雨に隔てられて

水神鈴衣菜

 雨の日。あれは、雨の日だった。

 濡れないように濡れないようにと、暑いのに長袖を着込んでのおでかけ。車のシートに深々と腰掛けて、私は外をぼんやり眺めていた。皆色とりどりの傘をさして、灰色の街を彩っている。水色、ピンク、黄色、白、黒。いいなあ、と少し羨ましくなる。私には傘をさして外を歩くなんて芸当、到底できない。目を伏せる。

 車が信号で止まった時、ふと私の向かって右側からスタスタと歩いてくる人が見えた。紺のセーラー服。それはびっしょりと濡れていた。え、と思ってよく見ると、セーラー服の人は傘もささずに平気な顔をして雨の中を突っ切っている。相当慣れている様子だ。私はその人が視界の端から端へ移動するまで、じっと目線で追いかけた。長い黒髪、キリッとした目元、すっと通った鼻。『大和撫子』という言葉がぴったりな、綺麗な人だった。黒髪もびっしょりと濡れて、紺のセーラー服にぴったり張り付いてしまっていたが。


 家に帰ってからも、彼女のことが頭から離れなかった。どんな人なのだろうか、彼女のことを知りたい。どうしてあんなにも、雨に打たれてなお堂々として歩けるのだろうか、と。普通の人であれば目の中に雨が入ってくることを嫌がって、顔をしかめるとか手で目の上を覆うとかするはずだ。彼女はそれすらしていなかった。まるでこうすることに慣れていると、そう言うような毅然とした態度だった。面白い人だと、知りたいと。心からそう思った。


 * * *


 次の日。今日の天気は晴れ。

 私は紺のセーラー服を着て、朝ごはんを食べて、学校へ向かった。歩いて十分程の場所に、私の高校はある。近所だからという理由だけで通っている学校だが、セーラー服には憧れがあった。

「おはよそらちゃん」

「あ、おはよう」

 クラスメイトが挨拶してくれる。朝のこの時間が、私は好きだ。朝の空気は澄んでいて、私の体の調子も良いから。

 自席に座ってぼんやりと廊下を眺めていると、さらっと流れる黒髪が視界の端を掠めた。はっとしてそちらを見ると、昨日の雨に濡れていたあの子がいるではないか。

「えっ」

 私は呆けた声をあげながら、がたんっと立ち上がる。割と大きめな音が出てしまって、クラスはしんと静まり返ってしまう。

「あ……ごめん、なんでもないよ」

 焦ったようにそう言うと、そっかあ、と誰かが言って、クラスのざわめきが取り戻された。それにほっとして、私は廊下へあの黒髪の彼女を追いかけに向かった。

 走る。廊下を走ってはいけないと再三幼い頃から言われ続けてきたが、今日ばかりは許して欲しい。私は手を伸ばして黒髪に触れる。

「……あの!」

 小さいが、はっきりとした声が出た。これならきっと届いているはず。きっと。

「……なに?」

 届いたようだ。怪訝そうな声が返ってきた。

 話しかけたは良いものの、そこから先の話題が全くないことに気づいてしまった。どうして話しかけたのかを、説明すべきだろうか。

「き、昨日──」

「……こっち来て」

 私が昨日見たことを説明しようとすると、彼女は私の手首を掴んでぐいと引っ張った。何か気に触ることをしただろうか、とひやひやしながら、私は彼女の後ろをついて行く。


 着いたのは階段の踊り場。そこまで来てやっと彼女は手を離してくれた。

「……見てたの?」

「な、何を」

「昨日の私を」

「雨に、打たれてた?」

「……そう」

「うん……見てた」

 私が素直に頷くと、黒髪の彼女ははあーと長いため息をついて、こめかみをぐりぐりとした。

「やらかしたな……」

「そ、そんなまずいことだった? ごめん……」

「いや、気をつけてなかった私が悪い。あなたは謝らないで」

「……分かった」

「まあ、見られちゃったなら仕方ない……全部説明しよう。とその前に、私はみお。美しい魚で美魚、ね」

「私はそら、です。ひらがなで」

「分かった。そら、びっくりしないでね」

 そう前置いて、彼女──美魚は話し始めた。

「私、雨が降っている間は濡れていなきゃいけないの。前例がない病気で、名前は『人魚症』って……私が勝手に呼んでる。例えばとして今ぽつり、雨が降ってきました。一雫でも落ちてきたら、私の体は、水を全身に欲するの。体内じゃなくて、体外にね。水に触れていなきゃいけない、そういう体質なの。雨の間だけなんだけどね。小学校高学年くらいに一度プールで溺れかけたことがあるんだけど、その時からそんな風になっちゃったんだ」

「……だから、昨日は雨の中スタスタ歩いてたんだ」

「そう。学校の方には説明してあって、雨が降ってきたってなったらすぐに外に出ていいっていうお達しは出てる。いやあ……まさか他のクラスの子に見つかるなんて」

 困ったな、と美魚は後頭部を掻く。

「ひ、秘密にするよ」

「そうしてくれると嬉しい」

 私はこくこくと頷く。

「……あなたも何か、秘密があるの?」

「えっ、なんで」

「なんとなく、秘密にしてって言ってないのにすぐ口に出せてたから。秘密にすることがある人はそういうことしやすいんじゃないかなって」

「……そっか、美魚ちゃんは頭がいいんだね」

「そんなことないよ」

 困ったように笑う美魚は綺麗だった。

「良かったら秘密、共有しようよ」

「……うん」

 なんだか子供の頃のささやかな約束のようで、心が踊った。

「私、水アレルギーなの」

「水アレルギー?」

「うん。世界的にも珍しい症例で、肌が水に触れるとひどく腫れたり、最悪の場合アナキラフィシーショックで死んじゃうかもしれないの」

「へえ……」

「汗とか涙にも反応しちゃうから、夏は気をつけないといけなくて。寒いけどすごい薄着したり、クーラーつけたりするんだ」

「まるで反対だね、私と」

「……そうだね」

 私はちょっとはにかむ。

「そらとは良いお友達になれそうだな」

「ほんと?」

「うん。正反対だけど、似てる秘密を持つ同士でさ」

「……そっか、嬉しい」

「私も嬉しい、見つけてくれてありがとう」

 よろしく、と彼女は私の手を取った。

 そこでチャイムが鳴った。

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