第11話 愛のイギリス英語
私は戸惑いながらも胸の高まりを抑えて、彼女の部屋へ向かった。ガラステーブルの上には英語リスニングのテキストとCD、そして小さなCDプレーヤーが置かれていた。彼女は言った。
「このCDに録音されているイギリス英語の聞き取りがどうしてもできないんです。アメリカ英語とは違う語彙もあって、それも理解できないし、聞き取れないんです。」
「で、解答どこなの?」
「模範解答は、リスニングの先生が授業の後でコピーして配ってくれるんですよ。私たちはCDを何回も聴いて、解答用紙に答えを書いていかないといけないんです。」
「それはちょっときついなぁ。」
「そうなんですよ。そして解答を英語で言わないといけなくって。うちのクラスって英文科でしょ。クラスの半分ぐらいは留学経験があって、中には帰国子女も数人いるの。ロンドンで6年間家族と一緒に住んでた子とか、ニューヨークで生まれ育った子なんかもいて。
そういう人たちはリスニングの解答だけじゃなく、スピーキングのクラスでもスーパースターなんですよ。ネイティブ顔負けの発音でまくしたてちゃって。もうスピーチの課題の時なんか、どこの国にいるのかって思うくらいで。私の番が来るともういっぱいいっぱいになっちゃって。緊張して恥ずかしくて喉から単語が出てこないんです。」
「そういう時、帰国子女たちが軽蔑の目で見るとか、そういうの?」
「そういうんじゃないんですけど、みんなに見られていて、私とかあと数人の日本語チックな発音しかできない子たちはもう恥ずかしくって、言葉がつっかえて目の前が真っ暗になるっていうか。
私、高校ん時はクラスでも英語よくできて、外国文化の雰囲気に憧れたからこの大学の英文科に入ったのに。もう毎日の授業がイヤでイヤで、自分がもうどんどん小さくなっていくようで。今じゃもう大学やめたくってやめたくて・・・・。」
ヒキマユはガラステーブルに突っ伏し、両腕で頭を抱えて泣き出した。彼女の背中は小刻みに震え、そして嗚咽が続いていた。私は傍にあったティッシュを何枚か取って彼女のそばに置いた。
「これで拭きなよ。留学経験ありのオレがさ、どう言ったらいいかわかんないけどさぁ、君って映画よく見るの?」
私がそう言うと彼女は顔を上げ、ハンカチで目を押さえながらうなずいた。
「英国王のスピーチ、っていう映画知ってる?」
「聞いたことあるけど、見たことはありません。」
やっとの思いで彼女は鼻声で答えた。
「ちょっとネタバレになっちゃうけどさ、この映画ってイギリス英語だし、アプリとかで見るといいよ。」
彼女はゆっくりとうなずいた。
「時代は第二次世界大戦前のイギリスなんだ。当時の皇太子、ジョージ6世は吃音がひどくてさ、それで国王に即位してからもラジオの前でスピーチがどうしてもうまくいかないんだ。それで言語矯正をする専門家のローグっていう人を訪ねて行くんだよ。
ローグさんは国王といえども、ひとりの人間として暖かくも厳しい指導をするんだ。ジョージ6世はローグさんに最初は反発するんだけれど、だんだん心を開いていくんだ。ローグさんは国王に自信を持つように諭すんだ。流暢に話さなくても、自分の言葉を相手の心に届けるようにってね。
やがてナチスがイギリスに宣戦した時、人々が求めていたのは国王の強い言葉だった。そしてラジオのマイクロフォンの前に立ったとき、国王の傍でローグさんは静かにいうんだ.
「”Just say it to me.” (私に話すように話してごらんなさい。)ってね。」
君はスピーチやリスニングの解答を話すときに、留学した子や帰国子女みたいに話す必要はないんだよ。ただ一生懸命に自分の言葉で話したら、まともな人なら尊敬してくれるとオレは思うんだ。だから、君がその自信を持てるよう指導してあげるつもりだ。それでいいかい。」
ヒキマユの顔がほころんだ。そして嬉しいのか彼女はこちらを見ながらまたボロボロ涙を溢して泣き始めた。
「ありがとう。本当にありがとう、コーサカさん。あたし一生懸命頑張る。だから見捨てないでずっとずっと指導してください。お願いします。」
彼女は頭を下げた。ガラステーブルに涙がいくつも落ちた。
「ほらほら、きれいなお化粧が流れちゃったじゃないか。洗面所で顔を洗ってきなよ。すっぴんのマユさんも綺麗だよ、きっと。」
彼女は頷いて洗面所へ行った。私はCDをかけてみた。第一問はこのように流れていた。
Hand me your rubber, please. I can’t rub it out with mine.
(あなたの消しゴムを貸して。 私のじゃ、これ消えないよ。)
イギリス英語だった。彼女が戻ってきた時、もう一度CDをかけて解答を尋ねた。
「わかんない。」と彼女は言った。
「このrubberっていうのさ、イギリス英語じゃ消しゴムっていう意味なんだよ。アメリカ英語じゃ、ちょっとヤバい意味になるんだぜ。なんだと思う。オレとコータがいっぱい持ってるゴム製品。」
「あ、わかった。」ヒキマユが笑顔になった。
「エッチの時に使うあれでしょ?」
「やっぱりマユさんは笑顔が似合ってるよ。」
「うん、コーサカさんは1人エッチの時も使うって、コータが言ってたよ。」
「あのヤロー、そんなことまで言いやがって。」
ふたりで大声で笑った。
「で、これはね、消しゴムだから、じゃあもう一回聞いて解答を書いてミみようか。」
基礎的な学力がある彼女はすぐに正解をノートに書いた。
「意味わかる?」
「うん、消しゴムで消えないから、あなたの貸して、って言ってるんじゃないかな?」
「そう、正解だよ。」
すると何を思ったか、彼女は解答の下に英文を書いた。
I can’t rub my love out.
(私は愛を消せない。)
私はその下にもう一文書き足した。
Neither do I.
(オレも。)
沈黙が流れ、彼女は私の隣に座り、私の腕にもたれかかって目を閉じた。私は彼女の体を横からぎゅっと抱きしめた。
時が流れた。
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます