第2話 朧光神社

 拓海は朧月の間を出て、月華荘を後にした。

一歩外に出るとそこには爽やかな風が包み込んでいた。彼は深呼吸をしながら、目指す場所である朧光神社へと向かうため、足早に歩き出す。その道中、拓海は周囲の風景を楽しんでいた。日差しの中で風に揺れる木々や、鳥のさえずりが心地よく響いてきた。

青々とした草原や、遠くに連なる山々が、彼に自然の美しさを感じさせてくれる。

しかし彼は、その道中で不意に街中で歩く人達を見て立ち止まる。


 ───この時期はゴールデンウィークの真っ最中。


 その筈なのに、どういう訳か自分の様な観光客の姿はまばらで、その街中を往来する人達の多くは地元の者と思われる人々が多く行き来しているのが見えていた。

『やっぱり、昨日の土砂崩れの影響で観光客が減ったのかな。』と拓海はその街中を見ながら心の中で呟いた。拓海は自身の手に持った手帳に、今の街の様子を文字として書き記しながら次の目的である神社に向かって足を進めていく。

 やがて、彼の前には朧光神社の小さな参道が現れる。

参道の入り口には朧光神社の石造りの鳥居がそびえ立っていた。鳥居の向こうには、静かで穏やかな雰囲気が広がっているように感じられる。拓海はごくりと生唾を飲み、緊張の面持ちで鳥居をくぐり、参道を進んでいく。参道の両脇には緑豊かな木々が立ち並び、時折風に揺れては小さな葉音を奏でていた。

「思ったよりも、かなり良い神社だな。なんと言うか、此処は凄く心が落ち着くのを感じる。」

まるで街の中からその一部分だけを切り離したかのような穏やかで澄み渡る空気が辺りいっぱいに広がっていくのを、拓海はその肌で直接感じていた。


 しばらく歩くと、拓海の目の前に朧光神社が姿を現した。朧光神社には小さな社殿が静かに佇んでおり、境内には石畳が敷かれていた。社殿の前には参拝客が少なく、静かな雰囲気が漂っている。

拓海は一歩踏み入れると、足元の石畳が心地よく感じられた。彼は社殿に近づき、手を合わせて一礼した。

『朧光神社、初めまして。この旅の安全と、新たなる創作の力をいただけるよう、お願いします。』と心の中でそう祈りながら、拓海は周囲を静かに見渡した。参拝客たちが手を合わせ、祈りを捧げる様子が微かに聞こえる。一層心の穏やかを覚えた拓海はゆっくりと社殿の周りを歩き始める。

神社の境内には季節ごとの草花や石灯篭が配置されており、風に揺れる花々の美しさが彼の心を和ませた。

彼はこの美しい情景を小説にしたいと考え、手帳を取り出し、思いついたアイデアや感じた風景をメモしていく。この神社でのひとときが、彼の創作活動に新たなる輝きを与えることを願っていた。


 しばらくの間、思いつくままに手帳にアイデアを書き綴っていた拓海は、ひと段落着いたのかパタンと手帳を閉じて軽く一息吐く。

「ここに寄って良かったな、この調子で次の作品のアイデアがまとまりそうだな。」

「あとは、この温泉街の郷土や伝承について調べようかな。」左手を顎に当て、何処を調べようかと目星をつけながら一人ブツブツと呟く拓海。

その時彼の頭によぎったのは、『社務所に神社の関係者が居ればその伝承について何か知ることが出来るんじゃないか。』彼は居ても立ってもいられず、社務所が無いかと神社の境内を見回した。拓海は社殿の奥に、目的である社務所のような建物が見えたことに気づく。

「お、あったな。少し聞いてみるか。」

拓海は、朧谷温泉街の伝承についての情報を得られないかと希望を抱き、ワクワクしながら社務所に向かって歩き出した。


 拓海が社務所を訪ねると、社務所の前で竹箒を使って掃除をしている若い女性の巫女の姿が目に入った。

彼は周囲を見回しながら、他にも人はいないかと確認するが、社務所の近くにはその女性だけがいるようだった。拓海は少し躊躇ためらいつつも一歩近づき、丁寧に声をかける。

「すみません、少し宜しいでしょうか。」

拓海の声に気づいた若い女性の巫女は、拓海の姿を確認すると竹箒を社務所の傍らに置いて駆け寄った。

「はい、如何なさいましたか?」

「あぁ、お忙しい中すみません。私ちょっとこの朧谷温泉街に観光をしに来たものですが、その……この朧光神社が目に入ってここまで来たのですが、もし宜しかったらこの街や神社に纏わる伝承とかを教えていただけませんか?」

「はい、朧谷温泉街の伝承ですね。それなら、伝承についての詳しい情報をお求めでしたら、私は巫女としての知識をお伝えできますが…もしよろしければ宮司をお呼びしましょうか?」

「では、折角なのでお願いします。宮司さんから神社の歴史や伝承についてお聞きしたいです。」

「分かりました、ではお呼びしますので少々お待ちください。」そう言って、若い女性の巫女は拓海に軽く会釈をし、社務所の中へと入って行く。拓海はその背中を見届けながら、この神社の宮司にどの話を聞こうかと頭の中で考えを巡らせていた。


 若い女性の巫女が宮司を呼びに行き。5分程経った頃、社務所から出てきたのは浅葱色の袴を履いた30代位の宮司だった。

「お待たせしました、この朧谷温泉街の伝承についてお聞きしたかったのですね。」

「はい、わざわざお忙しい中ありがとうございます。どうぞ宜しくお願いします。」

「もしお時間が宜しければ、社務所でお話しませんか?」

「あ、良いんですか?」

「えぇ、うちに収蔵されている文献とかも興味あればと思いましてね。」

「ありがとうございます、是非拝見させていただきます。」

「分かりました、それでは此方へどうぞ。」

宮司は柔らかな笑みを浮かべ、拓海を社務所の中に入るようにと促した。拓海は、先程まで案内してくれた若い女性の巫女を一瞥いちべつし会釈をした。

再び掃除を始めた若い女性の巫女も、にこやかに微笑みながら会釈を返していた。宮司はその二人の様子を確認した後、では参りましょうと声を掛けた。

 宮司と共に拓海は社務所の中に入っていく。静寂が広がり、木の香りが漂う空間に身を置いた。壁には古い絵巻物や掛け軸が掛けられ、その壮麗な装飾に目を奪われた。宮司は丁寧に案内し、古い文献や資料を紹介した。書棚の一角には古文書や地図が並び、拓海は興味津々でそれらを手に取る。紙の質感や文字の風合いに魅了されながら、情報を吸収していく。宮司は微笑みながら拓海を見守り、静かに解説や補足を加える。

知識とアイデアが交わる中、二人は没頭し時間を忘れていく。


 すっかり日も傾いてきた頃、宮司と拓海は突然時間を確認した。壁に掛けられた時計の針は、既17時を回っていた。

「おっと、そろそろ宿に戻らなければ。」

「そうですね、今回はここまでにしましょうか。」

「はい、こんな有意義な時間を過ごせて本当に良かったです。宮司さん、どうもありがとうございました。」

「いえいえ、私も久し振りに楽しめましたよ。」

拓海は満足気に手帳に書き込み、宮司にお礼を伝えた。

宮司もまた、満足気な顔をする拓海を見て嬉しそうに微笑みながら立ち上がる。

「それでは、神社を出るまでお見送りしますよ。」

「そんな、わざわざそこまでして頂かなくても大丈夫ですよ。」

「いえ、これもお客様の為ですから。」

遠慮がちに言った拓海に対し、宮司は突如として神妙な表情を浮かべる。そんな空気に思わず気圧された拓海は、何かありそうだと感じつつも黙るしかなかった。

拓海は先程まで和やかだった筈の空気が、張り詰めていくのを感じた。社務所を出た後は、宮司も拓海も互いに言葉を交わすことも出来ないまま神社を後にした。


  宮司と共に社務所を出た拓海は、参道を通り鳥居を潜る。鳥居を潜り抜けた後、拓海は宮司に向かって会釈をし、宿に戻る為に踵を返した。拓海は宿へと戻るその道中、宮司から聞いた朧谷温泉街の伝承や資料を書き記した手帳を眺める。

「やっぱりあの時の宮司さんの雰囲気、何かありそうだったな。」宮司とのやり取りは、拓海にとって充実した時間を過ごせた事には間違いなかった。

しかしそれと同時に、帰る間際の宮司のあの神妙な表情に対して、何か裏があるのでは無いかと勘繰っていた。拓海は手帳を見つめながらブツブツと小さく呟く。

考え事に対して集中し過ぎるあまり、拓海は自分の前を通る人に気づくことが出来なかった。

 ドンッと強い衝撃が拓海の身体にぶつかる。驚いた拍子に、拓海は思わず顔を上げた。

「っと、すみません。つい余所見をして…」と咄嗟に謝る拓海、しかし自分と衝突したと思われる人物は俯きながらボソボソと呟いてそのまま一瞥もくれずに立ち去っていく。拓海は呆然とした様子でぶつかった相手の背中を見送る。無造作に伸びたボサボサな髪、少し草臥くたびれた甚平のような和装をしており、猫背の覚束無い足取りの姿には妙な違和感を覚えた。

「………何でだろう、さっきまで人の気配なんて一切しなかったような気が。」誰に言うまでもなく、ポツリと一人呟く拓海。


 宿へと戻る道の中、拓海はふと立ち止まって空を見上げた。空は既に薄紫色に染まっており、白い月が東側から昇っているのがその目に映し出される。

チリンチリン、と自転車の鈴の音が聞こえた拓海は、空に向けていた視線を落とし、その音の方向へと顔を向ける。少し離れた先には自転車に乗った制服姿の警察官が拓海を見て立ち止まっていた。

「こんばんは、観光客の方ですか?」

「はい、そうですが………もしかしてこの朧谷温泉街の見回りですか?」

「えぇ、私はこの朧谷温泉街の駐在所にいる警察官です。今の時間は見回りでしてね、遅くなる前に帰るようにとこうして促しているんですよ。」

「そう言えば、朧光神社の宮司さんも似たような事をしてましたが、此処は何かあるんですか?」

「あぁ、まだ何も聞いてませんでしたか。」警官の言葉に、拓海は訳も分からず首を傾げた。警官は周囲を確認するかのように、軽く辺りを見回した。

 そして周囲を確認し終わった警官は、拓海の元へと歩み寄ると拓海に顔を寄せ、小さく囁いた。

「実はですね、この街ではんです。」

「外出禁止………?どうしてそんなピンポイントで、出歩くことを禁止してるんです?」

「まぁ、自分もこの朧谷温泉街に勤務してから大分長いのですが………どうやら、この街には""が出るという噂があるんです。」

「鬼、ですか。」

「えぇ。この時間になると、鬼が街や近隣の山に現れ、夜な夜な彷徨うと言われています。」

『まぁ、所詮これは迷信だと思うんですよね。』と付け加えながら警官は苦笑した。

「本当のところは、安全面の事を考慮した上での話ですからね。最近、不審者の目撃や失踪事件の事もあるので、こんな感じに見回りをしながら声を掛けて回っているだけですからね。」

「貴方も、くれぐれも遅くなる前に宿へお戻りになった方がいいですよ。」それでは、と挨拶をするように帽子を軽く掲げ、警官は再び自転車に跨って漕ぎ出していった。拓海は立ち去っていく警官の姿を見送り、先程言っていた言葉にある『鬼』という言葉に引っ掛かりを覚えながら足早に月華荘へと戻っていった。

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