春の訪れと貧困の日常 その2

 朝方採ってきた薬草の下処理を何とか終え、ダーウィック教授の講義のある教室にミアが行くと、いつも通りの光景を見ることができた。

 ダーウィック教授が教鞭をとる教壇の周りだけ綺麗に三列ほど円状に席が空いている。

 ミアにはそれが意味することを理解できなかったが、ダーウィック教授の講義だけは遅く来ても一番前の席を取れるので何かと助かっている。

 ミアは自分が崇める神、ロロカカ神に言われて、言うならばロロカカ神より頂いた啓示によって、このシュトゥルムルン魔術学院に学びに来ているのだ。

 特にダーウィック教授の講義は魔女科の必須の講義である。さぼるどころか手を抜くことなど、ミアにできるはずもない。

 そんなことからミアはできる限り一番前の席、この場合は教壇の真ん前の席で講義を受けることにしている。

 他の生徒たちももうその光景に慣れているのか、すでに関心がないのか驚きはしない。

 ミアが受けた一番最初の講義でも、ミアは教壇の真ん前に座っていた。

 その時は魔女科の他の生徒たちは、ひそかにざわめき立っていたものだ。

 ミアの身に降りかかるであろう災いともいえる事に期待しせせら笑うものや、そのことでとばっちりを自分が受けないか心配する者はいたが、ミアの身を心配する者はほんの少数だった。

 魔女科とはそういうところだ。

 ただ勘違いしないで欲しい。

 魔女科という名がついてはいるが、そこに通う生徒が魔女なのかと言われればそれは違う。そのことも追々話す時が来るだろうか。ただそれは今ではない。

 とりあえず、今日に至るまでミアの身に降りかかるはずであった災いともいえるような出来事はなかった。寧ろ普段より何事もなく講義は行われていった。

 魔女科の生徒たちはダーウィック教授のことを少しばかりだが知っている。

 知っているからこそ、ダーウィック教授からは距離を取りたいと思う。その表れが教壇からの席の距離なのかもしれない。これは本能的な物なのだろう。

 同じ人ながらにダーウィック教授が恐ろしいのだ。それはおおよそ人が人に抱く感情ではない。

 それは言葉で言い表せるような物ではない。まさしく言い知れぬ未知の恐怖、そう言った雰囲気を持った人間であり、また実際に下手に関わると痛い目を見るだけでは済まない、そんな人種の人間でもある。

 ミアが初めて講義を受けた日、魔女科の生徒たちはまず間違いなくあの愚かな田舎娘は泣くことになる、場合によってはこの学院からはだしで逃げ出すことになるだろうと思っていた。

 が、何も起きなかった。

 それどころか、ダーウィック教授は挙手をし質問を投げかけるミアに対して、懇切丁寧に答えてさえいた。

 その様子を見た魔女科の生徒たちは、自分のダーウィック教授に対する認識が間違っていたのでは、と考えもしたが、ダーウィック教授を目の前にすると自分たちの認識は間違っていなかったとを否でも応でも再確認できた。

 ミアと言う田舎娘は祟り神の巫女らしいので、そのせいではと魔女科の生徒たちは考えもしたが、その考えをすぐに否定する。

 あの暗黒神に仕え大神官の位を持ち齢三百歳を超える既に人としての領域をも超えているダーウィック教授が祟り神を恐れるわけがない、そのことを十分に理解しているし、だからこそミアと言う田舎娘はこの魔女科に配属された理由でもある。

 その事をちゃんと理解している。

 魔女科の生徒たちは、なぜミアが無事でいられるのか理由がわからなかった。

 ただ魔女科の生徒たちは少なくとも、これだけは理解している。自分たちがミアと同じように振舞うものなら、ただでは済まされないだろうという事をだけは。

 なので、魔女科の生徒たちは、ミアのことをそういうものだと思い込むことにした。

 そもそも相手は祟り神の巫女なのだ。好き好んで関わり合いになりに行くのも馬鹿らしい。祟り神との一番いい付き合い方は接点を持たないことだ。それだけは間違いがない。

 それにダーウィック教授の注目がミアに集中するなら講義もいくぶんか受けやすくなる。そういう風に考えるようになっていた。

 だが、今日は少し違った。

 十時ちょうどにダーウィック教授が教室に入ってくる。

 背が高く筋肉質でガタイが非常に良く偉丈夫と言っても過言ではない。肌は死人のように青白く、闇のように黒い髪とぎょろりとした大きく仄暗い水底のような瞳、彫りの深い顔立ちで、どこまでも無表情な男。

 艶のある漆黒で体に沿って仕立てられた服を着て、どこを見ているかもわからないその視線は、ただ空を、虚空を見つめているようにも思える。

 暗黒神。暴虐と欲望の神。闇の勢力の最高神。法の神が神族の名を法の書に記す際、二日使うことになった原因となった神。

 その神に仕える十三人いる大神官の中で第六位の位を持つ者。

 ダーウィック・シュタインベルト教授だ。

 もはや魔人と言っても過言ではない、死後暗黒神ルガンデウスの使徒として迎え入れられるとも噂されている世界最高峰の神の代弁者にして魔術師の一人だ。

 この概、平凡なシュトゥルムルン魔術学院で例外とされる二人の講師のうちの一人だ。

 そんな彼は普段ほぼ無表情である。だが今日は違った、教室に入った途端、その無表情であるはずの表情が、ほんの少しだけ動いた。

 それは眉がピクリと少し動いた程度だったに過ぎない。

 それでもこの場にいる生徒、ミアを除く全員の生徒が絶望するほどの禍々しい気を放っていた。

 その場の生徒誰もが固唾を飲んでその場を静観し、その矛先が自分でないことに安堵した。

 ダーウィック教授がゆっくりとした歩調でミアに近づいた。

「ミア君。今日も筆記用具がないようですが? いえ、いえいえ、ここ二日ほどですか、熱心に講義を聞いてはいるようですが、以前のように必死になってその教本に記述していくことは、もうおやめになったのですか?」

 抑揚のない平坦ではあるが、重く響く声でダーウィック教授がミアを見下ろしながら語り掛けた。

「すいません、教授。書き記すための墨を切らしていまして」

 ミアは苦笑はしているものの、特にダーウィック教授に対して恐怖も負い目も感じてはいないようだった。まるでただの世間話のような感覚で答えた。

 今度は少し覗き込むように腰を曲げ、座っているミアに視線を合わせダーウィック教授は話をつづけた。

「そうですか。そう高い物ではなかったと思いますが」

 その質問に対し、ミアは少し恥ずかしそうにしながら答えた。

「そうなのですが、そろそろ夏用の服を買いたいと考えていまして」

 ミアがそう答えると、ダーウィック教授の表情が少し和らいだ、気がした。暗黒神ルガンデウスを崇拝するデミアス教では、己の欲望に忠実であれ、と言う教義がある。

 そして、ダーウィック教授は本来なら教授ではなくデミアス教の大神官と言う肩書なのだ。

 夏用の服を買いたいと言うミアの欲望を評価したのかもしれない。

「そうですねぇ、確かにもうそんな時期ですねぇ」

 そこでダーウィック教授の黒い瞳がぎょろっと動いた。

 そして何かをじっと見つめている。視線の先にあるのはミアの教本だ。講義を行ったところは例外なくしわくちゃになっている。それはミアが筆記帳にではなく教本にこれでもかと言うほど書き込みを入れているせいだ。

 言うまでもなく筆記帳を個別に買っている余裕はミアにはない。

 が、おかしなことにここ二日分の講義で使われた頁もしわくちゃになっている。何か書き込みでもしなければ、ここまでしわくちゃになることもないはずなのだが。

「その教本、少し見せて頂けますか?」

 ダーウィック教授はそう言った。意外にもその声は優しさを含んでいた。

「はい」

 と、少し不思議そうな表情を浮かべミアは素直に教本をダーウィック教授に手渡した。

 ダーウィック教授は手渡された教本をぱらぱらとめくった。

 ダーウィック教授の記憶では、ミアが自分の講義で記述しなくなったのは二日前からのはずだ。

 筆記帳ではなく教本に直接書き込んでいた。金銭的に余裕がないとは話で聞いていたし、本人は望んでいたことなので特に気にする気にはならなかったが。

 ここ二日前から記述することを止め、睨むようなほど真剣に自分の講義を聞いていたと記憶している。理由は先ほど聞いた。墨を買う金銭がないとのことだ。

 が、どういうことだろうか、ミアから手渡された教本には昨日の講義の内容も、一昨日の講義の内容もしっかりと、いびつな筆跡ではあるが一言一句漏らさず教本に書き記してある。

「ほう、素晴らしい。これはいつ?」

 ミアはその問いの意味がすぐには理解できなかったが、少し考えここ二日分の講義の記載されていることの話だと思い当たった。

「図書館には利用者が使って良い墨が置いてあるので、それを借りて。夜に図書館が閉まるまでに書いておきました。さすがに日をまたぐと覚えてはいられませんので」

 ミアがそう答えると、ダーウィック教授はミアの眼をじっと無表情に見つめた。

 そして不意に、ニヤっと笑みを浮かべた。まるでダーウィック教授の顔がとろけたかのような印象を受けるほど表情の変化だった。

 その瞬間、今までダーウィック教授に何も感じていなかったミアですら、ぞわぞわっとした、まさに虫唾が走るような感覚に襲われ急に冷や汗が流れ出して身震いをした。

 他の生徒たちにいたっては、張り付いてしまったように動けなくなる者や、過呼吸に陥る者、その場でガタガタと震える者などがいたが、ダーウィック教授はそれらを意にも留めない。

 ダーウィック教授が発する気が、そのちょっとした感情がこの場を完全に支配していた事だけは確かだ。

「ミア君、あなたは実に素晴らしい。我が神ルガンデウスに仕える気はありませんか?」

 張り付いた気味の悪い笑顔のままダーウィック教授は有無を言わさないような、常人であれば気を失いかねないほどの、そんな圧すら感じられる、巨大な意志の圧とも言うべきものを持ってミアに誘いの言葉をかけた。

 それに対してミアは瞬時に、

「すいません教授。私にとってロロカカ様以外の神様は神様ではないので、申し訳ないですがその御誘いは受けれません」

 と毅然とし平然と言い放った。

 瞬時に、悩むすきもなく、返答されたことに少なからずダーウィック教授自身が驚き感嘆の声をわずかながらにあげた。そして気味の悪い笑みがスッと消えていつもの無表情の顔になった。

「ほう、そうですか。では、その中には法の神も含まれるのですか?」

 そして、さらに意識の圧とも言うべきものをかけて問いをミアに投げかけた。

 法の神。この世界でもっとも神格が高く気高い神。この混沌とした世界に法をもたらせ秩序を生み出した最も偉大なる神。

 このダーウィックという男はその神も神に含まれないのか、そうミアに問うたのだ。

「もちろんです」

 その問いにミアはまたもや即座に返事を返した。その返事にはまるで迷いがなく心の底から信じているようにダーウィック教授には感じられた。

 人の奥底の、もっとも深い欲望を探ることに長けたダーウィック教授にすら、心からそう信じていると感じられる返事だった。

「実に素晴らしい。ミア君、あなたの言葉には嘘がなく、それでいて己の欲望に哀れなほど忠実である! 本当に惜しい。ミア君、あなたなら将来、大神官の座すら叶えられたろうに。いや、実に惜しい…… ですが、無理強いは良くありませんねぇ」

 実のところ、そんな言葉を発してはいるが、ダーウィック教授はミアを暗黒神ルガンデウスを神と崇めるデミアス教に引き入れる算段は頭の中では既にできている。

 だが、それはミアと言う人格を壊し人形として、廃人として神に仕えさせるのと同義の結果になる方法だ。それでは意味がない。

 この狂信者ともいえるような少女を、自らの神を純粋に信じて疑わない、ただただ自らの神を狂信するだけの欲望を持った少女を、壊さずに手に入れるのは暗黒神に仕える大神官にしても難しい。

 ミアの想いは純粋でいて狂っていて驚くほど強固なものだ。

 だからこそ実に惜しい。それ故にダーウィック教授が諦めるわけはない。

「ふむ、ロロカカ神ですか。私も聞いたことのない神です。どんな神なのですか?」

「大変お優しい女神様です」

 まるで自慢するようにミアは答えた。

 ダーウィック教授にはそれが本心から出ている嘘偽りのない言葉だという事がわかる。

 聞いていた話とは少し違うがダーウィック教授にとってそれは些細なことでしかない。

「ほほう、お優しいですか。私が聞いた話では祟り神と言う話でしたが」

「ロロカカ様は祟り神ではないです」 

 ミアは少し怒ったように、心底心外と言わんばかりに答えた。

 ミアは巫女として神と接してきたせいか、ダーウィック教授に気圧されることはない。

 常人ではまともに面と向かって話せないほどの、重圧的な雰囲気を持つダーウィック教授と対等に話すことができる。

「そうですが、巫女であるあなたがそう言うなら、そうなのでしょう。では、そのお優しい女神が、仮にです。仮にですよ? 生贄を求めたとしたら、あなたはどうしますか?」

「もちろん捧げます」

 ミアは生贄を求められることが嬉しいのか、目を輝かせて答えた。いや、あっさりと祟り神でないと認めてくれたことに喜んでいるのかもしれない。

 それともロロカカ神のために何かできることも心底嬉しいのだろうか。

「それが、もし…… その生贄の対象が、あなたの親しい家族や友人…… その人らだったとしてもですか?」

「あたりまえです、何か迷うことがあるんです?」

 その返答に迷いがない。

 恐らくこの少女、ミアは実際にそうなれば迷いなく実行するだろうとダーウィック教授は確信した。

 しかも、その対象の人間の意思など初めから考慮しないことも。この少女は間違いなく狂っている。

 その上で、さらに問う。

「それがあなた自身でも?」

「はい、もちろんです!! 喜んで生贄になります!」

 ミアは心底嬉しそうに。生贄に求められることが至高の名誉であるかのように喜び答えた。

 そう答えたミアの眼は心底輝き希望にあふれているようだった。

 狂信者の類だとダーウィック教授は確信した。ロロカカ神が気に入るのもわかるほどだ。

 結局のところ神はこういった一つの道を突き進む者を好む傾向にある。

 それを知る人間は実は少ない、が、ダーウィック教授はそれを、その真理を既に知っている。

 だから、ミアと言う少女を自らの神の僕にしたいという事をダーウィック教授は欲している

「そうですか、そうですか。実に素晴らしい。それだけに惜しいですねぇ。では、それが生贄でなく理由もなく、人々の命をただ単に奪えと言う命であったならば、あなたはどうしますか?」

 この問いかけは、優しい女神と言っていたので、ついでに聞いただけに過ぎない。ダーウィック教授にはこの押し問答が無駄だと既に分かっている。

「奪いますけど?」

 ミアは平然と答えた。なぜこんなことを聞かれているのか理解できていないようではあったが。

 ダーウィック教授は最初、ミアと言う少女に自分の意思がないのではないかと思っていたが、そういうわけでもない事はここ数日観察してみたところ理解できた。

 彼女自身の意思がありながら、自らを信じる神を絶対のものだと信じ、そしてそれに従うことが喜びだと、心の奥底からそう思っている。

 ダーウィック教授から見れば歪んだ欲望だが、ミア本人にとってみればそれは限りなく純粋な欲望なのだろう。

 もしこの少女が暗黒神ルガンデウスを信奉するようになれば、必ず暗黒神の役に立ってくれるだろうし、この少女のことを気に入るだろうと、ダーウィック教授は確信する。

 現段階で、そのままミアを壊さずに懐柔することはまず不可能だ。だが、時間はある。そして時と共に人は移ろいやすいものだ。

「そうですか。そのことに何も疑問を抱かないのですか?」

「それがロロカカ様の願いであるならば、どんなことであろうとも、叶えねばならないですよね? なぜそのようなことを聞くのですか?」

 そこで、ダーウィック教授は自分がかなり前かがみになって、ミアを覗き込むような姿勢を続けていたことに気が付いた。

 珍しく感情的になっていた自分にダーウィック教授は気が付いた。

 ダーウィック教授は、すぐに姿勢をただした。続いて腰のあたりを軽く手でたたいた。

 そして、ミアの質問を無視して、今度は不可解な視線を送り続けて居る帽子に視線を送る。

 ロロカカ神がミアに授けたという神器の帽子。

 調査の結果、特別な術は込められていないという結果になったが、ミアの証言通り実験で帽子を被った騎士隊の見習いが一週間ほど寝込んだというし、三日ごとにミアの手元へ自然と帰って行った。

 が、それなのに祟りを発動させるような術や呪詛の類、ミアの手元に戻る帰還の術すら掛かっていなかった。この帽子には、強力な魔力が込められてはいるがなんの術も奇跡も掛かっていない。

 この帽子の調査を行った教授は頭を抱えたが、結局込められている魔力の強さから、この帽子は神器と認定された。

 恐らくこの帽子はロロカカ神の眼なのだろう。お気に入りの巫女を見守るための物なのかもしれない。

 それは神として異常ともいえる執着だ。神が一個人の人間に対してそこまで執着することはまずない。本当に珍しいことだ。

 それだけに、この帽子の前でこのミアと言う娘に対して強引に何かをすれば、神の怒りを買うことは間違いなさそうだ。

 いくらダーウィック教授が世界最高峰の魔術師だろうと、暗黒神の大神官だろうと、神そのものを敵に回して勝てるはずもない。

 どんな神であれ、神が本気になれば、人間という無力な存在ではどうあがいたところで太刀打ちできるものではないのだから。

 そういう意味では、神の祟りなどと言っても神からすれば、お前は気に入らない、と人に言葉を投げかけたようなものでしかないのだ。それでも人にとってはその効果は絶大であるが。

 神が本気で人に害意をもてば、いかに神格の高い神に仕えていようとそれを防ぐことなどできない。

 厄介なことだと、ダーウィック教授は思うが、それでミアを諦めたわけではない。

「スティフィ・マイヤー」

 と、ダーウィック教授は突然この場にいる一人の生徒の名前を挙げた。

「は、はい!!」

 と、震える声を上げて、長い銀髪の少女が震えながらも急いで席から立ち上がり、その後は凍えるように震えながら直立不動の姿勢を取った。

 ダーウィック教授と同じような漆黒の服を着ている。

「あなたは確か、私の講義を受けたくて遠くからわざわざ来てくれたのですよねぇ」

「は、はい、その通りです、大神官様」

 スティフィは声の限り、と言っても緊張と恐怖のせいか大した声量は出てはいないが、答えた。

「大神官の地位を捨てたわけではありませんが、今の私はただの…… 教授です。ここでは教授と呼んでください」

「す、すみません、だっ、だいっ…… 教授様」

 ステフィは席から外れ、席と席の間の通路まで移動して、その場で床に額を付けて許しを懇願した。

 その様子をダーウィック教授は特に気にするでもなく、止める気もないし、視線すら向けなかった。

 ただ、

「教授に様はいりませんよ?」

 と、付け加えた。

「申し訳ございません」

 と、さらに床に額をこすりつけてスティフィは謝罪している。もちろんダーウィック教授は気にも留めないどころか見向きすらしない。

「あなた、ミア君に墨を貸すのは嫌ですか?」

 と、ダーウィック教授はスティフィに視線も送らず聞いてきた。

「いっ……」

 スティフィは頭の中で、今まさに極限状態に追い込まれたと言っていい頭の中で思考を回転させた。

 本心は嫌だ。祟り神の巫女と関わり合いになるなどもってのほかだ。たまったものではない。

 だが、敬愛する大神官からの願いだ。断っていいものかどうか判断がつかない。

 ここは墨くらいいくらでも貸すべきなのでは? とスティフィの脳内で判断がくだされようとしたところで、自分がデミアス教の信徒であり、デミアス教の教義のことを思い出す。

 酷く単純だ。己の欲望に忠実であれ。

 それを寸前のところで何とか思い出すことが来た。それはスティフィにとって今日一の幸運だったかもしれない。

 それにダーウィック教授は墨を貸せとは、まだ言っていない。

 貸すのは嫌か、と尋ねられただけだ。

「いっ、嫌です……」

「ほう、私が命令してもですか?」

 ダーウィック教授はスティフィのほうを向き、視線を初めて送りそう言った。

「そ、それ…… それなら、従います。喜んで従わさせていただきます」

 顔を上げ涙ながらにスティフィは答えた。

 涙を流したのは、墨を貸す、祟り神の巫女に関わり合いになるのが理由からではない。これは喜びの、歓喜の涙だ。

 あこがれの、もはや崇拝と言っても過言ではない、大神官からの直接の命を受けたことに対する歓喜の涙だ。

 それに、欲望に忠実であるのと共に、デミアス教の教義では欲望同士がぶつかり合った時、それを優先させるのはより強い力を持った者の欲望だ。

 つまりより強い暴力を、力を持っている者の欲望が優先される。それもデミアス教のもう一つの教義でもある。

「では命じます。あなたはこのミアの友人になり、デミアス教に入信するように勧誘しなさい」

「へ? はふぁ、はいっ、お、仰せのままにっ!!」

 と、半ば泣きながらスティフィはダーウィック教授に向かって再度、床に頭を付けるように頭を下げた。

 予想とは違った命が下ったが、スティフィはその命を力の限り遂行するつもりだ。祟り神に祟られようが完遂する覚悟を一瞬で心に決めた。

 自分の荷物を急いでまとめ、教壇の前のミアの隣の席まで行き着席した。

 そのまま無言で墨の入った小瓶をミアのほうへと差し出した。その墨入れの小瓶を持っていた手は震えてはいたが。

「ありがとうございます、いいんですか?」

 と、ミアが少し驚いた表情で聞いてきた。

 スティフィは無言で、震えながら頷いた。

 ダーウィック教授はその様子を微笑をたたえて眺め、数瞬の後、スッと無表情に戻り教壇に立った。

「では、今日の講義を始めましょう。たしか、上位種の話の途中だったかと思います」

 ミアは服の中に仕舞い込んでいた羽筆を取り出し、スティフィが差し出した小瓶に遠慮なく突っ込んだ。

 スティフィはその様子を見て密かに微笑んだ。あたかも、墨ごときで貸しが作れるのなら安いものだと言っているかのように。

 どんな小さな貸しでもいい、それを足掛かりにしてつけ込んでいけばいい、と。

「確か神族の話は終わらせていますねぇ。我々、人が魔術と言う技術を行うにあたり、その力の源となる魔力を上位存在と呼ばれる者たちから借りねばなりません。では、上位存在とは何を指しますか? スティフィ、答えなさい」

「は、はい、教授。ま、まずは日曜種と月曜種の神族、そして、その御使いたる火曜種。水曜種からは上位精霊、木曜種からは古老樹と竜族、これらがあげられます」

「そうですねぇ、後敢えて上げるとするならば、土曜種の巨人族でしょうか。彼らはもういませんが」

「どうしていないのですか?」

 ミアが手を挙げなら、質問を投げかけた。

「うむ…… 巨人族は我ら人よりはるか昔に神によって作り出され、その力を分け与えられた優れた種族です。それ故に強い力を持ち、増長し、主たる神に反旗を翻しました。愚かなことです。その結果、巨人種は神と戦い、敗れ、滅ぼされ、この世から消えました。そして、その反省点を踏まえて作られたのが人間であると言われています。なので人は、自らの力をもっていないそうですよ」

 そこでダーウィック教授は一息つく。そしてその言葉を続ける。

「まあ、これは眉唾物の話ですがね。時系列的にあてはまりませんので。ただ神々に戦いを挑み巨人族が滅ぼされたという事は事実です、そこだけは頭に入れといてください」

 ミアはその言葉を文字にし、教本に書き込んでいく。

 そして、筆を止める。

「すいません、もう一つ質問しても良いでしょうか」

「構いません、どうぞ」

「金曜種には上位種と呼ばれる存在はいないのですか?」

「ふむ…… 結論から言いましょう、私にもわかりません。そもそも、金曜種と言うもの、創世記によれば、物言わぬ者でしたか。それが何を指しているのか、今も学会では討論している最中です。我々、人が決めるようなことでもないでしょうに、愚かですねぇ」

 ダーウィック教授は無表情のまま鼻で笑い飛ばした。

「つまり金曜種自体が正体不明、謎の種族と言うことですか?」

「まあ、そういう事になります。一説には、地下に埋まっている金属や宝石類のことを物言わぬ者だとか、主張している学者もいますねぇ。事実かどうかはわかりませんが。ついでに、学会では、土曜種は人間だけなのか、それとも、生き物をすべて含むのか、などとくだらないことを延々と未だに討論してましたか」

 ダーウィック教授はそう言ってミアを見つめる。

 何か言いたそうな表情をしているが、ミアからは質問が続かなかった。

「なぜ延々と討論しているのか、と言う顔をしていますねぇ」

「え? あっ、はい、そうですが、あまり講義に関係ない事そうだったので……」

「いえいえ、いけません、いけませんよぉ。知りたいという知識欲。それもまた欲望の一つ。欲望には素直に向かい合うのが一番なのです。それこそが神へと通ずる道でもあるのです。覚えておきなさい。これはデミアス教だからの話だけではありませんよ」

 ダーウィック教授はそう言ってミアを見つめる。ミアは黙ってダーウィック教授の次の言葉を待つ。

「で、なぜ未だに討論してるか問う話ですよねぇ。それは答えがないからです。正確にはその答えを確かめようがない、もしくは、まだ決められていない、と言うのが答えだからです。それらの真理を得ようとするのであれば、法の神が書いたという法の書を覗き見るしかありません」

 法の神が記した法の書にはこの世界に居るべき者、未来過去現在すべて含めて、その名が記されているという。

 法の書に記載のない者は外法の者。外道種として世界の絶対悪として存在しているという。

 確かにそんな法の書を覗き見れば、そこには答えが書いてあるのだろうと、ミアも思う。

 ただ法の書を人間が覗き見ることはできない。

「ですが、法の書は今も法の神の手にあり、その法の神もいずこかで眠りにつき確かめるすべはありません。人間の、思い上がった人間の勝手な想像で決めることではないのですよ」

 ダーウィック教授はそう言って、魔術学会という組織の存在理由を否定した。

 そしてそれにはミアも同意見だ。神が決めたことに従えばいい、そしてそれを伝えないのであれば、それは人にとって今は必要のないことなのだと理解できているからだ。

「それでも無駄話を続けているのが魔術学会と言う組織です。まあ、それらは建前で、無駄な討論をしていてもそのことで予算が降りるからですねぇ、言ってしまえば今の学会という組織は本当に無駄な組織ですねぇ、あれでも昔は優秀な組織だったのですが」

 そう答えたダーウィック教授に、ミアが一番興味あったのはなんで質問してないのに、質問の内容がわかったのか疑問だった。

 が、そのこと自体も講義自体に関係ない事なのでさほど興味もなかったし、ダーウィック教授が答えてくれた解答にもミアが興味をそそられる物でもなかった。

 これ以上講義が脱線していっても困ると思っただけだった。

 ただダーウィック教授が話した内容で、少し気になることがあったので、ミアは言われた通り知識欲と言うものに従った。

 欲望に素直になることが神へと通じる道である、と言われた言葉を実践してみたのだ。

「ついでになのですが、まだ決められていない、と言うのは?」

 その質問を受け、ダーウィック教授は小さなため息をついた。

 が、特にその表情には変化がなく怒っていたり嫌気がさしたというわけではなさそうだ。

「ふむ、ミア君は講義の復習はできても予習はできないようですねぇ」

「すみません、間違った知識を覚えてはいけないと思って」

 ダーウィック教授の講義では、この教本に書かれている内容をよく否定することがある。

 この教本はあくまで魔術学会が作ったもので、真実とは程遠い、とダーウィック教授は言っていた。なのでミアはこの教本を使い自分で先に学ぶことを辞めている。

 実際ダーウィック教授以外にもこの教本に書かれている内容とは違うことを教える教授は多い。ミアはその都度それらの教本に書き込みを加え訂正していっている。

 魔術を行う上でもっとも愚かしい行為は、間違った知識で魔術を行使することだ。

 ミアがこの魔術学院に入るときに、この学院の学院長ポラリスより聞かされた言葉だ。

「そういうことですか、なるほど。いえ、失礼。それは私が言ったことでしたか。まあ、魔術の話や上位種の話からはそれますが、なかなか面白い話であり、魔術師、魔術を扱う者、神に仕える者の未来の話でもあります。少し話しておきましょうか」

「お願いします」

 ミアはそう言われ更に真剣な趣になり、羽筆を持つ手にも力が入る。そして無遠慮にスティフィが差し出した墨瓶の中に羽筆を突っ込む。

 スティフィはその様子を見て、ミアが墨を借りたことに対して、感謝はしているだろうが、何の負い目も感じてはいない事にここで気がついた。

「創世記にもあるように、この世界は創世の途中なのです。怠慢にも法の神が寝ているせいで、世界は未完成のまま放置されているのですよ。この世界、と言うよりは大陸はですが、大きな、とても巨大な海原の上に浮かんでいます。そして海の先、世界の果てには何があると思いますか?」

 その問いに答えるものはいない。

 もし知っていても、ダーウィック教授の質問に、名指しでもない限り答えるような者はこの教室にはミアくらいしかいない。そのミアも質問の答えを知らない。なので答える者はいない。

「答えは、何もないそうです。世界の端には巨大な滝があり奈落へとつながっているそうです。もしかしたら…… ですが、その奈落こそが全ての始まり、混沌の海と呼ばれる存在なのかもしれませんがねぇ。一度くらいはこの眼で見てみたいものです。おっと、ここはただの推測なので、書かなくていいですよ、ミア君」

「はい」

 と、ミアは返事をして、今しがた記述したところに二重線を引いた。

「博識の神から頂いた神託では、ですが、本来の世界の形は球状をしているそうです。おそらく法の神が再び目覚めたならば、この世界は球状と定められ、そのような形になると言われています。そして、その時こそが、本当の意味で世界の始まりだと言われています」

 そこでダーウィック教授は一旦息を整える。

 そしてミアを凝視する。

「その時までに、世界の敵対者である外法の者たちを排除し、いざ本当の意味で世界が始まれば、今度は世界の覇権をかけ、光と闇で争うようになるのです。その日のために、我々人間、特に魔術師は神の糧となり先兵となり奴隷となるために存在しているのです。ああ、待ち遠しい…… 我が神ルガンデウスが法の神に雪辱を果たす、その瞬間が、待ち遠しい……」

「雪辱……」

 ダーウィック教授が発した『雪辱』というその言葉があまりにも強く発せられたので、ミアはついその言葉を繰り返してしまう。

 ダーウィック教授は目を大きく開き、ミアを更に凝視する。

「そうです、我が神ルガンデウスは創世記でいうところの日曜という時に、法の神に戦いを挑み、そして惜しくも負けました…… そのことで、神族のみが日曜と月曜という時を使い法の書に記されたとされています…… ん、何か不満そうですねぇ?」

 ミアの表情の変化にダーウィック教授が気づいた。

「いえ、その出来事があったせいで、ロロカカ様が月曜に後回しにされたと考えると……」

 珍しく少し言い難そうにミアが答えた。

「ほう、なるほど。そういう見方もあるのですねぇ…… それは今までにない視点ですが、あまり意味はありません」

「そうなのですか?」

 ミアはきょとんとした、なにも理解してない様子で聞き返した。

「はい。日曜種だ月曜種だと、言っているのは我ら人間だけですしねぇ。そもそも、創世記も人の手によって書かれたものだそうです、それを考えるならあまり意味のないことですよ」

「なるほどです。でも、ロロカカ様が後回しにされたというのは事実なのですね」

 やはり不満があることはあるのだろうか。ミアは微妙な表情を浮かべていた。

「まあ、そうなりますねぇ…… ミア君、あなたは…… 我が神ルガンデウスが憎いのですか? それともその信徒たる私に謝罪でもしてほしいのですか?」

 無表情に聞いてくるダーウィック教授に、ミアは平然と答える。

「いえ、憎くもないですし、謝罪もいりません。そんなことされても困ります」

「なぜです?」

 と、ダーウィック教授が珍しくハッとした表情で問いかけた。

「これは…… 私が、ロロカカ様が後回しにされたことで、私が憤っているだけのことなので」

 ミアの答えにダーウィック教授はゆっくりとうなずいた。

「なるほどなるほど。その神の御心はわからないと?」

「はい」

 とミアは力づよく返事をした。

「ですが、その神が命じればあなたはどんな神にも牙を向くのでしょう?」

「もちろんです。でも、ロロカカ様はお優しい女神様なのでそのような些細なことは気にもしていないでしょうけども」

 ミアのその回答にダーウィック教授は少し興味深そうに眼を細くして、その思考を巡らせた。

 もしこの娘に、そのロロカカ神がロロカカ神自身を殺せと命じたらどういう反応をするか、反応を見たいものだ、と。

 だがダーウィック教授が今その質問をすることはない。ダーウィック教授の中で生まれたより強い欲望が勝ったからだ。

「ふむ…… まあ、いいでしょう。話を戻しましょうか。少々脱線しすぎました。上位種の話でしたね。かなり前の話になってしまいますが、スティフィ君が答えたのが正解です。魔力を拝借する際、借りる上位存在によって魔力の性質はかなり異なります。私としては拝借や借りるという表現は正しくはないと思っていますねぇ。魔力は、やはり分け与えられた、享け賜わるものだと、私は考えています。まあ、これは私の私見なのであまり気にしなくて良いですが」

 ダーウィック教授の授業はこの後、普段通りに続く。

 いつもと違うことと言えば、ダーウィック教授の真ん前で講義を受ける羽目になったスティフィの精神的消耗が激しいことくらいか。


「えっと…… ミアでいいのよね? お昼は食べないの?」

 ミアを覗き込むように、少し疲れた顔をしたスティフィがミアに声をかけた。

 一応講義の後、ダーウィック教授に、ミアの崇めるロロカカ神の祟りでは人死にはでない、と聞かされていたし、もし祟られてもダーウィック教授がその祟りを取り除いてくれるとも約束してもらえている。

 それに今まで見向きもしてもらえなかった大神官様に、頼まれ命令され大役を任されたのだ、スティフィは珍しく浮かれていたと言ってもいいかもしれない。

 言ってしまえば、気分が高揚しかなり舞い上がってすらいた。

 スティフィはその使命をさっそくこなそうとし、講義の後もミアの後についてきていた。

「スティフィさん…… でしたっけ。なんで儀式室にまでついてくるんですか? あとお昼はいろんな意味で食べている余裕がないんです」

 ミアは少し迷惑そうに答えた。

 ミアには昼休みも休んでいる暇はない。魔力の水薬を作る準備をしなければならない。

 次の授業は生活をする上でも色々と便利な精霊魔術の講義だ。必修科目ではないがミアにとっては出たい講義だ。

 質の良い講義を受けるため。その席を取るためにも早く準備を終わらせないといけない。

 次の講義は、ダーウィック教授の講義のように、前の席が空いていることもない上に、普通科、騎士隊科、巫女科、魔女科、すべての科の生徒が受けれる講義だ。

 それだけに前のほうの席を確保するのも大変である。

「スティフィでいいわよ、私達、親友だもの」

「親友って…… 人に言われてなるものなのですか?」

 と、言いつつも同世代の友達が初めてのミアは少しうれしそうだ。

 どんな会話の内容であれ、話し相手が居ること自体がミアにとっては嬉しいことでもある。

「んー、でもミアも、えっと…… ロロカカ様? ロロカカ神でしたっけ? に、言われれば私と親友になるでしょう? それと同じようなものよ」

「それはそうですが。ロロカカ様は神様ですが、ダーウィック教授は神様ではないのですよ?」

 と、まるで理解できないという表情をミアは浮かべた。

 その表情を見て、スティフィは少しほくそ笑んだ。

「私にとっては似たようなものなのよ。私はデミアス教の信徒だけど、神の声なんて聞けたことなんてないもの。もちろん崇拝しているし、そのお声を聴き、命を受ければ命だって捨てる覚悟は私にだってあるわよ。ただ、そうね、遠すぎて実感がないっていうのかしらね、そう言った意味ではダーウィック大神官様は、あこがれの人と言うか、目標というか、そんな感じなのよ。恐ろしくはあるけれど……」

「むぅ…… 百歩譲って友達になってくれるのは嬉しいですか、デミアス教に入信したり信仰する神を変えたりはしませんよ?」

 真剣な表情を見せミアはスティフィの眼をしっかり見ながら答えた。

 その視線を真っ向から受けて、スティフィは笑顔を作った。わかりやすい作り笑顔だったが。

「それはそう簡単に行かないことくらい私にだって理解できてるわよ。でも、人の考えなんて移ろいやすいでしょう? いくらだって入り込むすきはあるんだから、さ? これは私に対する試練みたいなものかしらね? ミアはミアで私のことを気にすることはないわよ? それに神に対する姿勢をミアから学べとも言われてるのよ」

「ではロロカカ様の良さをあなたに説いてあげますよ」

 スティフィは親友にはなりたいと思ってはいるが、祟り神にはなるべく関わりたくないとばかりに話をはぐらかした。

「あなたじゃなくて、スティフィよ。親友でしょう? 名前で呼んでよ」

「ス…… スティフィ……」

 と、ミアは少し照れ臭そうにスティフィの名を呼んだ。

「なぁに?」

 と、してやったりと笑いながらスティフィは答えた。人付き合いに慣れていないミアは意外と簡単に落ちるかもしれない、そう考えもした。

 が、

「とりあえず、今は邪魔なので出ていってくれますか? あんまりゆっくりしてられる時間ないんです。これから陣をかいて炉に火を入れないといけませんし。あっ、後、蝋石を持ってませんか?」

 と、遠慮なく言われ、その考えが間違っていたことを認識した。

「あ、あなた割としたたかねぇ…… いえ、こういう子だからこそ、大神官様はお気に召したのですね。己の欲望に純粋にして忠実ですものね…… え、ええ、いいわよ、蝋石くらい貸してあげるわよ。でも貸しよ? わかっている?」

 そう言うスティフィにミアは、

「親友なのでしょう、そんなこと気にしないでください」

 と、満面の作り笑顔で答えた。

「それ、あなたが言う言葉じゃないわよね…… まあ、いいけど。はい、蝋石よ。それ返さなくていいわよ、あげるから」

 まだ使っていない新品の蝋石をミアに放って渡した。

 新品を渡したのは、祟り神に関する儀式に、自分が使用した蝋石を渡したくなかったからだ。親友にならなければならないが、その接点は、特に儀式などの神が関わるような接点は少ないに越したことはない。

 本人は違うと言ってはいるが、この魔術学院ではミアが信仰しているロロカカ神は、祟り神として扱われている。その神との接点はできる限り避けるべきだ。

「あ、ありがとうございます」

「その代わり魔法陣を書くんでしょう? 見せてよ。私、魔法陣書くの苦手でさぁ、参考にしたいのよね」

 これはスティフィの本心だ。フーベルト教授がミアの書く魔法陣は目を見張るものがあると褒めていたのを知っているからだ。

 魔法陣は魔術的儀式を行う上でもっとも一般的な方法だ。基礎中の基礎だ。

 神の信徒として、さらに魔術師として生きていく上で重要な要素だ。

 それに教授が褒めるほどの陣だ、何かしら参考になるかもしれないと考えたからだ。

 そこに祟り神の儀式に立ち会うという危険性を考慮できていないということもあるが、神の力を借りる前の、ただ陣を書いているのを見学するくらいならさすがに平気だろうという目算もあった。

「そう言うことならいいですが、邪魔しないでくださいね」

 通称、魔女釜と言われる儀式用の竈は、通常の、料理用の物とは少し作りが違う。

 基本的な構造はただの大きな竈のそれなのだが、竈の上部、鍋や釜を置く場所以外には、一枚岩で綺麗に加工された大きな敷石とも言うべきものが竈の上部を覆うように敷かれている。

 陣板、石陣板と言われる板で魔法陣を書くための物だ。

 まじないで断熱処理されてはいるが、それなりに熱くなりはするので火傷する者が絶たない物でもある。

 なにせかなり広く作られているので、釜の中を見ようとしたりかき混ぜようとしたりすると、うっかり触ってしまうのだ。

 何かと欠陥だらけの設備ではある。それらの理由からも魔女釜と言われ始めた理由でもある。

 また陣板はその名の通り陣を書く場所であり、この竈を使い造られる物を魔術的に強化し、効率を上げるためにあるものだ。

 もちろん、そこに書く陣は炉に火を入れる前に書かないといけない。

 炉に火を入れてしまったら発せられる熱で陣を書くことなど不可能だ。

 だが、陣を書くより前にすることがある。

 竈に大きな釜を置く作業だ。

 金属製の黒く重く大きな釜。これを竈に設置することがまず一苦労だ。

 ミアは洗われて干されている釜を一つ抱えてる。

 両手で持ってもミアの手がギリギリ回らないほどには大きい。

 それほどの釜だ。重量もかなりのものがある。

「ふんぬぅ!!!」

 と奇妙な掛け声を上げてミアは釜を持ち上げ運ぶ。その様子をスティフィはただ見ている。手伝うつもりはないようだ。ただまじまじとミアの様子を観察している。

 よたよたと重い鍋を運び、ゆっくりと丁寧に竈の上に置く。

 もし乱雑に置いて、竈にひびでも入ってしまえば、ミアには弁償する余裕があるはずがない。そこは細心の注意を払っている。

 専用の竈に専用の釜だ。ぴったりと隙間なく収まる。

 そうしたら釜の中に木製の底板を設置し、その上に下処理をしていた薬草を、レーネ草、トムハの葉、ラダナ草、その他の薬草の順で丁寧に敷き詰めていく。

 そのほとんどがラダナ草だが、釜の三割ほどが埋まる量だ。毎日これだけの量を自力で、しかも、午前の授業が始まる前に集めなければならない。

 それは言うまでもなく重労働だ。

 薬草を入れ終わったら、今度は水を丁寧に水瓶から桶を使い移していく。何度も水を運び釜を満たしていく。

 なみなみと釜に水を注いだら、釜に蓋をする。

 そして竈に薪を入れていく。火はもちろんまだつけない。先に陣を書かなければならない。

 ミアはまず自分の持っていた小さくなった蝋石を使い陣を書き始めた。

 スティフィはその段階になって初めて動き、陣が書かれていく様を間近で観察し始めた。

 スティフィの知らない文字だ。神与文字であることは分かるが、どういった意味の文字なのかはスティフィにはわからない。

 神与文字は神から与えられた文字の総称であり、特定の文字を示すものではない。神の数だけある文字なのでスティフィが読めないのは無理もないことだ。

 象形文字のような絵と記号のような文字は、どこか美しささえ感じられる。

 それが下書きもなしに、綺麗に均等に配置され釜を中心に文字で円が描かれていく。

 スティフィは素直に感嘆した。

 凄い技術だ。知らない、しかも、祟り神ではあるが、やはりその巫女ともなると、ただの信徒である自分とは違うのだと実感せざる得ない、それほどの技術だ。

 だがミアが陣を書く速度が急に落ちた。

 蝋石が小さくなりすぎて上手く書けないようだ。

「はぁ、蝋石くらいいくらでもあげるから、私がさっきあげたのを使いなさいよ」

「え? いくらでもですか? いいんですか?」

 と嬉しそうにミアが答えた。ミアの頭の中は蝋石代が浮くことでいっぱいだった。

「こんなに素晴らしいものを見せてもらったお礼、と言うやつね。やっぱり神に選ばれる人は違うのね」

 欲望に忠実なデミアス教徒だからこそ、スティフィは素直に褒め称えた。

「私もはじめっから書けたわけじゃないですよ。もう十年くらいは書いてますからね。

 とは言ってもこの陣は魔力の水薬用の物なので、捧げ物をする陣とは少し違ってはいますけどね。でも基本は一緒ですので」

 十年と言われ、スティフィはふと考えた。

 この娘、何歳なの、と。

 ミアは十代後半の年齢なのだが、スティフィには十代前半に見えていた。

 この世界で老いは絶対ではない。そもそも人の寿命すらまだ神によって定められていない。

 なので外見で年齢を図る意味をなさないが、少なくとも魔術学院に通っている生徒が老いを止められるようなことはない。

 つまりはミアは見た目通りの年齢なのは間違いないだろう。

 それを考えると、スティフィに疑問が湧き出る。

「十年前って、三歳とか?」

 スティフィがそう言うと、驚いた表情をしたミアが振り向いた。

「え? いや、私は正確な年齢はわかりませんが、多分、私は五、六歳にはなっていたはずですか……」

「じゃあ、私と同じくらいなのか、そのなりで」

 と、そう言ってスティフィは鼻で笑った。

「むっ、もしかして馬鹿にしています?」

「いやぁ、別にぃ?」

 と言いつつもスティフィは嫌な笑みを浮かべた。

「じゃ、邪魔するなら……」

 そう言って怒るミアを見て、案外普通に友達になれるのでは、とスティフィは思った。

 祟り神の巫女なのかもしれないが、ミアは巫女であり祟り神自体ではない。恐らくミアは狂ってはいるが、悪い人間じゃない。それと同時に、先ほどの講義でのダーウィック教授の押し問答から推測するに、必ずしも善良な人間とも言い切れない。

 なら、デミアス教の信徒である自分とも、意外と馬が合うかもしれない。そんなことをスティフィは考えていた。

「怒るなって、いや、素直に感心しているんだよ、その魔法陣は素晴らしい物だって」

「そ、そうですか、それはフーベルト教授にも言われました」

「らしいな。私もそれで興味を持ってたんだ。あの神様おたくが言うんなら相当の物だよ」

「神様おたくって、フーベルト教授はいい人ですよ!! なんたってロロカカ様の話を真剣に聞いてくれるんですから!」

 嬉しそうにミアは答えた。

 ロロカカ神の話ができてミアは満足なのだろう。

 おっかなびっくりミアの話を聞いているフーベルト教授がスティフィには簡単に想像できた。

「祟り神の事まで興味津々なのか、あいつも十分変わり者だね」

 と、せせら笑うようにスティフィは言った。

「ロロカカ様は祟り神じゃありません!!」

 ミアはそう憤り言い返した。

 ミアの怒りが本物であることはすぐに感じ取れた。

 ミアの前で神様の話をすることはなるべく避けるべきだったとスティフィは反省した。

 違う神を信仰する者同士なのだ。どうしたって軋轢は生まれる。

「そう気にするもんじゃないよ、所詮祟り神だ、悪神だ、なんだって区分は人間が勝手に言ってるに過ぎないんだから。そもそも日曜種だの月曜種だのだって、言っているのは人間だけだって大神官様も言ってたろ?」

「確かにそう言っていましたね」

 何度も頷きながらミアは答えた。

 そういえばフーベルト教授にも同じようなことを言われたこともミアは思い出していた。

 ロロカカ神を祟り神だと言われるのは心外だが、あまり気にすることではないのかもしれない。

 所詮はロロカカ様の偉大さを知らない人間が言っている戯言でしかないのだから。

 が、それはそれとして、だ。

「ですが、ロロカカ様は祟り神じゃないですよ、次言ったら怒りますからね?」

 とミアは真顔でスティフィに言った。

 その真剣なまなざしには確かな狂気が宿っているのをスティフィは確信した。

 やっぱり神様の話はミアの前ではしないほうが良さそうだ。

 ただ今は少しミアの機嫌を取っておいた方がいいだろうか。

「わ、わかったよ。たしか、えっと、山の女神様だっけ? お優しいんだよね?」

「そうです」

 とミアは怒りを飲み込みながらうなずいた。

「わかったわかった、ほら、時間ないんだろ? 私があげた新しい蝋石で魔法陣の続きを書きなよ」

 スティフィはもう少しミアをからかいたくもあったが、自分の使命の方を優先させた。

 自分の欲望より、力ある者の欲望を優先させる。デミアス教の教えとしても間違っていない。

 スティフィはミアの友人となり、デミアス教に勧誘しなければならないのだから。

「あっ、スティフィは私の親友なのですよね?」

 不意にミアがなんかを思いついたようにスティフィに語り掛けてきた。

「あ? うん? そ、そうだけど?」

 曖昧な返事をしつつ、なにか嫌な気がする。スティフィはそう直感した。

「なら次の講義、精霊魔術のです。一番前の席取っといてくれませんか? 今ならまだ誰もいないはずですし」

「いや、私はミアのぱしりになった覚えはないんだけど…… ね?」

 スティフィの返事は、陣を書くことに夢中になっているミアには届いてなかった。

 スティフィはミアの信じる神を祟り神と言ってしまったのを流してくれるならと、その要求を呑むしかなかった。

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