突然の来訪者

 細い紫煙が上る煙草を口に咥え、点々とした雨粒が線となって伝い落ちる窓ガラスへ視線を向ける。


 鈍重な雨雲から振り続ける雨は天気予報によると夕方まで降り続くらしい。肌に纏わり付く厭な湿気と鼻孔を通り抜ける雨の臭い。日常生活を送る上で、俺は雨という存在が嫌いだった。


 低気圧により誘発された頭痛に耐え兼ねた俺は、デスクの引き出しから偏頭痛薬を取り出しミネラルウォーターで飲み下す。幼少期から悩まされ続けている偏頭痛とも長い付き合いになるが、どれだけの時間と歳を取ろうとも慣れる事は無い。問答無用の痛みを引き連れてやって来る雨は、俺にとって天敵と呼べる代物だった。


 灰が長くなった煙草を灰皿で揉み消し、ファイルに手を伸ばす。幾ら頭が痛かろうと体調が優れていなかろうと、仕事を疎かにするつもりは毛頭無い。ファイルのページを捲り、依頼料金の踏み倒しを図ろうとしている依頼人の情報を頭に叩き込んでいる途中、事務所のインターホンが草臥れた音と共に情け無く鳴り響く。


 今日は依頼が入っていない予定だったが――俺は重い腰を上げると足音を立てないよう細心の注意を払いながら事務所の唯一の出入り口であるドアに近づき、ドアスコープを覗き込む。


 灰一色の通路に立つ一人の少女が居た。少女の様相は腰まで届く長い黒髪が第一印象であり、彼女が着る制服は二の次となる程に印象的なものだった。


 訪れる階と部屋を間違えているのではないだろうか? いや、この廃ビル同然の鉄筋コンクリートビルには俺一人だけしか事務所を構えていない筈。ならこの少女は俺に依頼をしに来たのか?


 暫し様子を観察するが、少女は微動だにしないまま通路に立ち尽くし、俯いている。何でも無いただの少女。俺はそっとドアから離れると椅子に向かうが、次の瞬間インターホンが猛烈な勢いで連打される。


 情けないブザー音が何度も鳴り響き、挙げ句の果てにはドアが蹴られ始める。少女の蹴り方は取り立て屋を想起させるものであり、二年前の面倒な仕事を思い出させる方法だった。


 何だこの少女は? 狂っているのか? そもそもこんな方法で俺が出てくると思っているのか? 俺は尚も蹴られ続けているドアから離れ、衝撃により外れたドアのネジを拾い上げるとそれを握り締め、小さく舌打ちする。


 気狂いに対応するほど酔狂な性格はしていない。常識を弁えずに訪れた依頼人に対し、温厚無知な顔を晒すほどの甘さは持っていない。相手が暴力的な手段を以ってやって来るなら、此方も暴力を以って対峙するだけ。頭に血が上り、自分が怒っていると気づく。だが、心は冷水に漬けるが如く冷静に保つ。


 俺はドアの鍵を開けるとドアノブを握り勢いよく開け放つ。すると、少女は不意に扉が開け放たれることを予想していなかったのか、鋭い蹴りを俺の左脛目掛けて放つ。


 「君、少し落ち着いた方がいい」


 左脚を僅かに逸らし、彼女の蹴りを回避し胸倉へ手を伸ばす。だが、俺の手は手掌により弾かれる。


 「触らないで下さい」


 凛としたガラスのナイフを思わせる声。無色透明で鋭利な刃は少女の切れ長の瞳と非常にマッチした綺麗な声であるが、その声の中には何の情も感じ得ない無機質なもの。俺は曲がりくねった手巻煙草を口に咥えると傷だらけのジッポライターのフリントを回し、立ち上る炎に煙草を近づけると紫煙を吸い込み煙を吐き出す。


 「なら君は開いた足を閉じ、捨てられた犬のような警戒心を解いた方がいい。それと、依頼なら断ることを先に言っておく」


 少女は俺の顔をジッと見据えると言葉通りに肩幅ほどに開いた足を閉じ、警戒心を滾らせる野良犬のような雰囲気を幾分か抑え込む。あれほど強烈な呼び出し方をしたのに随分と素直なものだと少しだけ感心する。


 「無礼を働いたことを謝罪します。申し訳ありませんでした。ですが、頼れる人は貴男のようなひとしか居ないと思ったんです」


 「謝罪を聞きたいわけじゃ無い。俺は君のような少女から依頼を受けるほど暇じゃないし、遊びにも付き合っていられない。人生という限りある時間の中では、一秒という時間が万粒の砂金ほどの価値を持っているのだよ」


 「ですが」


 「ですがも何も言葉は必要無いだろう。帰れ、此処は君が来るような場所は無い」


 ドアを閉めようとドアノブを握り引く。だが、ドアが完全に閉まり切る前に少女のローファーが僅かな隙間に滑り込み、ドアの動きを阻害した。


 「何をやっている」


 「話を聞いて下さい」


 「断る」


 「お金なら、あります」


 「冗談も程々にしておけ」


 「冗談じゃ、ありません」


 少女が足元の鞄を引っ掴みジッパーを開くとその中には唸る程の金が詰まっていた。帯で纏められた万札の束が鞄の内でひしめき、幾人もの福沢諭吉の無機質な瞳が俺を見つめた。


 「不足ならもっと用意します。だから、お願いします。私の話を聞いて下さい」


 額に滲んだ汗と涙混じりの瞳。足がドアに挟まれ痛い筈なのに、少女は硬い意思と決意を以って耐えていた。金が入った鞄の中身を見せつけ、俺の興味を引こうと必死に食らいついているのだ。


 「……依頼は受けないが、話だけは聞こう。だが、三つだけ約束して欲しい」


 「何でしょう」


 「一つ、靴は脱ぐこと。二つ、携帯電話に触れないこと。三つ、俺の質問と指示には必ず従うこと。この三つを守れるなら入ってもいい」


 「わかりました」


 ドアを開き、少女を事務所の中へ招き入れた俺は彼女を傷んだ革張りのソファーに座らせると自分の椅子に腰を下ろす。吸い始めた煙草は燃焼剤が含まれていないものだった為、煙草全てが灰にはならなかったがもう一度火を点け吸った煙の味は最低最悪なものだった。

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