「 Cheating On Loveー出逢いはカンニング」
山谷灘尾
第1話 カンニングの犯人
それは2年生になって、7月のある日の事だった。私は前期試験を受けるため、大講義室に入って、階段教室にずらっと並んだ長机のやや前方左側の椅子に座った。言語学を選択している学生はたくさんいたが、教室があまりにも広いので私の横には誰もいなかった。机の端には大きな窓から燦々と初夏の太陽が降り注いでいた。私の斜め前後には、学生がまばらに座っていて、精神的にはゆとりを感じていた。
私はソシュールの「一般言語学講義とその解说(日本语版)」を取り出し、先辈からの情报をもとに出题されそうな箇所を二重鉤括弧で囲った。私はいつもそうしている。マーカーで線を引くとテキストが汚く汚されたようで、さりとて何もしないと不安感が募る。特に重要な用語だけはテキストの上に小さくペンで書いたり、ペンで右側に二重棒線を引いたりしていた。
このテストは資料持ち込みが許されていた。教授は応用問題を出すということを先輩から聞いていたので、資料を持ち込みでも油断はできない。予鈴がなると、前方から名札を下げた数人の試験管が問題解答用紙を配布し始めた。私は、スマホをオフにして片付け、机の資料をまとめて片付けた。
本鈴が鳴って鉛筆を持ち、名前と学籍番号を解答用紙の真上に書くと、学生証を机に平行に置いた。「しめた!」問題は次のようなものだった。
「ソシュールの言語学における論をもとに、日本語の特質を簡潔に解説せよ。他の言語学者の論を交えても良い。」
ソシュールは言語における一つ一つの言葉を記号(シーニュ)と呼び、それは例えば「山」というあるものを意味する音の塊(シニフィアン)と意味される土地の隆起状態(シニフィエ)という2つの役割に分けられることを述べている。しかし、ソシュールの言う記号は、文化によってかなりの隔たりがあるのだ。
例えば、日本語においては、天候や季節の移ろいを表す言葉は、英語より多くの「記号」で表現される。例えば「雨」と言う言葉にも「五月雨」、「みぞれ」、「小糠雨」、「土砂降り」など枚挙にいとまがない。これを英語で表現すると一語ではなく、複数の単語を不自然に組み合わせなければならない。組み合わせたとしても隔靴掻痒の感があり、日本語のようにぴったりと表現できるような「シニフィエ」には辿り着けないのだ。
テキストを繰りながら解説ページの該当箇所に二重鉤括弧を付けていく。しかし、解答を書いているときに、なぜか後の受験生に覗かれているような気配を度々感じるようになった。視界の切れるあたりで、人の動く気配がする。私はちらっと斜め後ろを見た。すぐ私の斜め後ろに、ひとりの女子学生が問題用紙に目を落としていた。私と同じように、参照書籍を机の上に出している。しかし、彼女の鉛筆はほとんど動きを見せていない。
私は再度前を向いて、2問目にとりかかった。2問目も楽勝だと思えたので、私はリラックスしながらも軽躁な緊張感で満たされながら、ロラン・バルトの「エクリチュール」の本質について述べていた。その時だった。斜め後ろの学生が鉛筆を机の前に落とした音が聞こえた。彼女は落ちた先を追跡しようとしているのか、半ば立ち上がった。その視線の先には、私の解答用紙があった。思わず、私は解答用紙を自分の手元に引き寄せ、彼女に見えないようにする。彼女は危険を感じたのか、机の下に潜って足元にある鉛筆を拾い上げようとしていた。
その後5分経って、私が2問目の結論をまとめようとしていた時だった。二人の試験官が私の方へ向かって足早に近づいてきた。一体何事かと思っていると、二人は私の前を通り過ぎ彼女の前に立って何かを囁いている。そして一人の試験官は私の真横に立って、小さな紙片を広げて読み始めた。それは明らかにカンニングペーパーだった。彼女は試験の解答作業を終えるように促され、もう一人の試験官と共に教室を出て行った。
「やっぱりそうか、バカなやつめ。」
私は心の中で嘲った。3問目も楽勝に解答し終えて、見直しをしているところでチャイムが鳴った。試験官五人が列に別れて解答用紙の回収にかかる。最初に彼女のカンニングを見つけた試験官が事務室から戻ってきていて、もうひとりと一緒に私の席にやってきた。
「国際関係学部、2年生、コウサカシンタロウさんですね。」
銀縁眼鏡をかけた大柄で白シャツを着た試験官が尋ねた。
「はい、そうです。」
「あなたの解答行為を後ろの学生がカンニングしていましたので、少し事務室まで来てもらっていいですか?」
「はい、それはいいですけど・・・・」
「ご心配なく。あなたは被害者なので一切この試験での不利になることはありません。そんなに時間も取りませんので、事務室にある教務課へこの後すぐに来てください。」
「あ、はい、いいっすよ。」
私はすぐに荷物をまとめると校舎入り口にある大きな事務室のカウンターに着いた。そして受付にいた女性職員に教務課の場所を尋ねた。すると奥から先程の大柄な試験官が右手を挙げているのに気が付いた。私は足早に事務室の中を通り抜け、奥にある応接室に入り、隅に荷物を置いた。
カンニングした学生はひとりパイプ椅子に項垂れて座っていた。顔を伏せ、緊張しているのか体を硬直させて足をピッタリ揃えている。大柄な試験官は私に説明を始めた。
「彼女があなたの持ち込み書籍を盗み見て、同じ箇所にマーキングしていたようです。少しあなたの持ち込み書籍を見せていただいていいですか?」
「あ、はい、いいっすよ。」
私は肩掛けバッグから書籍を取り出して彼に手渡した。彼女もトートバッグから同じ書籍を取り出すと、もう一人の小太りの試験官と照合作業をはじめた。
「ほら、このページ、この箇所。」
「そしてこれもね、一致している。」
彼ら二人はページの中を指で押さえて確認し続ける。銀縁眼鏡の試験官が2冊の本を机に広げて私に説明した。
「ほら、コウサカさんのこの箇所とこの箇所、こちらのページもほら、一致してますよね。しかも二重鉤括弧までね。」
私は彼女のカンニングについて大凡の説明を受けるとその試験官に尋ねた。
「カンニングするとどういう処置になるのですか?」
「該当科目は0点になります。既に彼女にはお知らせしていますよ。詳しくは本学のWEBページの試験要項で確認をしてください。それから再確認ですけど、当然ですがこの件でコウサカさんには何も不利にはなりませんのでご安心ください。むしろ今回のことで動揺されて、明日以降の試験日程に影響があるといけませんので、そちらを我々は危惧しているのですが。」
「あ、 オレっすか? 大丈夫ですよ。」
私は少し微笑んで彼らを安心させるように答えた。
「それとね、今回のことで彼女から謝罪したいという旨の意思も確認できましたので、これからそちらを済ませて終わります。さあ、ではどうぞ。」
彼女は戸惑ったように立ち上がり私の方をしっかりと見た。
「英文科2年生、ヒキ、マユです。今回のことでは大変ご迷惑とご心配をおかけしました。」
高めだけどしっかりした滑舌。
「か、かわゆい。顔、ちっちゃ」
ナチュラルウエーブをかけたセミロングの髪。両耳には細い二等辺三角形のピアスが揺れてキラキラしている。少しぽっちゃりとした頬、涙袋が厚めの大きな瞳には強めだけれど少し暈されたブラウン系のアイラインが入っている。小動物を思わせる小さな丸ぽちゃの鼻、少し突き出た小さな唇は少し分厚めだ。それを引き立てるようにキャンディピンクのリップが塗られていて艶かしくそそられる。
少しキツめの白Tは彼女が豊満な胸を持っていることを暗示しているが、それをあざとく隠すように長めの青ストライプのシャツが前で結ばれて背中に垂れている。オフホワイトのハーフパンツの下から細めの両脚がすらっと伸びて、その先に履いているオレンジの靴下と白いスニーカーがセットになってオトコの劣情をさらに掻き立てる。
「この度はご迷惑をおかけして誠に申し訳ありません、もう二度とこのようなことがないよう、一生懸命勉強しますので、どうかこんな悪い私を許してください。」
彼女は深呼吸すると深々と頭を下げてそのまま動こうとはしなかった。
「こんな悪い私。」
私は自分の閉ざされた重い扉が一本の小さな鍵で突然開いたような重い音を心に感じた。そしてその隙間から初夏の乾いた風が堰を切ったように吹き込んできた。
「クーーッ、ヒキマユ、カワユ・・・・・。」
つづく
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