第2032話・夏の頃のこと・その二

Side:近衛稙家


 朝、日の光を浴びて体を動かす。


 若かりし頃より続けておる鍛練であるが、今では日の光を浴びることと、久遠家において『体操』と呼ぶ体を動かす仕草を真似ることをしておる。


 これがなかなか良いもので、続けておると体調が良うなる気がするほどじゃ。


 ひと汗かくと朝餉となる。膳には、玄米と汁物、魚と野の菜などの品が並ぶ。


 料理は尾張者と同じじゃ。清洲城では武衛から下男下女まで朝は同じものを食しておるからの。これも久遠家の知恵であるという。


 朝餉そのものは主上が即位前に行啓した折から変わらぬ。贅沢と思えるものはなく、汁物も出汁を取ることで塩加減もよい。


 その後、医師の診察を終えると、朝の日課は終わる。


 他家に出向くと連日、朝から晩まで宴やらなにやらともてなされることもあるが、尾張は過剰に扱われず勝手気ままにさせてくれる。吾とすると、これが気楽でよいと思うところもある。


 今日はなにをするか。しばし思案したのち、弓の鍛練をすることにした。都を出て以降、鍛練が出来ておらぬからの。


「これは殿下。いかがされましたか?」


 清洲城内にある弓の鍛練する場に来ると、氷雨が若い者らに弓の指南をしておった。わしの姿に若い者らは驚き、少し慌てて控える者もおる。


「少しばかり弓の鍛練をしようと思うての」


「左様でございましたか。では人払いを致します」


「ああ、それには及ばぬ。見せるほどでもないが隠すほどでもない。皆も鍛練を続けるがいい。弓と矢を貸してもらえればよい」


 日々鍛錬する武士には敵うまいが、人払いをするほどのことでもない。これでも幼き頃より弓の鍛練は続けておるからの。


 若い者らは少し戸惑うようじゃが、氷雨が続けるように命じると鍛練を続けた。左様な若い者らを少し羨みつつ、吾もまた雑念を振り払い、己の弓を射る。


 久方ぶり故に、外れるかと案じるところもあったが、射た矢は的に向かい飛んでいく。


 ほぼ中心に矢が刺さると、若い者らの動きが止まり静まり返った。公卿の弓の技はいかなるものか、興味がないわけもないか。


「お見事でございます」


「継ぎ矢ほどではないがの。吾とてこのくらいはな」


 公の場で継ぎ矢を披露した氷雨に褒められると悪い気はせぬな。


「あれは技だけでは無理なもの。運もございました」


「そなたの技あっての運。技のない者に武芸大会の場で運など得られぬはずじゃ」


「かもしれませんね」


 そのまま若い武士と共に弓を射る。皆、必死じゃの。吾らに足りぬものが分かるようじゃ。それに、氷雨か。教えておる様子からもかの者の力量が分かる。


 武芸においては熟練者であっても教えるのが下手な者はおるからの。特に武芸は見て覚えろとしか言わぬ者も多い。


 考えを巡らせながらも、弓を射る時は無心となるよう心掛ける。


「殿下、今日はそのくらいにされたほうがよろしいかと。熱心なのは良いのですが、これ以上やると御身のためになりません」


 いかほど弓を射ておったであろうか。体が汗ばみ心地よい疲れが出る頃、氷雨に止められた。


「そうじゃの。すまぬな、邪魔をして」


 やはり久遠の者は確と周囲が見えておるわ。皆が憂いなく生きられる。嘘偽りなく羨んでしまうわ。




Side:真柄直隆


「越前は相も変わらずか。困ったものよの」


 越前から書状が届いたと知らせを受けて宗滴のじじいのところに来たが、一読したじじいはため息を隠そうともしなかった。


「近江御所と足利と北畠の婚礼、この意味を理解しておらぬ者が多過ぎる。斯波家とは因縁があり頭を下げられぬと言うておる場合でないというのに」


 因縁か。同じく因縁があり三河で戦もした今川は、とっくに降って織田家臣として生きておる。当主義元を隠居して出家させるという話もあったらしいが、驚くことに駿河代官としてしまったからな。


 駿河を以前のまま、己の所領とするのではという懸念は今もあると聞くが、内匠頭殿らはそれを承知で駿河に戻した。関東と接するあの地を任せるには今川が適任だと思ったのだろう。


「若狭、加賀、能登、越中と、北方では変わらぬところが多いことが仇となったか」


「そういえば、織田はあちらに広がりませんな」


「広がらぬように止めておるのであろう。冬には雪が積もるかの地を進んで欲しくはあるまい。北の海路はすでに久遠に制されておるのだ。その気になればいつでも潰せる。織田の政は領内を整えるのに手間がかかる故にな」


 その気になればいつでも潰せるか。越前も同じということだな。まてよ、とすると越前の動きは……。


「もしや越前が意地を張るのは尾張にとっても好都合と?」


「であろうな。若狭の管領殿もあのまま畿内に戻らぬことを望んでいよう。さらに加賀の一向衆、これも織田とすると厄介なだけであろうな。石山本願寺とは上手くいっておるが、さりとて織田は坊主に勝手をさせるのを嫌う。よくよく考えるとあの地の一向衆と上手くいかぬはずじゃ」


 各々で土地を治める。当たり前のことのはずだが、それはもう尾張を中心とした地では出来ぬのだ。政と暮らしの格差で寺社が頭を下げて土地を献上しておるほどだからな。


 越前がいくら栄えていても、尾張と敵対したら今のままではいられぬはずだ。そもそも今の越前が豊かなのは、北の海路で手に入る品を尾張に売ることで成り立つはず。


 もとを正せば、宗滴のじじいと朝倉の殿が尾張に出向いて因縁をわずかながらにも解きほぐした故に、商いだけは上手くやろうと斯波と織田が許したに過ぎないこと。


「今のうちに因縁を解きほぐし、新たな形に合わせねば手遅れになりかねんというのに……」


 悲しげだな。先人と宗滴のじじいらが命を懸けて築き上げた立場が、面目ばかり気にする愚か者によって揺らいでいくのを見ていることしか出来ぬとは。


 だが、じじいにはもう戦は無理だ。政も出来まい。助けになってやりたいが、オレは尾張にいて、越前では裏切り者扱いされていよう。


「そなたがいて良かった。そなたのおかげで朝倉が織田に降りても居場所があろう」


「某がお役に立つのでございますか?」


 意外な言葉だった。オレは好き勝手に武芸の鍛練をしておるだけだというのに。


「敗れても敗れても堂々と挑むそなたこそ、越前に残された光明ぞ。そなたの生まれた越前ならばと許そうと思う者も多かろう。故に、そなたは越前に戻せぬのじゃ」


 まさか……、そんな……。


「尾張で生きる。それがそなたの戦場じゃ。華々しい武功は上げられぬかもしれぬ。されどその功、必ずや真柄家、ひいては越前のためになる。努々ゆめゆめ忘れるでないぞ」


「はっ、確と承りましてございます」


 戦をしない戦か。まるで久遠家のような、いや、それが政というものなのだろう。理解するところもある。功も忠義も生きてこそなせるもの。


 今更、後先考えず戦に出る気などない。


 オレは、もう大人なのだからな。




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