とりあえず今はスイカ食べたい

八百板典人

第1話

(一)

 渡船場から出た途端、青く澄んだ青空と眩い陽光が俺を睨みつけた。

 額に張り付いた汗を小麦色に焼けた腕で拭う。

 汗が右腕に張り付いた。

 吐き気を催す程の熱気に苛まれながら、渡船場出入り口付近を見渡す。

 錆びた自動販売機と真新しい時刻表付き標識しか見当たらなかった。

 アスファルトを炙る晩夏の日差しを疎ましく思いながら、予め買っておいた炭酸飲料を口に含む。

 暑さに耐えきれなかったのか、喉を通り抜ける炭酸飲料はすっかり温くなっていた。

 環境音が鼓膜を揺らす。

 蝉の鳴き声が波の音を掻き消していた。

 いつもよりも身近に感じる蝉の合唱が暑さを倍増させる。暑さを倍増させているのは蝉の鳴き声だけじゃなかった。

 視界に映る蜃気楼、肌に突き刺さる陽光、口内に粘りつく温い炭酸飲料、そして、海の匂い。

 自分に纏わりつく全てのものが、暑さを感じさせる。

 水分を摂ったばかりなのに、もう喉が渇いてしまった。


「……何でこんな所にいるんだっけ?」

 

 茹で上がった頭を動かしながら、透き通るように青い夏空を仰ぐ。

 ソフトクリームのような入道雲が空の青さを際立てていた。

 暑さにやられた胃が西瓜を所望する。

 どうやら俺の身体は『いとをかし』精神を持ち合わせていないらしい。

 温い息を口から吐き出しながら、ポケットに入れていたハンカチで額を拭う。

 ハンカチは既に湿っていた。

 何でこんな所──九州で五番目に大きい島──に来ているのか。

 理由は至って明瞭。

 現実逃避だ。

 現在、大学二年生である俺は本格的に将来の事を考えなければいけない時期に突入している。

 進路の事を考えるのが嫌で、俺は離島にやって来たのだ。わざわざ夏休みという貴重な時間を消費して。

 以上、説明お終い。


「何やってんだろ、俺」


 『友達はインターシップに行っているのに』という心の声が脳裏を過る。

 自己嫌悪に陥ってしまった。

 どうやら現実から逃げられないらしい。

 なんてこった。折角、ここまで来たのに。

 こんな事になるんだったら、高校生の時から将来の事を考えるべきだった。

 家から近いからという理由で大学を選んだ過去の自分を恨む。

 別に今の大学で学びたかった事はない。

 大学生になりたかっただけだ。

 それ以上の理由でもそれ以下の理由でもない。

 俺は『なんとなく』今の大学を選んだのだ。

 友達のように民俗学を学ぶためとか、学芸員の資格を取るためとか、そういう理由で進学していない。

 強いて理由を挙げるとするなら、『高校の先生に勧められたから』だろうか。

 或いは、両親が『大学に行った方が良い』と言ったからだろうか。

 家から一番近いから。

 この辺りで偏差値が高い方だったから。

 浪人しないで大学生になれそうだから。

 沢山の理由が泡のように浮かび上がる。

 けど、どの理由もしっくりこなかった。。

 流され主義。

 主体性のない人間。

 怠惰的アダルトチルドレン。

 それが俺という人間の正体だと思うと、何だか悲しくなる。

 ああ、悲しい。


「にーちゃん、何で溜息を吐き出してるん?」


 心の中で自虐していたら、背後から甲高い声が聞こえてきた。

 この辺りに人がいないと思い込んでいたので、ちょっとだけ驚いてしまう。

 振り返る。

 そこには虫取り網を持った子どもが突っ立っていた。


「もしかして、夏休みの宿題、溜め込んでるん?」


 小麦色の肌。

 後頭部に付着した馬の尻尾みたいな髪の毛。

 そして、頬に張り付いている絆創膏。

 どこからどう見ても夏休みを楽しんでいる子どもにしか見えなかった。


「お兄ちゃん、大学生だから夏休みの宿題をやらなくていいんだ」


「だいがくせー?」

 

 男の子のようにも女の子のようにも見える子どもは、夏空のように澄んだ瞳で俺を仰ぐ。

 彼或いは彼女の瞳に映る俺は、大人にも子どもにも見えなかった。


「そう、大学生。お兄ちゃんは小学校の勉強と中学校の勉強と高校の勉強を終えたから、夏休みの宿題をやらなくていいんだ」


「じゃあ、にーちゃんは何で溜息吐き出したん? 爺ちゃん言ってたよ。溜息吐いたら幸せ逃げるって」


「幸せが逃げているんじゃない。幸せを逃しているんだ。世界中のみんなが幸せになれるように」


「なるー、じゃあ、にーちゃんは幸せを配りにこの島来たん?」


「……人生の意義について考えるため、かな?」


「おー、えきせんとりっく」


 苦しい言い訳を披露する。

 小学生と思わしき子どもの瞳に小型バスが映し出された。

 観光バスだ。

 ネットの情報が正しければ、あの観光バスは渡船場と砲台跡と呼ばれる遺跡を巡回しているらしい。


「なー、にーちゃん、『ほーだい跡』に行くんだったら気をつけた方がいーよ」

 

 夏の暑さで今にも溶けそうなアスファルトの上を走る観光バスを眺めながら子どもの言葉に耳を傾ける。


「あそこ、『魔王』がいるから」

 

 俺達の前に現れた観光バスが扉を開ける。扉の中から出た冷気が太陽を入道雲の裏に隠してしまった。





(二)


 観光バスの中はちょっとだけ狭かった。

 冷房が効いた車内で火照った身体を冷やしながら、車窓をぼんやり眺める。

 すれ違う畑も、そこら中に生え茂る名前も分からない木々も、透き通るように青い空も、俺の中に残る事なく、通り過ぎてしまった。

 欠伸を噛み殺しながら、隣に座る子どもの方に視線を向ける。

 彼或いは彼女はボケーっとした様子で天井を仰いでいた。


「夏休み、楽しんでいるか?」


 車窓から入り込む夏の陽射しを疎ましく思いながら、疑問の言葉を口遊む。

 小麦色に焼けた子どもは、天井から目を背けると、何故か車内を一望した。

 俺も彼或いは彼女を見倣って、車内を一望する。

 何度見渡しても、乗客は俺と彼或いは彼女しかいなかった。


「自分に話しかけたん?」


「ああ、そうだが……もしかして、俺と君と運転手さん以外に乗客がいるのか?」


「いないとは言い切れない」


「そうか、お兄ちゃん、幽霊苦手だから、もしもの時は頼んでいいか?」


「泥舟に乗ったつもりでいてください」


「そうか、君も幽霊苦手なんだな」


 一気に体感温度が低下してしまった。

 ヤバい。

 幽霊が出てきたら、どうしよう。

 ポケットの中に入っている塩キャラメルで撃退できるかしら。

 念のためにポケットから塩キャラメルを取り出す。

 ドロドロに溶けていた。

 あ、ダメだ。こんなの幽霊に差し出したら間違いなく祟られてしまう。


「にーちゃんは夏休み満喫しているん?」


 話が唐突に変わってしまった。

 幽霊を警戒しながら、平静を装う。


「んー、そこそこ。君は?」


「おーむね」


「そうか、俺よりも満喫してそうで良かった」


「宿題がなかったら、さいこーだった」

 

 どうやら夏休みの宿題が嫌われているのは、全世代共通らしい。

 哀れ、夏休みの宿題。

 俺も嫌いだったよ、お前の事。


「夏休みの宿題って事は小学生か?」


「うん、ピッカピカの一年生」


「なるほど。眩しい理由がよく分かった」


「にーちゃんは何処に向かってるん? やっぱ、ほーだい跡?」


「そうだけど。君は?」


「宇宙」


 小学生は澄んだ目で俺を見つめる。

 とてもじゃないが、嘘を吐いているように見えなかった。


「もしかして、このバスは宇宙と繋がっているのか?」


「将来的には」

 

 そう言って、小学生は天井を指差す。

 小学生の人差し指に釣られる形で、俺も天井を仰いでしまった。


「今は無理だけど、大人になったら、このバスで大気圏外に出る予定」


「ビッグな夢だな」


「こー、ご期待」


 現実逃避してきた俺にとって、隣に座る小学生は真夏の太陽のように眩しく、直視できない代物だった。

 ああ、眩し過ぎる。

 身体がアイスみたいに溶けちゃいそうだ。


「にーちゃんは何処からやって来たん? 宇宙? 異世界?」


「当ててみな、ハワイに招待してやるぜ」


「福岡」


「ガチで当てに来やがった」


 そんな事を話している内に、観光バスは終点である砲台跡地に辿り着いてしまう。

 軽快に開いた自動扉から熱風が漂ってきた。

 車内に入り込んだ熱風が俺達の肌を撫で上げ、海風と緑の匂いが鼻腔を擽る。

 熱風に促されるがまま、俺と小学生は席から立ち上がると、運賃箱にお金を投入した。

 バスから降りる。

 降車した俺達に待ち受けていたのは、大地を覆う緑と藍色の海、そして、どこまでも広がる青い空だった。

 真新しいコンクリートに覆われた地面を踏み締めながら、生温い潮風を肌で受け止める。

 深緑に染まった山々も、空と海の境目が分からない青の暴力も、コンクリートジャングルで生まれ育った俺にとって新鮮なものだった。


「にーちゃん、こっち」


 圧倒的な大自然に気圧されている俺に構う事なく、小麦色に焼けた小学生はコンクリートで舗装されている道の上を歩き始める。


「こっちに魔王がいる」

 

 そう言って、小学生は俺をモンスターがいる場所に案内する。特に行く宛てもなかったので、俺は小学生の後を追いかける事にした。


「そういや、砲台跡にいる魔王って何だ? 熊? それとも猪?」


「みっちゃん曰く、熊や猪より小さいって」


「だったら、熊や猪じゃないな。山猫か?」


「ううん。みっちゃん、猫好きだから猫じゃないと思う」


「じゃあ、蛇?」


「蛇だったら、みっちゃん、生きて帰って来れなかったと思う」


「……もしかして、魔王の正体を知らないのか?」


「うん、みっちゃん、泣いてばかりで教えてくれなかった」


 灰色のコンクリートで覆われた坂の上を歩きながら、真上でギラギラ輝く太陽を睨みつける。

 鉄板の上にいるみたいだ。

 暑い。

 暑過ぎる。

 降り注ぐ陽光が、足下から生じる熱気が、身体を覆う生暖かい空気が、俺から体力と水分を奪っていく。

 屋外にいるだけで、この有り様だ。

 激しい運動をしたら、ガチで倒れるかもしれない。


「だから、魔王の『ちょーさ』に来た」

 

 緑に侵食されつつある夏道を歩きながら、小学生は背負っていたリュックサックからスケッチブックを取り出す。

 そして、取り出したスケッチブックを俺に手渡した。

 懐から取り出した湿ったハンカチで額の汗を拭いながら、スケッチブックの中を覗き込む。

 クレヨンで描かれた虫や動物のイラストが俺の目を楽しませた。


「へー、上手いな。将来、絵で食っていけそう」


「ゆくゆくは世界中の動物を描こうと思ってる」


「そうか、なりたいものが沢山あるんだな」

 

 小学生に導かれるがまま、俺はちょっとした階段を登り、小高い丘っぽい所に辿り着く。

 丘っぽい所には大きな穴ができていた。

 穴の入り口はコンクリートに覆われている。

 多分、これが砲台跡なんだろう。

 穴の中を覗き込む。

 灯りが入っていないのか、穴の中は闇に覆われていた。


「ここに魔王がいる」

 

 虫捕り網を構えながら、小学生は固唾を飲む。あまりにも真剣な様子だったので、俺も思わず身構えてしまった。


「にーちゃん、僕から離れないで。いざという時、守れないから」


「勇ましいな、惚れちゃいそう」


 そう言って、俺と小学生は恐る恐る砲台跡と思わしき穴の中に入り込む。

 穴の中に入った途端、今の今まで鳴り響いていた蝉の鳴き声が少しだけ遠退いてしまった。



(三)

 外から漏れる陽の光を頼りにしながら、俺と小学生は砲台跡と思わしき場所を探索する。トンネルみたいな場所だった。想像していたよりも中は狭い。全部探索するのに五分もかからなそうだ。


「なあ、この部屋って一体何のための部屋だったんだ?」

 

 通路の脇にあるちょっとした空間を指差しながら、古びたコンクリートの上を歩く小学生に疑問を投げかける。

 小学生は足を止めると、首を傾げた。

 どうやら知らないらしい。

 後で調べようと思いながら、奥の方に向かう。

 通路の奥にある小部屋には石できた円柱──肘を置くのに丁度良さそうな高さ──と『大きな隙間』があった。

 『大きな隙間』から外の光が漏れ出ている。

 光に魅了された蛾のように、俺の身体は『大きな隙間』へと引き寄せられた。

 本能に導かれるがまま、『大きな隙間』を覗き込む。

 先ず俺の視界に映し出されたのは、鮮やかな緑だった。

 葉の縁がざらついている草木が俺の到来を出迎える。

 次に目に入ったのは、空と海の境目が分からない程に青く染まった背景。

 青の背景が草原の上に立つ茶色い人工物を見るよう促す。

 茶色い人工物には羽根車がついていた。

 写真で見た事がある。

 というか、写真でしか見た事はない。

 あれは、確か風車だ。


「おー、すげー」

 

 生まれて初めて見る風車に感動してしまう。

 ついデカい独り言を呟いてしまった。

 独り言がデカ過ぎたのか、近くにいた小学生は、ちょっとだけ飛び跳ねた。 

 ちょっとだけ恥ずかしさを感じながら、羽根車がついた小屋をぼんやり眺める。

 夏風が緑に染まった大地を撫で上げた。

 風車はピクリとも動かなかった。

 今日は定休日なのだろうか。

 幾ら夏風が大地を撫で上げても、羽根車は動こうとしなかった。

 仕事をしている風車を見る事ができなくて、ちょっとだけガッカリする。

 どうやら世界は俺中心に動いていないようだ。 


「にーちゃん」

 

 『大きな隙間』から見える青空と蒼海に圧倒されていた俺は、小学生の鬼気迫った声により現実に引き戻される。


「どうした?」


「魔王、出た」


「え、嘘、どこ?」


 周囲を見渡す。

 今にも朽ち果てそうなコンクリートしか見当たらなかった。

 生き物は何処にも見当たらない。

 まさか小学生(仮)の言う魔王って、幽霊の事なんじゃ──


「にーちゃん、地面を見て、地面」

 

 小学生に促されるがまま、地面を見る。

 地面には茶色い毛で覆われた齧歯類が鎮座していた。

 ネズミだ。

 哺乳類ネズミ目。

 丸い耳と尖った鼻先、そして、一生伸び続ける前歯が特徴的な小動物だ。


「まさか、こいつが……!」


「うん、多分、そうだと思う。みーちゃん、ネズミ嫌いだから」


「なるほど、確かに魔王だ」


 古今東西、害獣として忌み嫌われる不吉の象徴は、俺達の事を屁でも思っていないのか、のほほんとした様子で鼻をヒクヒクさせる。

 余裕の態度だ。

 人間を舐め腐っている。


「かくほー!」


「待て、小学生」


 虫捕り網でネズミを確保しようとする小学生に忠告の言葉を投げかける。


「アレは沢山の人をコロコロした化物だ。迂闊に近づくな。迂闊に近づいたら、死ぬぞ」


「あんなに小さいのに沢山の人をコロコロしたん?」


「ああ、特に昔のヨーロッパ人達が餌食になった。ヤツは黒死病っていう病で人をコロコロする」


「なるほど、こいつは強敵だ」

 

 ゴクリと息を呑む小学生。

 それを見守る俺。

 鼻をヒクヒクさせるネズミ。

 ネズミは小さい癖に堂々としていた。

 『お前らなんていつでもコロコロできるぞ』と言っているように見える。

 魔王と呼ばれても、おかしくない貫禄だった。


「よし」


 小学生の声にビックリしたのか、今の今まで余裕を保っていたネズミは出入り口の方に向かって駆け出す。

 俺も小学生も逃げるネズミを追いかけようとしなかった。


「せんりゃくてき、てったい」


 難しい単語を口にした小学生は、空き部屋に逃げ込んだネズミを追いかける事なく、小走りで砲台跡と思わしき場所から立ち去る。

 賢い選択だ。

 俺も小学生を見習って小部屋から出ようとする。


「……」


 小部屋が後ろ髪を引っ張った。

 『大きな隙間』がある小部屋を一望する。

 敵船を見つけるために使われていただろう空間を見つめながら、ここにいたであろう軍人さんに思いを馳せた。

 彼等は軍人になりたくてなったのだろうか。

 『なんとなく』大学に進学した俺と同じように、『なんとなく』軍人になったのだろうか。

 ……首を横に振る。

 多分、ここにいた軍人さん達は、俺のように『なんとなく』で進路を選んだ訳じゃないだろう。

 あまり当時の時代背景に詳しくないから断言はできないけど、『なんとなく』が通じる時代じゃなかった筈だ。


(いや、そもそも『なんとなく』が通じる時代って本当にあるのか?)


 小部屋から出た俺は出口に向かいながら、夏の暑さにやられた頭を少しだけ動かす。


(もしかして、『なんとなく』生きる事ができた俺が例外なだけじゃないのか?)

 

 砲台跡と思わしき場所から出る。

 夏風に負けない生温かい空気を吐き出しながら、都会の空よりも澄み切った青空を仰ぐ。

 いつの間にか、太陽は入道雲の裏に隠れていた。

 喉が渇く。

 温くなった炭酸飲料で喉の奥に詰め込んだ。

 喉は乾いたままだった。


「……」

 

 再び空を仰ぐ。

 楕円のような形をした入道雲を見た瞬間、喉の渇きがちょっとだけ強くなったような気がした。





(四)

 小学生に促されるがまま、砲台跡から離れた俺は風車の下に辿り着く。

 砲台跡とは違い、風車は若々しかった。

 何処までも広がる海原を見守る風車を仰ぎながら、俺は息を吸い込む。

 潮風が鼻腔を擽った。

 くしゃみを懸命に堪えながら、小学生の方に視線を送る。

 小学生は風車の近くにある屋根付きベンチに座っていた。


「なあ、小学生。君はどんな大人になりたいんだ?」


 赤茶色に染まった風車を仰ぎながら、俺は小学生に疑問の言葉を投げかける。

 今の今まで俺達の肌を焦がしていた太陽は、休み時間に突入したのか、入道雲の裏に隠れてしまった。


「やっぱ、宇宙飛行士か? それとも画家?」


「うーん、なりたいものは無いかなー」


 意外な答えを口にしながら、小学生はリュックサックからカメラを取り出す。

 そして、カメラのレンズを藍色に染まった海原に向けると、撮影会を開始し始めた。


「けど、『やりたい事』は沢山ある」


 海を撮りながら、小学生は言葉を紡ぐ。

 小さい声だったにも関わらず、小学生の声は蝉の鳴き声にも波の音にも負ける事なく、俺の鼓膜を揺らした。


「宇宙にも行きたいし、世界中の動物の絵も書きたいし、この島の平和も守りたいし、世界一きれーな海も撮りたい。あと、美味しいラーメンを作りたいし、ロボットも作りたい」


 『やりたい事』を口にする小学生は真夏の太陽のように煌めいており、『なんとなく』で生きていた俺には直視できない代物だった。


「そうか、『やりたい事』盛り沢山なんだな」


「うん。だから、夏休みの宿題が疎ましい」

 

 撮影会を終えた小学生は、カメラをリュックに仕舞うと、スケッチブックと鉛筆を取り出す。


「『やりたい事』は山程ある。けど、時間も力も足りないのが今の悩み」

 

 潮風を身体全体で受け止めながら、自分が勘違いしていた事に今更ながら気づく。

 きっと『やりたい事』じゃなくて、『なりたいもの』から考えていたから、行き詰まったのだろう。

 思い返せば、大学進学する時も『やりたい』事よりも『なりたいもの』を優先したような気がする。

 多分、あの時の俺は大学生になりたかったんだろう。

 だから、『なんとなく』で大学を選んだんだろう。

 『なりたいもの』になるために。


「だから、『やりたい事』を全部できる大人になる。それが僕の夢」


 鉛筆を走らせながら、小学生は自らの願望を口にする。

 そのシンプルかつ欲張りな願望は、目の前に広がる青と緑の暴力よりも魅力的だった。

 さっきまで俺達がいた砲台跡と思わしき場所に視線を送る。

 膝の高さまで生い茂った草木が今にも朽ち果てそうなコンクリートを覆い隠していた。


「『やりたい事』は山程ある、……か」


 緑の暴力に呑まれそうになっている人工物を眺めながら、生暖かい息を吐き出す。


「にーちゃんも『やりたい事』、山程あるん?」


 スケッチブックから目を逸らした小学生は遠く離れた俺の瞳を一瞥する。

 俺は入道雲を仰ぐと、海風を身体全体で受け止めた。


「……そうだな」

 

 今、自分が一番『やりたい事』を考える。

 休んでいた太陽が入道雲の裏から出てきた。

 蝉の声と波の音が鼓膜を貫く。

 喉の渇きを自覚した俺は、思った事をそのまま口にした。


「とりあえず、今は西瓜食べたい」


「西瓜なら家にあるよ。食べてく?」


 スケッチブックを閉じた小学生は、俺の方に歩み寄る。

 俺は肯定の言葉を口にすると、小学生と共にバス停に向かって歩き始めた。

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とりあえず今はスイカ食べたい 八百板典人 @norito8989

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