魔女の行く末

利零翡翠

第1話 邂逅

 目が覚めればいつもの整理が行き届いていない自分の部屋が見えると思っていたのに、景色は真っ白の壁に艶のあるフローリング、カーテンの無い窓と、俺以外物が見当たらなかった。柔らかいふかふかのベッドで毛布をかけて横になったはずなのに、硬く冷たいフローリングの床で俺は寝ていた。


 そんな訳の分からない状況にぼんやりとしていた頭は一瞬で覚め、上半身を勢いよく起こしていた。


 服装は変わっていない。いつも着ているパジャマだ。なのだが、いつもより僅かに大きい気がする。具体的に言えば体と衣服との隙間が昨日よりも広がっている気がして、まるでサイズが一つ大きくなったような感じがした。


 いや、おかしいのは俺の体もだ。自分の髪に手櫛をゆっくりと通してみればいつの間にか手は床へと触れてしまい、妙に手とか腕の感触が柔らかい。自分の胸に手を当ててみればそこには膨らんだものがあって、そして、恐る恐る自分の股間に手を伸ばしてみれば、無かった。


 驚きが過ぎて信じられなかった俺は咄嗟に部屋を出て階段を駆け下りると洗面所の鏡へと向かった。そこにはいつも見慣れた俺の顔があると思ったのに、思っていたのに……。


「誰だ……。誰だお前⁉」


 全く理解ができない。家具が綺麗さっぱりと無くなり、まるで新居のような部屋になぜか俺は寝ていて、その俺が別人になっているなんて。しかも女の子に。


 声も普段の低い声ではなく、可愛らしい女の子の声に変貌していた。


 あぁそうだこれは夢だ。夢に違いない。

 そう結論付けることは容易かった。だってこんなこと現実じゃありえないから。きっとこれは明晰夢ってやつで、俺は夢を夢だと認識できているんだ。


 そう自分に言い聞かせるように頭の中で反芻し、変わり果てた俺の観賞を続けた。

 顔立ちは大人っぽくなく、俺と同じ高校生ぐらいのまだ垢抜けていない少女なのだが、目、鼻、口などのバランスが取れていてメイクなしで既に可愛らしい。


 髪の毛は所々寝癖ではねている部分はあれどサラサラと流れるような黒い髪になっていて背中まで伸びている。元々の俺の硬い髪質、茶色よりの髪色とは全然違う。


 そういえば服が大きくなったと思っていたが、冷静になって考えてみれば俺が小さくなっていただけだ。洗面所にも何も物はなかったが、毎日使っている場所だ、見える高さがいつもと異なっている。


 で…………胸は、まぁ……小さくはない。知らないけど平均くらいの大きさはあるのではないだろうか、知らないけど。


 若干震える手を胸に近づける。やがて触れた手でゆっくりと掴んだ。……複雑な気持ちになり、同時に虚無感が襲ってきた。まさか初めてが自分の胸になるとは思わなかったな。

 最初は少し期待を含んだ緊張をしていたが、いざやってみるとあまり楽しいものではなかったので早々に手を離した。


 自分観賞を終えた俺は洗面所を後にしてリビングに向かう。やはりここにも物が何もなかった。本当にここで人が暮らしていたとは思えないほどに何一つ家具がない。備え付けのコンロや水道ぐらいしか不変のものはなかった。この調子だとこの家には物だけでなく人も、すなわち俺の父さんと母さんもいないのだろう。


 夢だと分かっていても、実の両親に女体化した息子を見られたくなかったので少し安心だ。

 家の中がこんな状態じゃ、外はどうなっているのか興味が湧いてきた俺は、今度は玄関まで足を運ぶ。いつまで経っても夢は覚めず、こう刺激的なことが起こらず変わらない様子では退屈してしまう。


 玄関に到着すると靴がないことに気がついた。ここも例外ではないらしい。他に何か代用しようにも家の中は文字通り何もないので俺は裸足での外出を強制された。憚られたが、どうせ夢だしの一言で足を前に進められた。足の裏に冷たい感覚を受けながら重たい玄関の扉を開ける。


 家の外には変化が見受けられない。いつも通り、極端に人通りが少ない閑静な住宅街のど真ん中。しかし横を見ると車庫に白い車がなかった。俺の家族の車が無かった。他の家を見渡してみるとちゃんと車はある。


 どうしてここまで俺のものが消えているんだ。いくら現実ではないとはいえ、自分に関係するものがここまで消滅してしまうとため息がでてしまう。


 足元を気にしながら道路に出てみる。素足だとアスファルトが直に感じてなんだか気持ち悪い。

 一歩一歩、慎重に、何か変な物を踏まないように気を張りながら歩いていく。あと、緩くなったズボンがずれないように片手はずっと掴んだまま。


 せっかく当てもなくぶらぶらと歩くのだからいつもとは反対方向へ向かうことにする。近所だから全く知らない道なんてことはないが、今の服装も相まって新鮮な気持ちで歩くことができた。また大きな道ではなく抜け道として使われそうな細い道を選び進んでみることにしてみたりと自分に刺激を与えてみた。


 何回か人とすれ違うことがあると、みな一様に俺のことを奇異な目で見てくる。そりゃ女の子がサイズに見合わないパジャマを着て外を歩いていたら誰だって驚きもする。でも家には何もなかったから仕方がないんだ。

 

 人の視線に恥ずかしさを少し覚えつつ、一つ角を曲がったときだった。視界の奥に液体が溜まっていて、その上で数人が何かを囲っていた。やや背の高い建物に挟まれたこの道は影になって薄暗く、見える景色が明瞭ではなかったために遠いものは見えなかった。


 いつもなら無視して去ってしまうが、今回は何をしているのか突き止めたい思いを正直に足を動かすことにした。距離が段々と近づくにつれて認識できるものが増えていく。

 やがて俺の足は止まった。


「えっ……」


 下に溜まっていたものはただの水溜まりではなかった。赤かった。そして人間だと思っていた奴らの背中には羽が生えている。作りものかと疑うも、風による靡きや機械で操作されているような動きではないと一目瞭然。微妙な動作から見た目の質感が明らかに生き物の自然なものであった。


 さらに俺は奴らの囲んでいるものを見て青ざめてしまう。奴らは死体を囲っていた……。

 体の中にある臓器を手に取り、それにかぶりついていた。咀嚼の音が不快に響き渡る。


 俺は理解が追い付かずその場で立ち尽くしてしまった。瞬間我に返り、頭で考えるよりも先に体は逃げることを決めていた。だが恐怖から足は思うように動かず、自分の脚に引っ掛けてしまい前のめりに転倒してしまう。


 最悪な状況になってしまったことに気がつくのには時間はいらなかった。


 後方を確認すれば夢中で貪り食っていた奴ら全員と目が合う。その白目の無い鋭い瞳からは殺気が伝わった。爪は長く鋭くまるで獲物の息の根をそれで止めてきたかのように赤黒い血がこびりついていた。

 絶対にヤバい。今更ながら近づいたことを後悔している。俺は全力で逃げようとまずは体を起こして――


 そうしていると一人が突然爪を向けながら俺の背中を貫こうと猛烈な勢いで突っ込んできた。


「あっ……」


 諦めを悟ったからか、それともこれは夢だからか、夢の中でも走馬灯はあるのだろうかとどうでもいい思考ができるくらいには、目の前の光景がスローモーションに見えてしまっている。これでようやく奇妙な夢から逃れられると、どこか安堵した感情を持っているのも不思議だ。

 そういえば今日は金曜日か……。じゃあ今日を乗り切れば明日、明後日は休みだな。


 ふと、天を仰ぐために首を曲げたとき。


「――チェェストォォォ!」


 叫び声とともに上から何かが降ってきた。

 強い衝撃に俺はまたも前から倒れ込んでしまう。何が起こった!? 確認しようと後ろを見てみると少女が立っていた。彼女の右手にはバットが握られている。


 上から少女が降ってきて……それで、あの羽の生えた人は……と、彼女の足元に目線を移す間際、彼女はバットを高く掲げた。

 考える隙もなく一瞬にして振り下ろす。何度も何度も下敷きになった人の頭をめがけてバットを強くたたき込んでいた。生きてきた中でこんなに激しい音を聞いたことがない。創作物の中であってももう少しマイルドな音に差し替えられるほど、聞くに堪えない音が耳に入ってきた。


 やがて彼女はその手を止める。俺は足元を見ることができなかった。凄惨な光景は想像の中だけで充分だ。


 血がついたバットを肩に乗せた少女は得意げに笑顔を見せたあと、赤髪のツインテールを揺らしながら振り返る。


 あの羽の生えた人たちには全く物怖じせず、むしろ奴らに向かって空いた手を指先まで伸ばして、指を数回折り曲げてみせた。挑発だ。


 仲間が滅多打ちにされさらに挑発まで受ければ激昂し、叫び声と共に一斉に彼女へ殺意をぶつけに来る。だが奴らの全力はいとも簡単に彼女の軽い足取りと堅固なバットによって次々受け流されてしまう。


 俺には目もくれず再び彼女に鋭い爪を突き刺そうと反転し地面を蹴った。


「――おらぁぁぁ!」


 だが今度はフルスイングのバットによって返り討ちにあった。また奴らの数を生かした余裕を与えない連続攻撃も彼女のスイングによってあっけなく鎮圧された。


 そして彼女は少しでも息のある者にバットを振り下ろしたり、足で踏みつぶしていたりと容赦を見せなかった。


 たった一人の少女によって、簡単に殺されたのだった。


 ふぅ……と溜息をつく彼女。俺はその後ろ姿をただ見ているだけしかできなかったが、彼女は振り返るとしゃがみ込み俺の様子を窺った。


「大丈夫? 怪我はない?」

「え、あ、はい……大丈夫、です。その……助けてくれてありがとうございます」


 なんとかお礼の言葉は口に出すことができた。


「君! 見えてたよね?」

「はいっ? 見えてたって……こいつらのことですか?」


 訳のわからない状況に訳のわからない質問が重なり、声が裏返ってしまった。


「……ごめん、説明は後にするから、とりあえずあたしについてきて!」


 彼女は手を伸ばして俺を立たせたあと、半ば強引に手を引いてどこかに連れていこうとする。


 さっきは俺のことを助けてはくれたものの、味方なのかはっきりとしていない。もし逆らえば彼女の持つバットで奴らと同じ目に遭うのかと想像すると、俺はただ足を動かすことしかできなかった。

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