張の斯波様や織田様が面倒見なきゃならねえんだ? なんか理由あるんだろうか?
「酒やらなにやらと贅沢な品、山ほど買うていくからな。商人は喜んでいるだろうが……」
「坊様が酒も駄目だって知らなかったよ」
「飲める宗派もあるらしい。熊野様は飲めるのか?」
「知らねえ。そもそも坊様は己らの不利なことは言わねえしな」
神宮様も体裁と実情は違うからなぁ。世が乱れているのは、寺社が正しき行いをしていねえからだって噂もある。
まあ、オレらには関係ねえことだ。慰めの言葉をかけることはあってもそれだけだ。所詮、他国、余所者だしな。信じていいかすら分からねえ。
Side:岡部貞綱
四度目の海祭りに参席するため尾張にやって来た。
今川方の水軍衆だった者の中には、織田のやり方と待遇に納得いかぬと水軍を離れた者も相応にいたが、陸に上がったとて織田の治世で生きねばならぬ。
所領を手放し、織田の命じる役目で働かねばならぬと知ると絶望した者もいたと聞き及ぶ。中には陸に居場所がなく水軍に戻った者すらいた。
意地を張る場は失ったが、与えられた役目さえ確と務めれば暮らしが悪うなったという話はあまり聞かぬ。
今川家はいずれ尾張と争うのだと勝手に騒いでおった寺社や土豪などが御屋形様により処罰され、駿河の民も斯波と織田の下でいいのではと思うようになると、公の場で騒ぐ者は見かけなくなった。
今でも酒を飲むと昔を懐かしみ、織田に従う御屋形様への不満を口にする者はおるが、その者らが飲んでおるのは尾張の酒であり、料理すら尾張の塩や醤油を使うたものだ。
さらに近年の朝廷や寺社と争う様子から、斯波と織田を下したとて次は畿内が敵となることを皆理解した。
酒の席で愚痴る以上のことをする者は、もうおらぬであろう。
「お久しゅうございます」
水軍の本拠地がある蟹江城に挨拶に出向く途中、久遠家の
「息災そうだね。駿河はどうだい?」
「はっ、万事上手くいっております。ただ、関東と尾張の間を行き交う船が増えたことで沈む船も相応にございます」
内匠頭殿が日ノ本に現れ十年が過ぎた。当初は十年もあれば久遠を超えて見せると豪語しておった者も多いと聞き及ぶが、超えるどころか争うた安房の里見や堺の町は消え失せるのではと噂されるほど落ちぶれた。
海においても然り。今では東国の海は久遠の海と言えよう。その頂きにおるのが海神殿だ。操船において右に出る者なし。同じ船でも負け知らずだからな。
「遠州灘は誰が行っても楽じゃないからね。まあ、仕方ないさ。関東の動きは?」
「里見は相も変わらず。こちらの船を見ると逃げ出しまする。ただ、久遠船を奪おうとする者は今もおりまする」
「十年だからね。いい加減、こちらの技を盗みたいだろうね」
駿河においてもっとも気を使うのは、久遠船を盗まれぬようにすることだ。失態のひとつやふたつはお叱りを受けぬが、それだけは許されぬと厳命されておる。久遠家が織田家に与えた技が詰まった船であり、織田家にとって決して外に漏らせぬものなのだ。
「いつまでも隠しきれるものじゃないんだけどね。かといって漏らしてもいいとは自分からは言えないよ」
であろうな。この件はすでに久遠家の一存で済む話ではない。久遠の知恵はなによりも守らねばならぬものとなっておるからな。
西が信じられぬ以上、致し方ないことだ。
Side:久遠一馬
暦は二月に入っている。農繁期となり、田んぼで働く人たちを見ると、迫りくる飢饉のことを考えてしまう。
オーバーテクノロジーを使えば、被害を減らすことはさほど難しくない。ただ、それをすると、今までみんなで積み重ねてきた努力を無駄にするようなものでもある。
予期せぬ幸運で助かった。そんな前例は決していい結果を生まない。神風が吹いて助かったなどと信じられると、人は神風を待つようになってしまうだろう。
それに、オレ自身は個人の分際ですべてを救おうなんて傲慢なことは考えたこともない。所詮、オレたちは自分たちのために為政者となったに過ぎないんだ。
まあ、織田領でいえば大規模な餓死者は出ないだろう。それだけの備えはした。卑怯なことかもしれないけどね。オレは自分の手の届かないところまで守ることなんて出来ない。
「八十一だと言うておりました。大往生でございますな」
オレはこの日、農業試験村の村はずれにある墓地を訪れている。最年長の長老殿が先日亡くなったと聞いて手を合わせに来たんだ。
新しいことをやることを喜んでくれて、いろいろと頑張ってくれた人だ。後を継いだ長老殿が故人を懐かしむようにいろいろと教えてくれる。
いつもと同じように夕食を食べて少しの酒を飲んで寝たら、翌朝亡くなっていたそうだ。ここでは藁布団が普及していたし、もう春だから凍死でもない。老衰だそうだ。
死に顔は穏やかだったみたいで、家族もそれは良かったと言っているみたい。
「葬儀に出られなくてごめんね」
「もったいないお言葉でございます。久遠様が自ら来ていただいたこと、喜んでおりましょう」
それなりに生きていると誰かを見送ることは珍しくない。ただ、何度経験しても悲しいなぁ。
先人の思いを継いで生きていく。元の世界では徐々に失われつつあった伝統のひとつだろう。農業試験村では、今も亡くなった元長老殿の意志を継いで田植えの支度をしている。
頼もしいな。今日はここでお昼にして少しみんなと話をしようかな。
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