第2話 赤壁賦「水と月」(蘇軾)に見る中国人の純粋理性

蘇子曰く

客も亦た夫(か)の水と月とを知るや


逝(ゆ)く者は斯くの如くなれども

未だ嘗(かつ)て往(ゆ)かざるなり

盈虚(えいきょ)する者は彼(か)の如くなれども

卒(つい)に消長(しょうちょう)する莫(な)きなり


蓋(けだ)し將(は)た其の變ずる者より之を觀れば

天地も曾て⼀瞬なること能はず

其の變ぜざる者より之を觀れば

則ち物と我と皆盡くること無きなり

而(しか)るを又何をか羨(うらや)まんや


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君もあの水と月を知っているか。


流れ行くものはこの水のようであるが、行ったままになってなくなったことはない。 満ちたり欠けたりするものはあの月のようであるが、結局、減りも増えもしない。


そもそも、

変化するという視点から見れば、天地さえ一瞬の間も元のままでいることはできない。

変化しないという視点から見れば、万物も我々人間も、どちらも尽き果てることはないのである。

そうであるならば、この上、いったい何を羨(うらや)もうか。


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且つ夫れ天地の間(かん)

物各々主有り

苟くも吾の有する所に非ずんば

一毫と雖も取るなかれ


惟だ江上の清風と

山間の明月とは

耳これを得て聲を為し

目これに遇ひて色を成す


これを取れども禁ずる無く

これを用うれども竭きず

是れ造物者の無盡藏(むじんぞう)にして

吾と子(し)との共に適する所なり


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天地間のすべての物には、それぞれ所有者がいる。

もしも、自分の持ち物でなかったならば、たとえ髪の毛一本であっても、取ってはならない。


ただ、川の上を吹き渡るすがすがしい風と、山あいに昇った曇りのない月だけは、耳にそれ(風)が快い音として聞こえ、目にそれ(月)が美しい色として見える。

いくら取っても差し止める者はおらず、いくら使っても尽き果てることはない。

これこそ、万物を創造した神の、いくら取ってもなくならない蓄えである。

そして、あなたと私の、ともに気に入るものなのです。

(参考「実戦演習 基礎漢文」松井光彦編著 桐原書店)


  これが、中国人の基本的純粋理性というものです。

  なんだか、カントの「純粋理性批判」を彷彿とさせられるような内容ですね。


  つまり、純粋理性とは、成熟した精神文化を持つ純血民族であれば、共通するということなのです。猶太人やアメリカ・英国人・台湾客家や韓国人(雑種・混血)などとは決定的に異なる、ゲルマン人と中国人の精神的境地であることがよくわかります。

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