アダマスの娘

甘党の翁

開幕 娘

 この気持ちをどう例えようか。

 揺れる彼に背負われた私は、ただ自分の気持ちを覆い隠すのに必死だった。

 心臓の早鐘が止まらない。死を前にして現れた彼はまさしく反則級である。これじゃまるでいつか読んだ英雄譚のように。


 今私の頬は…何色に染まっているのだろうか。

 皆、想像してみてほしい。舞台は迷宮、即ちダンジョンだ。数多の富、資源、財宝が眠るとされるロマンの源泉と言われる場所。

 そして今現在、いやさっきまでか。私はここで死を覚悟していた。

 ここはとても暗い。モンスターどもは勿論の事、おかげさまで体調はすこぶる悪い。彼曰く神秘アベルが濃すぎるとかで上位冒険者でも体調が悪くなるほどの環境らしいが…。私には何のことだかさっぱり分からない。

 当然の如く、中位冒険者程度の私では環境に適応できるはずもなく。さっきから吐き気が止まらない。この体調で最善の動きをしろと言われても、到底不可能だ。しかしそんな訴えも虚しく、モンスター共は容赦なく襲いくる。

 ここは第七階層。私の魔法では歯が立たないというのはさっきので実証済みだ。

 だからもう一度言おう。私はあの時、死を覚悟した。足はぐちゃぐちゃに折られ、あばら骨が肺に刺さって呼吸すらも碌にできず、嗚咽と共に血を吐き散らかした。でも奴らは狡猾に獲物を逃すまいと追い詰め、無限に湧いてくる。それはこの過酷な環境故だろうか…。いやそんなことはどうでもいい。

 確かなことは、私がまだ生きているということだ。

 魔物を前に現れた彼は間違いなく希望そのものだった。

 優柔不断で第一印象が残念な奴だった彼が…目の前の絶望を焼き払った。私、リズというちっぽけな冒険者が目に焼き付けた彼は、まさしく『英雄ヒーロー』に違いなかった。


 そして…なんやかんやで今に至る。

 私は言い訳ではなく、この気持ちを根拠づける理由を探すのに必死だった。

 心臓の鼓動が速くなるのは緊張から来るものなのだと。さっきから自分に言い聞かせているのに…この熱が冷めることはない。

 こんな奴に私が……いやそれは無い。それは断じてない! そうこれは、いつかの恋愛小説で見た吊り橋効果とかいうやつだ。そりゃ恋なんて無縁の田舎娘でしたよ!


 でもどんな言葉で縫い繕っても、この体は言うことを聞いてくれないらしい。

 私はこの人を認めてしまったのだと思う。

 要するに私は、彼に『憧れ』を見てしまったのだ。


「ねえ、アゼル。もう一度聞いていい?」

「ん?」


 不意に合ってしまったその目に、すぐ私は顔をそらした。思考が儘ならない上、今この状況でそのエルフ似の顔はやはり販促もいいところだろう。

 先ほどから身体の熱は抜けないが、それでも言わねばと、私は拳に力を入れる。

 素直になろうとそう心に決め、ありのままに従うことにした。

 言いたいことをシンプルな言葉に変えて、私はアゼルに問う。


「あなたは一体何?」


 彼は少し微笑んだ。やはり返ってきた答えは予想通りのものだった。


「僕はリズの雇われ鍛冶師さ。」


 やはりアゼルはそう言ってはぐらかした。

 でも嫌な気分じゃない。訪れた互いの沈黙が何故か心地いいとまで錯覚してしまう。

 おぶさる大きな背中から伝う熱は、ここが危険な迷宮であることを忘れて、思考を溶かしてゆく。まるで、父の背中に揺られたあの時のような安堵を、私は思い出しながら。


「あのね。リズ。」

「…? どうしたの?」


 今度はこっちの番だと言わんばかりに、彼はわざとらしく枕詞を添えて話を切り出す。

 おんぶから落ちそうな私の身体を上へはね上げ、一度止めていた足をまた進める。

 ……沈黙から何歩進んだだろうか。

 告白する前のような、緊張した時間が流れた。まるで言葉を選んでいるかのようにすら思える、そんな短い時間だ。

 だがその背中で揺られるにつれて、言葉の続きなどどうでも良くなっていく自分がいる。

 なぜなら、こんなにもアゼルの背中は温かいのだから。

 

「……」


 安堵のあまり、アゼルの背中に心も体も全て委ねてしまったその時だった。

 私はアゼルが心の中で笑ったような……そんな気がした。


「ねえリズ。」

「…何?」


 アゼルは歩きながら、此方に顔を向けることなくこう言った。


「僕の娘になりなよ。」


 この瞬間、私の数奇な物語が始まった。

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