酒井という外れ者(2)
工藤の言葉を聞いた途端、酒井の表情が変化した。真顔になったかと思うと、工藤の目をじっと見つめる。
少しの間を置き、口を開いた。
「お前、それボケだよな? ツッコミ待ちのボケだよな?」
「いいえ、私はボケていません」
答えた時だった。酒井の表情が、またしても変化する。プッ、という声が口から漏れた。
次の瞬間、アクリル板を平手でバチバチ叩き出したのだ。しかも、笑いながらである。
「亡くなっただあぁ!? はあ!? お前超おもしれーよ! ぎゃはははぁ!」
ついさっきは激怒していた酒井だったが、今は狂ったように笑っている。この異常なまでの情緒不安定さは、生まれつきのものか。あるいは、異常な生活環境により後天的に作られたものか。
いずれにせよ、十年を超える刑務所生活ですら、彼の人格を変えるには至らなかったらしい。
「お前はバカなのか!? それともアホなのか!? 鈴原が死ぬわけねーだろが! バカ! バカ! ブァァカ!」
ひとしきり笑った後、酒井は楽しそうな表情で吠えた。しかし、工藤は冷静に返していく。
「ほう、あなたは亡くなっていないと言うのですね。では質問です。この十三年、彼は何をしているんでしょうね? 大勢の人に話を聞きましたが、鈴原の姿を見た者はひとりもいないのですよ」
すると、酒井は呆れた表情でかぶりを振る。パイプ椅子にどっかと座り込み、勝ち誇ったような表情で語りだした。
「お前、何もわかってねえなあ。救いようのないアホだぜ。まあいい、特別に鈴原の秘密を教えてやるよ。あいつにはな、悪魔の化身だ。俺はな、見ちまったんだよ」
「悪魔、ですか」
「そうだ。あいつはサタンなんだよ。この世界に、破滅をもたらす本物のルシファーだ。俺はな、はっきりこの目で見たんだよ」
「見たって、何をですか?」
「あいつの本当の姿さ。俺だけに見せてくれたんだよ。それだけじゃねえ。鈴原はな、次々と人を殺していったんだ。俺の目の前で、何人死んでいったことか。数えることも出来ねえ有様さ。それも、拳銃で撃ったとかナイフで刺したとか、そんなんじゃねえんだよ。あいつは、触れただけで命を奪っていったんだ」
恍惚とした表情で、酒井は語っている。鈴原への尊敬の念は、十三年経った今も消えていないらしい。
「触れただけで、ですか?」
「そうだ。鈴原はな、人間の寿命を司る死神だ。触れただけで、寿命をあっという間に縮めちまうんだよ」
先ほどは悪魔と言っていたが、今は死神と言っている。支離滅裂だ。こんなことを、警察署での取り調べでも言ったのだろうか。だとすれば、刑事もさぞや困ったことだろう。
もっとも、この話が全くのデタラメでないことを工藤は知っている。その中に、一部の真実はあるのだ。酒井の中で、妄想と現実とが入り混じっている。
「触れただけで、人を殺したのは間違いないのですね?」
「そうだよ。あいつはな、人間ごときの手に負える相手じゃねえんだ。鈴原は言ったんだよ。人の体内にマナを流し込み、気の流れを変えるってな」
「マナ? そう言ったのですか?」
「ああ、そうだよ。俺は、今もはっきり覚えてるんだ。あいつの言ったことは忘れてねえ」
得意げに語る酒井に向かい、工藤は真面目な顔で頷いた。
「なるほど、よくわかりました。あなたのおかげではっきりしましたよ。やはり、私の思った通りでした」
「な、なんだと……どういう意味だ!?」
「それは、あなたの知る必要のないことです。ただ、あなたに言っておきたいことがあります。鈴原さんは、一九九九年の七月もしくは八月頃に亡くなりました。まだ断定は出来ませんが、その可能性は高い。おそらく、彼を殺せるギリギリのタイミングだったのでしょう」
途端に、酒井は勢いよく立ち上がった。
「何だそれ……ギリギリのタイミング? そんなものがあるはずないだろう! あいつは、世界に破滅をもたらす恐怖の大王なんだよ! たかが人間ごときが、あいつを殺せるはずねえだろうが!」
喚きながら、アクリル板を蹴飛ばした。しかし、工藤は動じない。表情ひとつ変えず、冷たい口調で言い放つ。
「もうひとつ教えてあげましょう。あなたは、あの鈴原健介に利用されただけの人間です。同情すべき点はありますが、それでも犯した罪を帳消しに出来るほどのものではありません。おそらく、あなたが仮釈放で出られることはないでしょう。ここで、己の身が朽ち果てるまで暮らしてください」
「ふ、ふざけるなあぁ!」
酒井は、またしてもアクリル板を蹴飛ばした。直後、顔を近づけてくる。
「あいつは……鈴原は、必ず戻ってくるんだよ! 戻ってきて、この世界を滅茶苦茶にしてくれるんだ!」
喚く酒井を、工藤はじっと見つめる。
この男の破滅願望は、あまりにも強い。恵まれない生い立ち、施設での辛い生活、そして薬物……酒井を取り巻く世界は、まさに地獄であった。
酒井は、己の周囲にあるもの全てを憎んでいた。彼にとっては、この世界など存続する価値もなかったのだ。全ての人間を皆殺しにして、何もかも破壊したい。そのためなら、自分の身がどうなろうと構わない……そんな自爆テロ犯のごとき願望を薬物や喧嘩などでごまかし、多感な十代を生きてきたのだ。
そこを鈴原は見抜き、利用してきた。自分の言う通りにしていれば、この世界を滅茶苦茶にしてやる……と。目の前で、鈴原の起こす様々な奇跡を見てきた酒井は、迷うことなく彼の片腕となる。
それからは、ずっと鈴原の指示通りに生きてきた。彼の命ずるまま、悪事に手を染めていたのだ。
ところが、そんな神のごとき存在の鈴原が、何の前触れもなく忽然と姿を消してしまった。ひとりになった酒井はどうすればいいのかわからず、さらに覚醒剤にのめり込む。
やがて、錯乱した酒井はあの事件を起こした──
「私の推理が正しければ、鈴原はもう死んでいます。あなたの言う通り、彼は本物の悪魔と言っていい人間でしょう。通常なら、あの男に勝てる人間などいないはずでした。ところがね、鈴原を倒せる者がひとりだけいたのですよ。その人が、鈴原という悪魔を滅ぼしました」
半狂乱になっている酒井に、工藤は冷たい口調で語り続ける。
今の酒井にとって、それは死刑宣告よりつらいものなのかも知れない。刑務所の中にいる間、彼にとって唯一の希望……それは、いつか鈴原がこの世界を破壊してくれる。ただ、それだけだった。
その希望を、工藤は打ち壊そうとしている。
「嘘だ! そんなこと、あるはずねえだろ! お前は嘘つきだ! この嘘つき野郎!」
「もうひとつ言っておきます。残念ですが、世界は滅びません。少なくとも、あと十年は続くでしょう。その後にどうなるかは、わかりませんがね」
「嘘をつくな! クソ、お前を殺してやる! 絶対に殺す! ぶっ殺してやる!」
駄々をこねる子供のように喚き散らしながら、酒井はアクリル板を蹴った。しかし、アクリル板はびくともしない。
それでも、酒井は止まらなかった。まさに悪魔に取り憑かれた者のように、ひたすらアクリル板を蹴り続ける。その目には、異様な光が宿っていた──
その時、酒井のいる部屋のドアが開いた。同時に、数人の男たちがなだれ込む。皆、屈強な体つきの刑務官だ。トラブルが起きた時、受刑者を取り押さえるための要員である。
彼らは酒井を羽交い締めにし、強引に部屋から連れ出して行った。
「終わりましたか」
酒井が部屋から連れ出されると、ほぼ同じタイミングで服部弁護士が口を開いた。工藤は、静かな表情で頷く。
「ええ、終わりました。あれだけ聞ければ充分です」
「そうですか。ところで、鈴原健介は本当に死んでいるのですか?」
「まだ確定ではありませんが、その可能性が高いですね。あとは、鈴原を殺害したと思われる人物から話を聞くだけです」
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