羽月さんが夏でもタイツをはくワケ

石衣くもん

第1話 羽月さんが夏でもタイツをはくワケ

「羽月さんって、どうして夏でもタイツなの? 暑くないの」


 そう尋ねたら、彼女はきょとんとした顔に一瞬なった後、柔らかい口調で、


「夏は六〇デニールなんで大丈夫ですよ」


と笑った。


 羽月さんは、うちの会社の事務員の中で一番年齢が若い女性だ。社歴は結構長く、早六年。いつも黙々と仕事をしている。

 長らく業務外で話すことはなく、仕事ぶりとその見た目から、とんだ生真面目な娘だな、年齢の二十六歳より老けて見えるな、なんて少し失礼なイメージを抱いていた。

 

 いつもひっつめ髪に、真っ黒なタイツ。事務員は制服があるから就業中の服装は皆同じだが、ヒールを履いている他の事務員とは違って、ぺったんこのつま先が見えるサンダルみたいな靴を履いている。こないだサンダルを履いているのは楽なのかと聞いてみたら、ナースシューズというらしく、とても歩きやすいとの返答。

 私服もまず色味が地味で、だいたいスニーカーに短くても膝丈のスカート。


 これなら彼女より四歳年上で、今年三十歳になる花村さんの方が、髪型も私服も若々しい。こないだの私服なんか生足にミニスカートだったし。まあ、勤務中も制服に生足なんだけれども。

 ちなみに花村さんは一番最近入ってきた事務員なので、羽月さんの後輩にあたる。花村さんの仕事ぶりはそうだな、五分に一回は手鏡で髪を直している印象だ。だいぶオブラートに包んで言っても、彼女は仕事ができない。できないというか、しない。


「デニールって何? 海外俳優の名前?」

「あはは、ロバートじゃないですよ」


 茶化すようにそう言った俺に、控えめに笑って返して、終業時間を過ぎているのに、羽月さんは自分の席に戻っていった。今日も花村さんのせいで終わらなかった仕事のために残業をするのだろう。



 羽月さんと話すようになったのは、奇しくも花村さんのおかげだった。うちの会社は、営業マンは残業当然だけど、事務員は基本的に定時で帰る。事務員は営業マンのサポートが主な業務で、一人で三人の営業マンを担当するのだが、件の花村さんがまったく手が回らず、事務員が就業時間内に片付けないといけない優先度の高い仕事を羽月さんが、花村さんの営業マンを含めた六人分、片付けているのだ。


 歴が長いとはいえ、羽月さんは新人指導する立場ではない。一番年上の御年四十七歳のお局様が指導をする立場にあるのだが、このお局様と壊滅的に合わない花村さんは、すぐに隣の席の羽月さんに仕事を頼む。それをお局様も見て見ぬふりをして、自分の仕事を片付けることを優先し、そして花村さんもお局様も、二人とも定時に帰っていくのだ。


 俺ならすぐに不満を言うと思う。何ならこんな理不尽な目に遭えば、辞めてやるとすら思うかもしれない。現に、今まで日中に片付けられていた優先度の低い仕事を、残業しないと終わらせられないわけだ。そして、その原因はさっさと帰ってしまう。解せぬ。


 そんな状況でも、何故か花村さんはお咎めなし。噂では社長と何かしらの関係がある女性で、コネで雇ったとか雇ってないとか。確かに顔立ちはかなり整っているし、何よりおっぱいがでかい。そのおかげなのか、花村さん担当の営業マンも文句を言わないようだった。仕事は羽月さんがこなしているので遅れることもないわけだし。


 お局様より更に上の立場の上司たちも、羽月さんが何も言わず、また、残業と言っても一時間程度で彼女は仕事を終わらせて帰るので、わずかな残業代を支払うだけで片付く問題として、波風を立てないようにしているようだった。


 しかし、そんな花村さんに対して、俺は非常に腹を立てている。こんなのおかしい。これで羽月さんと花村さんが同じくらいの給料を貰っているなんて納得がいかないじゃないか。この憤りは、俺が、おっぱい派じゃなく脚派というのもあるかもしれない。


 そう沸々と不満を溜めて残業している俺に、ある日、羽月さんが話かけてきたのだ。


「橋本さんって、そんな凶悪な顔でいつも外回りしてるんですか?」


なんて、不思議そうな顔でコーヒーの入ったマグカップを一つ持って。

 気がつけば他の営業の奴らは帰っていて、羽月さんも制服から私服に着替えて、もう帰る準備を済ましているようだった。それなのに、残っている俺にコーヒーを淹れてくれたらしく、ありがたく頂戴した。

 

「そんなに凶悪な顔してる? 俺って」

「はい。特に花村さんを見る目、やばいですよね」

 

 彼女は橋本さんが自分に気があるって勘違いしてるみたいですけど。


 いつも電話対応や、業務の説明をしている時と違って、若い喋り方だと思った。

 そんなことより、まさかばれてしまっていたとは。


「え、花村さん、俺から好かれてると思ってるの」

「はい。いつも休憩時間に『営業の橋本さんってぇ、絶対あーしのこと好きだよねぇ? いっつもこっち見てるし、なんか照れてんのか目が合うと逸らして、ちょっと睨んだりしてくんのぉ』って」


 見事に悪意に満ち満ちた物真似を披露し、またそれが似ているのが可笑しくて思わず吹き出した。

 すると、羽月さんも少しだけ口元を綻ばせて


「あは、やっと笑いましたね。それじゃ、お疲れ様です」


と、嬉しそうに言って帰って行った。



 その日以来、俺はちょっとした合間を見つけては羽月さんに話しかけた。たまに塩対応でいなされることもあるが、彼女は自分の期待を裏切る反応をしてくれるので非常に楽しかった。


 タイツの件もそうだ。暑いのか暑くないのか、六〇デニールが何なのか、タイツ知識がない俺にはわからない。しかもなんで夏でもタイツなのかについては華麗にスルーされている。それが面白い。

 わからないことや隠されているもの程、好奇心を刺激してくるものだ。


 翌日、俺がコピー室にいる時、ちょこちょこ寄ってきた羽月さんがタイツを摘まんで


「今日は八〇デニールなんで、気持ち暑いです」


と報告し、去っていった。確かに昨日の方がちょっと肌が透ける感じがあったし、今日のはわりと真っ黒な感じだった。あくまで感じだけれども。デニールはタイツの薄さのことなのかな。数字が小さい方が薄い生地ということなのかも。

 口元が緩むのを自覚し、慌てて手で隠した。なんだか彼女との距離が縮まったような気がして、それが何故だか嬉しかった。


 その日から、俺と羽月さんの中で、今日の羽月さんのタイツが何デニールか当てるゲームが流行した。

 彼女の近くを通り過ぎる時や、たまたま出くわした瞬間に誰もいないのを確認したら俺が、


「六〇!」


と言う。すると、羽月さんが


「残念、今日は八〇です」


とか。


「どこ見てんですか、スケベ」


とか。


「今日はデニールチェックしてなかったんで、後でトイレでタグチェックしときます」


とか。


 毎回違った返しをされ、その度に俺は笑って、そんな俺を見て彼女は満足そうな顔をした。

 そんな俺たちのささやかな遊びは、ある日、花村さんに見つかってしまった。


「えー、なになに、何の話~?」

「なんでもないよ」


 至って冷静にそう返答したが、花村さんは引き下がらない。


「えー、あやしい~! なんかやらしい話してたんじゃないの~!」

「タイツの話です」


 羽月さんは何でもないようにそう言って自分の脚を指して


「夏でもタイツで暑くないのか、聞かれたので暑くないですよってお話してました」


と、嘘とも本当とも言えない返答をした。花村さんは面白くなさそうな顔をした後、急にパアッと輝くような表情になり、


「へぇ~、確かに暑そうだよね、あーしなんてストッキングもヤだから、ほら。生足なの」


なんて、露骨に俺をチラチラ見ながら自分の脚をゆっくり撫でた。

 なんだセックスアピールか? お前より羽月さんの方がよっぽどいい脚してるわ。

 そんな本音はまるっと隠して、困ったように笑い


「やめてよ、セクハラって言われちゃうじゃん」


と、視線を逸らした。

 花村さんは俺が思い描いたリアクションじゃなかったのが気に入らなかったのか、今度は自分のアピールではなく羽月さんの評価下げに躍起になった。


「てゆーか、なんで羽月ちゃんは夏でもタイツはくわけぇ? あ、もしかして、お手入れが甘いんじゃないの? でも、隠さなくて大丈夫よ、誰も羽月ちゃんの脚、そんな風に見ないから~!」

「そうですね」


 いつもと同じ調子で淡々と返事をした羽月さんは、俺に会釈して仕事に戻っていった。花村さんと言えば、


「言い過ぎちゃった」


と、語尾に音符マークでもつきそうな気安さで、俺に向かって片目を瞑って舌を出した。俺は、少し前まで羽月さんを侮辱された怒りに燃えていたが、そのポーズを見た瞬間、現実にこんなポーズをする奴が本当に存在するのか、ということに凍りつき、怒りは鎮火された。



 ある日、ふと休憩室に目を遣ると、はしゃぐ花村さんと、羽月さんの二人が休憩をとっていた。俺は、また羽月さんが貶められているのではないかと思うと、いてもたってもいられなくて、そっと休憩室の中に入ってしまった。


「楽しそうだね、何の話してるの?」

「あー、橋本さん! ここは男子禁制ですよぉ!」


 ぷくっと頬を膨らませる花村さんと、その横で突然の俺の出現にパチパチと瞬きする羽月さん。そして、羽月さんでも驚いた顔するんだな、なんて内心ほくそ笑みつつ、また花村さんの行動に戦慄する俺。

 暫く三人とも無言でいたが、花村さんは頬から空気を抜くと、もじもじしだして、


「橋本さんってぇ、わかりやすいっていうか、むっつりスケベな感じですよねえ」


などと、およそ斜め上の発言をして、羽月さんをさらに驚かせ、俺をさらに凍りつかせた。


「え……?」

「だってえ、ふふっ、誤魔化せてないですよぉ、あーしのこと気にしすぎ」


 確かに気になる存在ではある。いや、正確に言うと気に障る存在か。勿論、そんな正直な見解は伝えられないので、無理矢理引き攣った口元を歪めて笑顔を浮かべた。


「マニキュアの話です。花村さんが新作のマニキュア塗ってきたんですって」


 助け船を出してくれたのは、当然羽月さんで、俺の中の羽月さん株は上昇しっぱなしである。


「も~! 違うよ羽月ちゃん、ネイル! 自分がしないからってほんと疎いんだからあ」


 一方、花村さん株は下落の一途を辿っている。どっちでもいいし。そんなのいちいち訂正しなくていいし、あまつさえ羽月さんをディスる必要なんてこれっぽっちもない。

 そんな内心腸煮えくりかえっている俺に、花村さんは手の甲側を突き付けて、


「ほら、夏っぽいでしょお?」


なんて、ご自慢のネイルとやらを見せ付けてきた。爪は青やら白やら星やら貝やら、色もビーズらしきものの形も、確かに夏っぽいデザインとやらなんだろう。しかし、それが何だというのだ。


「俺、女の人がマニキュア塗るのってさ、どういうつもりなのか常々不思議だったんだよ。セックスアピールのつもり? 正直、そんなゴツゴツしたもんが付いた爪とか、危なくない?」


 何の時に危ないのかは、流石に明言しなかったが、かなりディスってやった。主に下ネタ方面で。人に突然むっつりスケベなんて汚名を着せたんだ、まだ遠慮してやった方だぜ。

 そんな自分を真っ赤な顔で睨み付けて、花村さんはいつものふにゃふにゃした喋り方でなく、はっきりした口調で


「最っ低!」


と、叫んで休憩室から出ていった。

 漸く、俺の胸の内は、すっきり靄が晴れた心持ちになった。これで羽月さんの分も一矢報いたのではないかと、彼女を見れば、


「ふぅん。橋本さんにとって、マニキュアはセックスアピールなんですね」


と、いつもの控えめな笑顔でからかうように言ったので、俺は無言で肩を竦めてみせた。



 そんなマニキュア事変と自分の中で呼んでいる出来事の次の日、俺は羽月さんを見ていつものように元気に


「六〇!」


と、言えなかった。


 彼女はいつもと比べものにならない、薄い、しかしやっぱり黒いタイツを着用していたからだ。黒とは言え、肌が透けて見えるのは、花村さんが見せ付けてきた生足よりも、なんだかいやらしくて、いかがわしいものに感じてしまったのだ。


「……今日は、聞かないんですか?」


 書類のコピーを取るため、コピー室にいる俺のところへやって来た羽月さんにそう言われ、あからさまに動揺した俺はコピーした書類を床に落とした。慌てて拾おうと屈み、ふと視線を上げると目の前には、先ほど、よこしまな思いを抱いた脚があり、急いで視線を下に落とした。


「あ……」


 視線の先には、彼女の爪先。ナースシューズだから、爪先が見えていて、その爪は真っ赤に塗られているのが透けて見えた。タイツが薄いから、よくわかった。わかってしまった。薄い黒が覆い隠している、彼女の秘めやかな赤色が。


「あ、足の爪には、羽月さんもマニキュア塗ってるんだね。それに今日はタイツがいつもより薄いんじゃ」


 ないの? そう続く筈だった言葉は、そっと彼女の人差し指が俺の唇に触れて阻まれた。指の爪には、やっぱり、マニキュアは塗られていなかった。


「今日は、タイツじゃなくてストッキングです。あと、足のマニキュアはペディキュアって言うんですよ」

「なんで」


 この「なんで」は、例えばなんで今日はストッキングなのか、とか。なんでマニキュアはしないけどペディキュアはしているのか、とか。そもそもタイツとストッキングはなんで呼び名が違うのか、とか。そういう意味を含んで漏れた、呟きだった。

 彼女はゆったりと微笑んで、


「橋本さんが、マニキュアが、セックスアピールだって言ったから」


なんて、見たこともない妖艶な笑みを浮かべながらそう言った。

 絶句して動けない俺に、いつもの笑みに戻った彼女は


「なあんて、びっくりしました?」


と、さっと拾ってくれた書類を渡して、


「慣れない冗談はいけませんね、すみません」


と、コピー室を後にした。

 俺は暫く、尻餅をついたまま動けなくて、心臓が痛くなる程、ばくばくしていた。



 その日から、俺と羽月さんは、また必要なこと以外話さない間柄に戻ってしまった。今までだって、俺が絡みにいったら応えてくれる関係だったのだ。俺が行かなければ、何事もない当たり障りなく波風も立たない会話で終了する。

 元々そんな関係だったじゃないか。そう、自分に言い聞かせても、なんだか胸にぽっかり穴があいたような、毎日がつまらなく、色褪せたような気持ちになるのだ。


 ふと、羽月さんの足元を盗み見た。六〇か、はたまた八〇か。濃い黒が脚を覆っていて、あの時垣間見た爪の赤色は今も塗ってあるのかわからなかった。


 あの赤は、俺のために塗ったものだったの。

 もう、その赤は、消してしまったの。


 そんな、自惚れが混ざった疑問が、綯い交ぜとなって、俺の心を締め付けるのだ。


「ねえ、羽月さん。今夜、俺に時間くれないかな」


 意を決して、誘った言葉は途中で声が裏返ってしまった。それくらい緊張している。

 あのコピー室での出来事、俺の中ではペディキュア事変と呼んでいる時みたいに、心臓がばくばくといっていた。


「……どうしてですか」


 訝しむような顔で彼女は尋ねてきた。だから、俺は嘘偽りのない答えを彼女に贈ろう。


「君の、隠してるタイツの中身が見たいんだ」

「……やっぱり、橋本さんって、むっつりスケベですね」


 そう言って羽月さんは、いいですよと微笑んだ。

 もし、今日の夜、俺の告白が上手くいって付き合うことができたなら、いつか夏でもタイツをはき続ける理由を、もう一度聞いてみよう。

 彼女は一体、なんて返してくれるだろうか。

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