異世界の食糧は僕でした

雪菜冷

異世界の食糧は僕でした

 目を覚ませばそこは違う世界だった──そんな有体な設定に本気で焦がれているなんて知れたら、同級生には笑われてしまだろう。ただでさえクラスの輪からはみ出て、人っ子一人寄り付かないのに。それでも、月影暁良つきかげあきらは願ってやまない。いつかこの日常に終わりが来ることを。

 今日は三限が始まる頃には腹の虫が鳴っていた。時と共に音量が上がっていたはずだが、誰も気に留める様子はない。彼が空腹なのはいつものことだからだ。腹に手をあて小さく息を吐く。今日の朝食は兄の食べ残したトマトとブロッコリーだった。二種類も野菜にありつけるなんて何と有難いことか。兄の野菜嫌いには頭が下がる。これで水さえ飲んでおけば昼まで凌げるだろうと希望を抱いて迎えた給食の時間。今、目の前のお椀の中で、活きのいいミミズが踊っている。ご飯には砂利が混じり、おかずには虫の死骸が乗っていた。視線を上げれば机の前で仁王立ちする兄が目に入る。小学四年生の平均体重を大幅に超えているであろう月影雷翔つきかげらいとは鼻息荒くにやにや笑っていた。担任は一度もこちらを見ない。ただお決まりのように「皆残さず食えよー」と言う声に、卑下た笑い声が教室にこだました。不快な音を断ち切るように少し乱暴に椅子を引いた暁良は、お椀の中身を捨てるべくその場を去った。


 空腹に目を霞ませながらも何とか一日を終え、ランドセルを背負ってふらふらと家路に着く。穴が飽きそうなブカブカのシューズを引きずりながら、肩を縮め猫のように背を丸めて歩く。これが彼のいつものスタイルだ。こつん。後頭部に何かが当たる。次は肩、その次は足……。暁良は特に振り返ることはなかった。いつものように、雷翔と取り巻き達が石を投げているだけだからだ。

「お前、今日も五寸釘じいさんの所に行くんだろ?」

「呪いの廃屋な」

「そのうちゾンビになって帰ってきたりして」

 特大の笑い声に唇を噛み締めると、不意にランドセル越しに大きな衝撃を感じ、前のめりに倒れた。ランドセルの鍵も開けられていたようで、こけた勢いで中身がザラザラと道端に躍り出る。雷翔達はノートや筆箱を踏みつけながら走り去っていった。笑い声が聞こえなくなってからようやく体を起こし、ゆっくりと落ちた荷物を拾っていく。不憫に思ったのか、顔も知らない通りすがりの人が、道路脇に飛び出た給食袋を拾ってくれた。全て片付けてやっと腰を上げると、空腹は重苦しい胃の痛みに変わっていた。


 図らずも通い慣れてしまった小さな東家は、人通りも少ない土地の片隅に立っていた。見た目もボロボロで、知らなければ人が住んでいるとは思わないかもしれない。だから廃屋などと噂が立ってしまうのだ。建て付けの悪い引き戸を両手でこじ開けて、暁良は丁寧に靴を揃えてからキシキシと音のなる廊下を歩いていく。

「今日も来たのか」

 低く抑揚のない声が聞こえてきた。伯父はこちらを見ることなく、縁側でせっせと藁で何かを編んでいる。

「テーブルにある。好きに食べろ」

 狭い居間を見渡せば、確かに割れ目のある丸いローテーブルに、蒸餅が山積みになっている。暁良は黙って頭を下げると、隅にランドセルを下ろし、きっちり手洗いうがいをしてから無言で頬張った。まだほんのりと温もりが残っている。強張った体から力が抜けていった。

 後一つで食べ終わるという頃、いつの間にか伯父は暁良のすぐ横まで来ていた。手には先ほど作り上げたであろう藁人形と五寸釘、そして金槌といういつものセットが握られている。

「俺はやることがあるから外に出る。皿は片付けとけ。後は好きに帰っていい」

 返事を待たずに伯父は背を向ける。暁良は蒸餅を食べるのを中断して視線で彼を見送り、姿が見えなくなってからこっそり縁側から外を覗いてみた。伯父が古いスギの木に藁人形をセットしている。慎重に中心部へ釘をあてがうと、大きく腕を引いて、素早く金槌を振り下ろす。鋭い金属音。一つ、二つ、三つ……一発ずつゆっくりと、力強く打ち付けている。今日も近所中に響き渡って、また人々に怪訝な顔を向けられていることだろう。また帰る時に視線が痛いな……と思いながらも、暁良は何も言わず顔を引っ込ませた。

 何度も何度も聞こえてくる音を聞きながら、誰をそんなに呪いたいのだろうと考える。やはりうちの父親だろうか。暁良は薄汚れた壁にかけられた家系図に目をやった。なお、本家の家系図では暁良の部分だけよれた二重線で消してある。父の隣には雷翔の母の名前、その下には雷翔の名前。そして父の名前からはもう一本線が別れており、その下に暁良の名前があった。実の母親はどこの誰か知らない。

 伯父の欄は墨で塗りつぶされている。本人がやったのだろう。彼は本家をよく思っていない。詳しい話は知らないが、長男でありながら適役ではないとされ、月影神社を継ぐことはできなかったらしい。雷翔からすれば、伯父は後を継げなかった能無しと認定されているようだ。

 蒸餅をきれいに平らげ、皿を洗うついでに夕食の準備をしていると、ようやく伯父が帰ってきた。台所の様子を見て軽く後頭部を掻いた後、ポンと暁良の頭に手を乗せる。一瞬出来事ではあるが、頭部にはっきりと伯父の手の温もりが残った。暁良は少しばかり耳を赤くして、そっと目を伏せる。

「これを持って帰れ」

 差し出されたのは彼愛用の藁人形だった。中心部にまだくっきりと釘を打った穴が残っている。どう見ても先ほど打ったモノとしか思えない。心にひんやりと冷気が忍び寄る。先程の感動を返してほしいくらいだ。それでも、暁良は黙って手を出した。現状、伯父に見放されては本気で餓死しかねない。彼の機嫌を損ねたくはなかった。

「今日は新月だ。くれぐれも、建物の外に出るなよ」

 いつからか口すっぱく言われ続ける文句を今日も聞き遂げ、暁良は沈む夕日を眺めながら周囲の視線に耐え、とぼとぼと家路についた。


 家の戸を開け、蚊の鳴くような声で「ただいま」と呟く。居間から大きな笑い声が響くが、誰も部屋から出てこようという者はいない。暁良は慣れたように足音を忍ばせ、静かに二階の自室へ上がっていった。

 部屋の戸を開けると、思わず眉を顰めてしまった。室内がぐちゃぐちゃに荒らされていたからだ。盛大なため息をつきながら、なんとか足の踏み場を見つけて中へと入る。畳まれた布団の上にランドセルを放り投げると、取り急ぎ衣類を押入れへと押し込んだ。部屋を片付けながら、ふと勘が働く。いつも押入れの一番奥にしまっていた木箱。その中身がない。見つからないよう古着に包んで置いたのに。そこには唯一母のものであるペンダントが入っていた。暁良はかっと頭に血が上るのを感じた。木箱を手にしたまま静かに立ち上がり、廊下を歩く。雷翔は居間で家族と団欒していた。暁良は周囲の目も構わずに掴みかかる。

「どこへやった!」

「さあ? 何のことだよ」

「とぼけるな! この箱の中身だよ! お前が──」

 言い終わる前に頬を殴られ、暁良は畳に吹っ飛ばされた。ゲラゲラと笑う雷翔の前に、父が立ちはだかる。

「月影の血を持つ故好意で置いてやっているのに、この体たらくは何事だ」

「そいつが!」

 暁良は逆側の頬も叩かれた。弾みで、ポケットから藁人形が滑り出た。

「何だこれは。雷翔を呪いでもしたのか、庶子の分際で。兄を敬う気持ちはないのか。来い。お前に罰を与える」

 藁人形が踏み潰される。暁良は抗議する間もなく、髪の毛を掴まれ引きずられていった。

 庭の裏手にある納屋の入り口を開けると、父親は暁良を乱雑に放り込んだ。地面に吸って頰と肘に擦り傷ができる。

「今夜はそこで過ごせ。反省すれば、明日の朝には出してやる」

 錆びついた鉄扉の音が闇を引っ掻くように響き、無情にも入り口に固くかんぬきがかけられた。扉が閉まる最後の一瞬まで父親はただの一度も暁良の方を見なかった。


 暁良は深々とため息をついた。ここまでの罰を与えられるのは久しぶりだ。まんまと雷翔にのせられたと言えるだろう。手で伸びた髪をぐしゃりとかき上げながら、未だ握ったままの木箱に目をやった。

(いや……これを我慢するのは、多分違う。俺はきっと、あれでよかった)

 木箱を懐にしまい、両手で頬をパチンと叩くと、暁良は腰を上げた。幸い季節は初夏のため、夜になっても凍えるということはないだろう。とはいえ、夜風は冷える。何か寒さを防げるものはないか、暁良は手で周囲を弄り始めた。しかし、明かりの灯らない納屋はいくら夜目に慣れてきても一メートル先すら見通せない。

「せめて月明かりがあればいいのに」

 あえて小さくない声で独り言を呟く。すると、不意に異質な肌触りを感じた。固くて細い。ゆっくりと物の形状を指でなぞってみると、それは刀の形をしていると気付いた。尖った感触ではないから、鞘に収められているのだろう。今度は躊躇うことなく両手で取り上げた。少しだけ鞘をずらして、剥き出しになった刀身に触れてみた。ザラザラとした感触で、錆が浮いているのが分かる。随分と古い物のようだ。

(そういえば、本殿にも刀が飾られてたな)

 幼少の頃にこっそりと内部を除いたことがある。卑しい身で出過ぎたことをするなと後でひどく罰を受けたが、室内の静かで厳かな佇まいははっきりと脳裏に焼き付いたものだ。その最奥に、美しい紋様の彫られた華美な刀が納められており、それ以来刀に憧れがある。

 暁良は刀身を全て抜き放つと、上部に唯一開いた小窓に向かってかざしてみた。少しでも星あかりに透かして見えたらと思ったのと、何となくそうするのが正しいように思えたからだ。

(やっぱり見えないな。また昼間にこっそり見にこよう)

 腕を下ろし再び鞘に刀を収めかけたところで、突如抜き身がぼんやりと青白い光を放ち始めた。しばし手の動きを止め硬直した後、急いで鞘を取り払う。勢いのあまり鞘は手からすっぽ抜け、固い音を立てて床に転がった。光はどんどん強まり、室内を明るく照らし出すほどまでになっている。暁良は両手で柄を握りしめながら、瞬きもせずに刀を見つめていた。驚く、という感情はあまり強くない。むしろ、既視感すら覚えるほどだ。まるで月の光のように神秘的で、それでいてどこか優しさと懐かしさを刺激する。だからだろうか。その言葉は予め知っていたかのようにするりと口から躍り出た。

「月光丸──」

 瞬間、暁良の体は引っ張られるように強い光の中に消えていった。後には、彼が取り落とした木箱だけが無機質に転がっていた。


 気がつくと、暁良は刀を握りしめたまま立ち尽くしていた。視界に入る周囲の様子は暗がりの室内ではない。見渡す限り木々のようなものが生い茂り、所々鳥の囀りのようなものが聞こえてくる。ただ、それは明らかに暁良の見知った動植物ではなかった。針葉樹のような形をした樹木は紫色の葉を揺らしているし、鳥と思われる生物は目玉が八つもあってやたらと太っている上羽は痩せ細っている。あれでどうやって飛んでいるのか不思議になるほどだ。暁良は文字通り目が点になった。右を向いて、左を向く。上を見上げて、下を見下ろす。一連の行動で導き出した結論は、とりあえず外に出たということだ。ここがどこかということはさておき、それだけは間違いない。

「いやいやいや……」

 またも独り言が漏れる。今度は語尾が掠れて消え入りそうだった。自然と、刀を握る手に力がこもる。掌がじっとりと汗ばんでいた。昔見たアニメ映画では、主人公が見知らぬ世界に来てしまった時、真っ先に両親を求めて叫んでいたな……と唐突に思い出す。あいにく彼に頼れる親類がいないどころか、助けを期待するのは無駄という概念が染み付いている。一瞬、伯父の顔が頭をよぎったが、暁良はかぶりを振ってすくむ足を無理やり動かすことに落ち着いた。

 一歩踏み出してしまえば、二歩三歩と続く。そうして少しずつ進んでみると、目に入ってくる情報も増える。生えている木は、色はともかくやはりスギやマツなどの針葉樹林に見えた。月影神社の持つ土地は広く、様々な木が植えられていたので自ずと覚えている。木の根元には図鑑で見たことのあるような形のきのこ。ただし薄桃色に染まっている上何故か光り輝いている。所々に咲き乱れる野花も、見知ったもののように見せかけて葉からもくもく煙が上がっていたり、花弁の色が定期的に変わったりとどこかおかしかった。ここまでくると、恐ろしいを通り越して興味深くすらなってくる。次はどんなものを見つけるのだろうか。こわばっていた体から幾分か力が抜ける。怪奇現象が続いても、暁良はその幼さ故かまだ楽観的であった。何故急に外に出てしまったのかは謎だが、少なくとも日本のどこかだろうと。そうとなれば後は民家を探すのみ。家の住所はきっちり覚えているから、事情を話して助けてもらおうと少しばかり背筋も伸びる。

 しばらく道なき道を歩き続けると、急に辺りの様子が変わってきた。大きなピンク色の石がゴロゴロと転がり、その隙間に水が滲み出している。よくよく見ると、小さな魚も泳いでいるようだ。苦労して石から石へ飛び移り、苔で滑る大きな岩を何とか乗り越えると急に開けた場所に出た。目の前に迫ったのは、鳥居。年代ものなのか、随分と表面が色褪せている。地面の近くは青い苔だらけだし、笠木には蔦が沢山絡みついていた。それでも、瞬きを忘れてしまうほど魅入ってしまったのは、自然と一体化した故の美しさだろうか。鳥居の奥には、色鮮やかな雑草に埋もれてはいるが朽ちた廃墟も見える。額縁に納められた絵画を眺めているようだった。

 恍惚とした時間は、背後で聞こえた葉擦れの音で遮られた。反射的に肩を大きく揺らし、青ざめた顔で背後を振り向く。茂みの中から覗いていたのは、緑色の何かだった。小さくて平べったい頭に、少し大きめの黒々とした瞳。手や足はあって二足歩行のようで、そういう意味では人間ともにていた。二体の未知なる生物は顔を向き合わせ何事か語り合った後、くるりとこちらに向き直りにかっと口角を持ち上げた。広がった口は大きく、口裂け女のようだ。思わずごくりと喉を鳴らす。

「ようこそようこそ。待ってたよ!」

「……え?」

 想像もしないほど前向きな言葉を投げかけられ、暁良は返ってたじろいだ。声は老人のようにしわがれているが、明るい色を帯びているのはわかる。茂みをかき分け全体像が露わになると、小人のような身長が目についた。小学生である暁良の半分ほどしかない。樽のように膨れた腹と、太くて短い足はどう見てもバランスが悪い。ガリ股でヨタヨタと歩いてくる姿は滑稽で、愛嬌すら感じられた。

「近々客人が来るとは聞かされていたが、まあまあこんな可愛い坊ちゃんだと思わなくてな。一瞬呆気に取られてしもうた。すまんのう、驚かせて」

 蝉が鳴いているような笑い声が閑静な森によく響く。話しているのは片方だけで、もう一方は彼の背後に隠れて顔だけを覗かせ、じっとこちらを伺っている。

 彼の喋り方にすっかり毒気を抜かれた暁良は、引いていた身を正して大きく息を吐いた。見た目は自分と違うが、攻撃的ではないとわかっただけ大きな収穫だ。どうせ誰かに聞かなければこの状況が理解できないので、未知なる生物であろうと何であろうと、とりあえず聞きたいことは聞いてみようと思った。

「あの、ここはどこ? 俺、室内にいたはずなんだけど、気がついたら森の中に立ってて……。それに、さっき客人が来るって言ってたよね? それって俺のことなの? ここに来るって、分かってたの?」

 矢継ぎ早に問いかける暁良に、異種族の二人は目をパチクリとさせた。が、すぐに元との笑みを取り戻してうんうんと相槌を打ちながら暁良が喋り終わるのを気長に待つ。ようやく言葉が切れると、落ち着いた様子でゆっくりと話し始めた。

「まず、ここは倭国と呼ばれる場所じゃ。君のいた所とは少し違うが、この鳥居はよく似ておるだろう? 模してあるからの。儂らは緑鬼。君は月の道を通ってきた。今日だから通れる特別な道じゃ。ほれ、今日は満月じゃろう?」

「満月?」

 促すように彼が空を見上げるので、釣られて暁良も頭をもたげた。木々の枝葉が途切れぽっかりと空いた空間に、ちょうどまん丸の月が収まっている。ただ、その色はうさぎの目のように真っ赤だった。それに空の色も暗くなく、夜闇の雪原のように薄灰色に染まってる。だから、夜だと気づかなかった。森が薄暗いのは普通のことだし、知らなければこの空模様は曇りの日と大差ない。点々と存在する星々は群青色の影を落とし、華やかな月と薄色の空にアクセントを加えていた。

「満月の日は道が繋がりやすい。それ故、お前さんのような彼方の人が迷い込んでくるんじゃ。儂らはそれをありがたいことだと捉え、毎回宴を開くことにしているんじゃよ。ほら、いくぞい」

 三本しかない太い指に手を掴まれ、暁良はぐいぐい引っ張られていった。意外にも歩速が早い。まだ聞きたいことや、新たに気になることはあったが、これ以上は聞く耳を持ってもらえなさそうだった。それに、暁良も限界だったのだ。帰宅してから飲まず食わずだったため、とにかく何かを胃に流し込みたい。宴という言葉にほのかに期待を込めながら、細い足を必死に動かして彼らの速さに合わせた。


 そこからの展開は早かった。あれよあれよと彼らの住処へと連れていかれ、やれ清めの儀式だと滝壺で体を洗われ、正装をと新しい服を手渡され髪まで結われた。その間に宴の準備をしていたようで、目の前では木の実や蒸した鹿肉など、見たこともない料理が所狭しと並ぶ。普段から残飯に慣らされていた暁良にとっては、まさしくご馳走そのものだった。両側には着飾った異民族達が付き添い、料理を食べやすいように丁寧に切り分け、暁良の口へ運ぶ。存在を無視されることに慣れていた暁良にとっては、夢のようなひと時であった。

「何だか悪いな。至れりつくせりで」

「月の加護を抜くには、こうして手順が必要だからね」

「え?」

「そろそろ儂らも頂いて良いかな」

「あ……勿論。皆で食べよう。ごめん、俺ばかり沢山食べて──」

 目の前で、鉈が振り下ろされた。ごとりと、己の手だったものが食卓に落ちる。その場に沢山の鮮血が滴落ちた。

「え?」

 激痛より先に来たのは、驚きだった。少ししてから、焼けるような痛みが腕から這い上がってくる。暁良はのたうち回った。彼らは落ちた暁良の肉を我先と食い荒らしていく。

(何で、何が……)

 痛みで声が出せずにいると、仰向けの暁良の顔を覗き込むように緑鬼が顔を出す。にたりと、またあの口が裂けるような笑みを浮かべた。

「僕は目をいただこうっと」

 言葉にならない叫び声が延々とその場に響いた。

 暁良は左目で、己の右目が食われていくのを漫然と見ていた。もはや痛みに喘ぐ気力すらない。後ろの方では、次にどの部位を食べるか揉めているようだ。「足」「腑」「心臓」……物騒な単語が飛び交っている。

「なんで、俺を食べるの」

「必要だからさあ」

 ニヤリと笑う緑鬼の右目は、人間と同じ眼球に代わっていた。目を見開いた暁良は、震える体で何とか体勢を変え、その場から逃げようとした。しかし、血を失いすぎたせいで視界は霞み、思うように体が動かない。結局、すぐにバランスを崩して地面に這う格好となった。しゃっくりのような笑い声が次々とこだまする。

「さあ、大人しくしててくれよ。できるだけ皆で分け合って食べたいから、綺麗に切り分けたいんだ」

 血のついた鉈が振り上げられる。その動きがとてもゆっくりに感じられ、代わりにこれまで積み重ねてきた人生の記憶が高速で頭を駆け巡る。

(あ、これ、走馬灯ってやつ)

 どこか冷静に状況を受け止めたところで、鉈の動きが上から下へ変わっていくのが見えた。今度は足を切断されるのだろう。動けなくなったところで、じわじわと他の部位を削っていくのだ。いっそ一思いに死ねたらいいのだが、これではさぞや苦しむだろう。何とも最悪な一生だ。現実の世界では家族や学校の人々に冷遇され、心躍る異世界に飛んできたかと思えば食糧として食べられるとは。最悪だ。

「俺が、何したっていうんだよ!」

 力の限り叫ぶのと同時に、大粒の涙がパッと弾けた。


「何もしないガキだから死ぬんだよ」


 忌むような声色とともに無数の釘が空から降ってきた。捻り潰すような叫び声がいくつも湧き上がる。彼らの紫色の血が祭壇の至る所に飛び散った。

「おじ、さん……?」

 蚊の鳴くような声で呟けば、伯父は横目でこちらを見遣り、眉を顰め奥歯を噛んだ。くたびれたジーンズから藁人形を取り出し、暁良の懐に突っ込んでくる。この後に及んで不可解が行動だったが、ふと痛みが和らいだ事に気づき暁良は体を起こした。出血も止まっている。

「え、何……?」

「今は聞くな! 生き残ることを考えろ! もうじき赤月が欠けてくる。月の道を開いて元の世界に帰るぞ!」

 伯父は凄まじい速さで金槌を振り回しては緑鬼をめった打ちにしている。鈍い音が次々と鳴り響き、紫の血が雨粒のように降り頻る。助けにきてくれた伯父が悪役に見えるほど、ゾッとする光景だった。

 ドクン、と鼓動が大きく脈打った。本能で頭上を仰ぎみれば、確かに満月が欠け始めている。それと共に、空気に匂いが変わるように感じた。

「刀ぁ!」

 もはや全身紫色のコーディネートと化した伯父が野太い声を上げる。暁良は己の怪我も忘れて辺り一体をペタペタと手で弄った。ハッと顔を上げれば、最初に出会った緑鬼がニヤリと口角を上げ、両手で抱えた刀を持ってくるりと反転する。待て、と言おうとして、暁良は反射的にその名を呼んでいた。

「月光丸!」

 まるで磁石の引力に引き寄せされるかのように、刀は緑鬼ごと暁良の方に向かって飛んできた。途中、伯父が見事に緑鬼だけを殴り落として刀だけが暁良の手に収まる。その瞬間、あの青白い光が溢れ出した。

「行くぞ! 走れぇ!」

 光の回廊を全速力で駆け抜けると、次第にあのしわがれた声は遠ざかっていった。


 目玉を取り出され、腕をもがれ、腹も裂かられる。暁良は長く繰り返し訪れる痛みと戦っていた。それが夢だと気付いたのは、唐突に世界が発光に包まれ、意識が覚醒したからだ。

「はぁ!」

 飛び起きると、全身汗びっしょりになっていた。

「に、逃げなきゃ、鬼が」

 うまく動かない体でずりずりと布団から這い出ると、聞き慣れた声が降ってきた。

「落ち着け」

 片手に温かいお茶を乗せた盆を抱え、伯父が襖を開けて入ってくる。スーッと滑るような襖の開閉音を聞いていると、心が静まってくる。外からは水のせせらぎも聞こえてきた。近くを小川が流れているのだ。丸い石の間をすり抜けるように流れる清流の様子を思い浮かべながら、暁良は額の汗を拭った。喰われた右目には包帯が巻かれている。

「ここは、伯父さんの家?」

「そうだ」

「あの世界は何だったの? どうして向こうに行って、また帰ってきたのか……それに、伯父さんは何? なんであの世界にいたの? めちゃくちゃ強かったけど、どうして?」

「ガキは質問が多い」

 後頭部をかきながら大きなため息をつく。それでも暁良を見つめる眼差しは温かい。慣れない視線に心がむず痒くなった。同時に、伯父の右目の色が普段と違うことに気付く。鴇色のような、紅掛空色のような……まるで夕暮れ時の空のように複数の色が巧妙に混ざり合って見える。こちらの視線を察知すると、伯父はかけていた眼鏡を外して胸ポケットに入れた。いつも束ねている色素の薄い髪もほどいていく。そういえば、伯父は初めて会った時から髪が真っ白だった。まだ三十代なのに珍しいなと不思議に思ったものだ。その髪も、今では白というより銀色に見え、どことなくきらきらと輝いて見える。心がざわついた。知っている場所に戻ってきたはずなのに、何かが以前とは違うような、もう二度と元には戻れないような、そんな感覚がする。

 不安げに瞳を揺らす暁良に、伯父は外に出るよう促した。

「来い。実際見た方が早い」

 のろのろと身支度を整えるも、靴下が指に引っかかって中々はけなかった。

 伯父が連れて行ったのは、近所で最も人通りが多い交差点だった。もう夕暮れ時に差し掛かる時分だからか、人々が忙しなく行き交っている。徐に伯父が頭の包帯をほどき始めた。こんなに沢山の人がいる前で美しくない傷跡を晒すのはどうかと身を固くしたが、そこで初めて全く目が痛まないことに気付く。その理由を問う前に包帯は全て解かれ、『それ』は目の前に現れた。大きなビルのに重なるように、あの紫の木々が透けて見える。電柱の向こうには苔むした石たちが、人々が踏み鳴らすアスファルトには七色に変化する花々が咲き乱れる。そして──人々の隙間に見え隠れするように、あの鬼達が佇んでいた。こちらの視線に気付いたのか一斉に振り返り、あの恐ろしく大きな口を持ち上げ──。

「うわああぁぁ!」

 今度は現実世界の人間達が一斉に振り返った。冷や汗を滝のように流しながら尻もちをつく暁良を、怪訝な顔で見つめている。だが、すぐに興味を失って再び人の波を作り出していった。

 伯父が包帯をかけ直すと、悪夢のような映像は見えなくなった。伯父は未だ荒い呼吸を繰り返す暁良の腕を引っ張り上げ、無理やり立たせる。人のいない公園へ場所を移してから、伯父はようやく説明を始めた。

「お前の目は、俺と同じになった。それから、腕ももう元の腕じゃない。その『目』で見てみろ」

 言われるまま包帯をずらして右腕も見てみると、確かに肘から先が伯父の目と同じ夕空色に染まっている。

「伯父さんの髪も……?」

「ああ、頭皮ごと喰われたからな」

「……いつ?」

「俺が中学の時だ。別に珍しいことじゃない。世の中に行方不明者など大勢いるだろう? その一人になりかけただけだ」

「でも、伯父さんはそうならなかった」

「俺が『月影』だったからだ。月影の一族は古くから常ならざる力を宿している。だが時を経て力は弱まり、存在そのものが忘れられるようになった。だから、あんな『なまくら』が宝刀として祀られたりする。見栄えがいいと言ってな」

「それって、本殿の? じゃあこれは……」

 暁良は出かける際伯父に手渡されたあの古刀に視線をやった。人の目があるので、今は竹刀袋に収められている。

「これこそが本物の宝刀、『月光丸』だ。どうやらお前は俺よりずっと素質があるらしい。あの時刀を呼んでいたな?」

「あ、あれは無我夢中で……」

「だが、月光丸はきっちり応えた。お前は選ばれたんだ。幸い阿呆の弟は本物の存在など忘れ去っている。これはお前が持っておくといい。必ず必要になる」

「でも、もう帰ってこれたんだし必要なんて──」

 伯父は眉をピクリと持ち上げ、ぐっとこちらに顔を迫らせた。鋭い眼光が間近で放たれ、自ずと身がすくむ。夕空色の滲む瞳が、今は気味悪く感じた。

「お前は本当に全てが終わったと思っているのか? こちらが新月になる時、あちらは満月になる。すると月の加護が弱まり、向こうへ渡る道が開かれる。毎月のようにな。奴らはしつこい。お前の『味』を覚えたからには、都度『続き』を求めてやってくるぞ。奴らにも『視えて』いるからな」

 暁良の脳裏に、先ほどの緑鬼達の笑みが蘇る。再び全身に鳥肌がたった。

「ど、どうすればいいの?」

「鍛えろ。死ぬ気でな」

 伯父は愛用の金槌を持ち上げてみせた。暁良はその時初めて理解した。奇行にしか思えない彼の一連の行動は、己の身を守るための修練の一種だったのだと。

 いつの間にか太陽は地平線の下へと隠れ、薄雲残る空は美しい鴇色に染まっていた。道ゆく人々は急ぐ足を止め、しばし天を仰ぎみる。誰もが感嘆の息を漏らす中、暁良は今より少し未来のことを考えていた。あと数十分もすれば世界は闇に包まれる。毎日明と暗を繰り返す空のように、彼の人生もまた月に導かれて激動を繰り返すことになる。ひと時の美しさは真っ暗な恐怖の前触れのようにしか思えず、暁良は奥歯を強く噛み締めた。

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