ある男が守ったもの

板倉恭司

始まりの、始まり

 一九九八年、夏。

 この日、ひとつのニュースが日本のごく一部の地域で話題となった。




 鈴原健介スズハラ ケンスケは、目線を下に向ける。

 地上までは、ずいぶんと距離があった。人はほとんど歩いていない。車も通っておらず、静かなものだ。

 ここは、閑静な住宅地に建つ十三階建てマンションの屋上である。しかも、彼は柵を乗り越えへりの部分に立っているのだ。高所恐怖症の人なら、歩くことはもちろん、立っていることすら困難な場所であろう。

 そんな場所に立っている鈴原健介は、異様なまでに存在感の薄い少年であった。教室にいても、誰からも声をかけられない。担任の教師ですら、彼が出席していたことを忘れることもあるくらいだ。かつては友人もいたが、今はひとりもいない。透明人間のごとき存在であった。

 少年は、もう一度下を見下ろした。全てのものが、ゴミクズほど小さく見える。見ろ、人間がゴミのようだなどと言っていたのは、誰だっただろうか……と、くだらない思いが頭を掠めた。それにしても、さっきから風がビュウビュウ吹いている。うっとおしくて仕方がない。

 ふと、自分が制服姿であることを思い出す。もう少し、マシな格好はなかったのだろうか。

 まあ、いい。どうせ死ぬのだから。


 直後、鈴原は飛んだ。屋上の縁から、一気に空中へとダイブする──

 十三階建てマンションの屋上から、ひとりの人間が飛び降りたとしよう。その場合、途中に何の障害物もなければ、コンマ何秒という僅かな時間で地面に激突する。その衝撃力たるや、ゴリラが巨大な鉄のハエたたきを持ち上げ、人間に振り下ろすくらいの威力は有るだろう。骨折、内臓破裂、脳挫傷、その他もろもろの症状が一瞬のうちに肉体を襲うことになる。人間の肉や骨は、想像以上に脆いものだ。人体は、簡単に壊れる。命もまた、簡単に失われる。

 当然ながら、鈴原健介が生きていられるはずはなかった。高いビルから飛び降りても、様々な要因が重なり奇跡的に助かるケースもなくはないが、それは宝くじで数億円を当てるよりも低い可能性だろう。

 今回、その宝くじを当てるより低い可能性が彼の身に起きてしまった。体が地面に衝突するよりも早く、何かが体に巻き付いたのだ。

 少年の記憶は、そこでなくなっていた。地上に激突し即死する前に、彼の意識は消えていたのだ──




 後に、その飛び降り事件を担当した刑事は、マスコミとの会見でこう発表した。


「あれは、奇跡としか言いようがないですね」


「奇跡、といいますと?」


「まず、彼が飛び降りる直前に、強い風が吹きました。極めて局地的な強風が、この辺り一帯に吹き荒れたようです。こんなことは有り得ないはずなのですが……何はともあれ、結果として地面との衝突のショックをだいぶ和らげてくれました。これが、第一の奇跡です」


「第一ということは、第二の奇跡もあったわけですね?」


「はい。その強風により、タイミングよく大きなビニールシートが飛ばされてきました。飛んできたビニールシートは、彼の体に巻き付いたのです。さらに、シートの端の部分がマンションの手すりに引っかかりました。そのため少年は、一旦ビニールシートによって受け止められた形となったわけです。その後、地面には衝突しましたが……掠り傷にもなりませんでした」


「では、少年は無事なのですね」


「はい。意識はしっかりしていますし、目立った外傷もありません。念のため入院し精密検査をしていますが、間もなく退院できるでしょう」


 ・・・


 それから、十四年後のこと。

 奇妙な男が、駅近くのファミリーレストランに座っていた。灰色のスーツに灰色のネクタイ、さらに灰色の靴と、身につけているものは全て灰色である。頭には灰色の中折れ帽を被っており、異様なまでに彫りの深い顔立ちだ。肌の色や黒髪は東洋人のものだが、顔の形から察するに純粋な日本人ではなさそうである。

 この灰色ずくめの男の前には、困惑した表情の青年が座っていた。Tシャツにデニムパンツ姿という飾り気のない格好であり、落ち着かない様子で男に視線を送っている。

 先に口を開いたのは、青年の方だった。


「えっと、あなたは私立探偵の工藤淳作クドウ ジュンサクさん……だと聞きました。僕に何の用でしょうか? いったい、何を調べているんでしょうか?」


 その問いに、工藤は微笑んだ。


「まあ、大したことはありませんよ。あなたに迷惑はかけませんから、安心してください。協力していただいた謝礼金は、終わり次第この場でお支払いします。話も、三十分以内に終わらせますから」


「そ、そうですか」


「では早速ですが……秋野さん、あなたは中学生の時、鈴原健介さんと仲が良かったそうですね」


 そう、この男は秋野大輔アキノ ダイスケという名だ。現在、食品メーカーにて勤めている。特に問題もなく平穏に暮らしており、事件性のあるような人生を歩んでいるわけではない。

 体つきは中肉中背で、風貌は穏やかそうだ。彼の人格や、これまで生きてきた時間がどんなものであるかを物語っていた。


「ん? 鈴原健介、ですか?」


 秋野の表情が曇る。話題にしたくない……というわけではなく、純粋に記憶にないらしい。鈴原は、よほど影の薄い男だったのか。工藤は、無言のまま彼の反応を見ていた。

 ややあって、秋野の表情が変わる。


「あっ! 思い出しました! 鈴原健介ですね! いましたよ!」


「思い出していただけましたか。あなたは、その鈴原さんと友だちだったそうですね?」


「はい。中学の時は、たまに遊んでいましたよ」


「彼は、どんな生徒でした?」


「どんなって……はっきり言って、ごく普通でしたよ。口数の多い方ではなく、目立つタイプでもありません。少なくとも、中学生の時は平凡な人間だったと思います」


 そこで、秋野は言葉を止めた。眉間に皺を寄せ、何かを思い出そうとしている。工藤は口を挟まず、じっと待った。

 少しの間を置き、秋野は口を開いた。


「そういえば、あいつはアニメ好きでしたね。鈴原の家に行った時、そっち系のグッズらしき物がちらほら目に付きました。本人は隠してたみたいですけど、オタクだったのは間違いないですね。対戦ゲームなんかも上手かったですよ。ゲームやったら、ほとんどは鈴原の圧勝だったと思います」


 当時、オタクは差別されていた。連続幼女誘拐殺人事件の犯人がオタクであったことから「オタクは殺人鬼の予備群」というような偏見が生まれてしまったのだ。

 そのため、当時はオタクであることを隠すのが当たり前だった。鈴原も、そんな生き方をしていたらしい。


「そうでしたか。あなたと鈴原さんは、高校に進学してから連絡は取り合っていたのですか?」


「いや、実は……高校に入ってからは、付き合いがなくなってしまったんですよ。最後に話したのは、中学の卒業式ですかね。高校進学してからは、いろいろ忙しくてね。あと、あいつの入った高校もヤンキーが多くて……あんまり、関わりたくなかったんですよ」


 語る秋野の表情を見る限り、嘘はなさそうだ。工藤は、核心に迫る質問をしてみた。


「あの自殺未遂については、どう思われました?」


「えっ? 自殺未遂、ですか?」


 秋野の顔には、驚愕の表情が浮かんでいる。演技ではないようだ。となると、この男は本当に知らなかったらしい。


「ご存知ないのですか? 鈴原さんは、一九九八年にビルの屋上から飛び降りたのです。が、奇跡的にも無傷で済みました」


「えっ……いや、全然知らなかったです。そんな、ビルの屋上からの飛び降りなんて……いつ頃ですか?」


「五月二十日です」


「五月二十日、ですか……」


 唖然とした様子で、こちらの言ったことをオウム返しのように呟いた。だが、すぐに顔をあげる。


「いや、知らないですね。ところで、もしかして鈴原は何かやらかしたんですか?」


「はい?」


 眉をひそめる工藤に、秋野は恐る恐る聞いてきた。


「いや、あなたみたいな探偵さんがわざわざ話を聞きに来るというのは、何らかの事件絡みですよね? あいつ、何かやったんですか?」


 興味津々、といった表情だ。ひょっとしたら、後に友人との飲みの席のネタにするつもりなのか。あるいは、SNSのネタにするのかもしれない。

 だが、その前に聞かねばならないことがある。


「その前に確認ですが、あなたは中学卒業以来、連絡は取っていなかった。したがって、高校入学後の鈴原さんについては何も知らない……と、こういう解釈でいいですか?」


「は、はい。その通りです。全く連絡もとっていなかったですしね。鈴原が自殺未遂をしていたなんて、本当に初耳でした」


「なるほど。その自殺の原因ですが、当時の寿山院コトブキサンイン高校は、あなたの仰る通り不良の多い学校でした。不良たちにいじめられていた可能性も、無いとは言えません。あなたの目から見て、中学生時代の鈴原さんは、いじめに遭いそうなタイプでしたか?」


 工藤の問いに対し、秋野は即座に頷いた。


「そうですね、いじめられても、おかしくはないタイプだったのは確かです。地味だし、目立たないし……ただ、こんな御時世ですからね。どんなタイプでも、いじめのターゲットになりますよ。ただ、鈴原が特別いじめに遭いやすいタイプだったかと聞かれたら、そこまでではなかったと思いますね」


 そこで、秋野の表情が変わった。何か思い出したらしい。


「そういえば、あいつ第一志望の高校に落ちていたんですよ。なんか、入試の当日に三十八度の熱が出て、試験を受けることすら出来なかったと言ってました。ツイてない、ってボヤいてましたよ。本人は笑ってましたけど、相当ショックだったんじゃないですかね」


「その結果、寿山院高校に入学することになったわけですね?」


「ええ。今は知りませんが、当時の寿山院はかなりレベルの低い高校でした。ヤンキーが多くいるとかいう噂も聞いてましたしね。今にして思えば、それが自殺の原因だったのかもしれないです」


 今は知りません、と秋野は言ったが……実のところ、寿山院高校は既に廃校となっている。一九九〇年代より、東京都では『都立高校改革推進計画』なるプロジェクトが始まっていた。ニ〇〇〇年代になると、大半の底辺高校は廃校もしくは合併されている。

 当時の寿山院は、普通科高校の中では最底辺と言われていた。自分の名前さえ書ければ合格する、とまで言われていたほどだ。ゴミ処理場、などと呼ばれていたという話も聞く。

 鈴原は、成績は悪くなかった。上位とまではいかなくても、中の上くらいのランクにはいたはずだ。そんな彼が、寿山院のような底辺高校に入ってしまった……これが、精神に何らかの影響をもたらしたであろうことは想像に難くない。

 

「で、あいつは……鈴原は何をしたんですか?」


 不意に聞いてきた秋野。どうやら、好奇心を刺激されたらしい。工藤は、静かな表情で語りだした。


「我々にも守秘義務があります。したがって、言える範囲は限られてきますが……まず、鈴原さんは十三年前から行方不明になっています。さらに、鈴原さんが姿を消した数日後、彼の母親が自殺しています」


「えっ、本人は行方不明で、お母さんは自殺したんですか?」


 さすがに愕然となっている。彼が姿を消していたことも、母親が自殺したことも、全く知らなかったらしい。

 そんな秋野に、工藤は語り続けた。


「はい。母親の芽衣子さんは、睡眠薬を大量に飲み命を絶ったようです」


「そんな……」


「もうひとつ、これを見てください」


 言いながら、工藤がカバンから取り出したのはタブレットだ。画面に触れ操作し、秋野に見せる。


「ここに映っているのは、鈴原健介さんに間違いないですね?」


 言いながら、工藤は画面を指さした。そこには、ふたりの若者が映っている。場所は、渋谷センター街のようだ。

 片方は地味な感じである。髪は長くもなく短くもなく、Tシャツにデニムパンツといういでたちだ。顔立ちも平凡で、渋谷よりは秋葉原の方が似合いそうな雰囲気を漂わせていた。

 もう片方は、顔のあちこちにピアスを付けていた。髪は金色で、首にはネックレスをかけている。こちらもTシャツにデニムパンツという格好だが、醸し出している空気は真逆だ。夜の街を徘徊し悪さをしていそうなタイプである。

 工藤の指は、地味な少年の顔を差していた。秋野は、すぐに頷く。


「はい、鈴原です。間違いないですね」


「では、この隣にいる彼には、見覚えはありますか?」


「い、いえ。見たこともないですね。誰ですか?」


「彼の名は酒井清人サカイ キヨトです。この名前にも、聞き覚えはありませんか?」


「いいえ、ありません。何者ですか?」


「十三年前、渋谷のセンター街にて刃物で通行人を無差別に襲い逮捕されました。三人が死亡、五人が重傷を負った事件です。当時は大々的に報道されました。この事件、覚えていませんか?」


 その言葉を聞いた途端、秋野の表情が一変した。


「あ、ああ! 思い出しましたよ! あの渋谷の通り魔事件ですか! じゃあ、こいつはあの通り魔なんですか!?」


 その声は上擦っていた。だが、それも当然だろう。当時、昼間の渋谷にて起きた連続殺傷事件は世間の度肝を抜いた。今でも、事件現場を見にくる者がいるほどだ。

 しかし工藤は、この事件に何の思い入れもなかった。


「はい、そうですよ」


 冷静に答える工藤とは対照的に、秋野は勢い込んで尋ねる。


「もしかして、鈴原は事件と関係があるんですか?」


「いえ、それは関係ないと思われます。ただし、彼が事件を起こす前の酒井と知り合いだったのは間違いありません」


 言った後、工藤はカバンから封筒を取り出した。テーブルの上に、そっと置く。


「今日は協力していただき、ありがとうございました。こちらは謝礼金です」






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