淡い淡い恋の味

けろけろ

第1話 淡い淡い恋の味

 英国ロンドンのベルグレービア、その中でも特に閑静な地域。そこには裕福な人々が屋敷を構えており、その一角にあるブルックス家も例外ではなかった。

 もともと資産家であり、さらにロボット工学の分野でも名を馳せているブルックス家。その広く瀟洒な屋敷には『とても可愛らしい』と噂の一人娘が住んでいた。




 初夏のある日。

 ブルックス家の庭園を一望できるテラスから、ちりんちりんと甲高いハンドベルの音が響いている。金色の髪を綺麗に巻き、つんと澄ました表情の少女――アリスが、執事を呼んだのだ。

「オリバー、早く来てお茶を淹れてください」

 さらに数回ちりんちりんと音を立ててから、アリスは白いテーブルにベルを戻す。それから彼女は、揃いの椅子に座りなおし、よく手入れされた庭園に視線を巡らせた。庭師が動物のトピアリーを好んで作るのだが、なかなか可愛らしく出来ていて、アリスは気に入っている。

 その庭園から、涼しい風が吹いてきた。アリスは巻き髪越しに風を感じ、目を細める。

「もう夏の匂いがしますね」

 アリスはうっとりと呟いてから、少しだけ咳き込んだ。そういえば咽喉が渇いており、それで先ほど執事のオリバーを呼ぶためハンドベルを使ったのである。

「そうだわ、オリバー」

 件の出来事を思い出し、アリスが辺りを見回す。けれど、オリバーの姿は無い。

 そこでアリスは、ハンドベルを再び鳴らした。

 しかし。

 オリバーは一向に姿を見せない。その代わりに何事かとメイドのサマンサが現れた。

「お嬢様、お呼びですか?」

「あの、サマンサ、オリバーが来ないんです……彼の状況をご存知?」

「ええ、その……」

 サマンサがお茶を濁したので、アリスにはピンと来た。

「あの不良執事、また競馬にでも行ってるんですね!」

 苦笑したサマンサの表情を見ると、アリスの勘は当たっているのだろう。

「……まぁいいです。ではサマンサ、お茶をお願いします」

「はい、すぐにご用意いたしますので」

 それからアリスはサマンサに紅茶を淹れてもらった。サマンサの紅茶は、実に優しい味がする。そして、彼女が紅茶にいつも添えてくれるパウンドケーキは、幼少のころから食べ慣れた味でほっとした。

「サマンサ、とても美味しい紅茶とケーキですね」

「ありがとうございます、お嬢様のお口に合って嬉しいです」

 サマンサは笑顔を浮かべながら、お茶のお代わりを用意していた。ちょうどいいタイミングでアリスがもう一杯の紅茶を要求したので、サマンサは温められた新しいティーカップに紅茶を注ぐ。

 その様子を、アリスはじっと眺めていた。サマンサがとても気を遣って紅茶を淹れてくれている様子が判るからだ。

 そこへ。

「よ、ワンダーランドちゃん! 今日はいいトコに陣取ってるじゃねーか!」

 非常に軽そうな中年男性の声が、アリスの後方から聞こえてくる。どうやら真後ろに、アリスが待ちかねていた人物が立っているらしい。アリスはくるりと振り向き、ハンチング帽にベスト、スラックスという全くの私服でにやにやしている男性を確認した。

「オリバー!」

 アリスが、盛大に唇を尖らせる。勝手に留守をしていた事よりも、気になる点があるからだ。

「何度言ったら解るんですか! 私はワンダーランドちゃんじゃありません! アリスです!」

「こーんな小さい時から面倒見てた俺からしたら、今でも可愛いワンダーランドの国のアリスちゃんだってば」

 そう言うと、オリバーは右手の親指と人差し指をぐっと伸ばす。オリバーは指先で十~二十センチくらいの身長を表現したのだ。

 アリスはそれに気づくと、わなわなと肩を震わせた。

「こーんな、って! それは胎児の大きさよ! 私はもう十三歳なのに!」

「ワンダーランドちゃんが奥様のお腹の中に居るときから、俺ぁここで世話になってたもんでね──はい、そんな顔しない。可愛いのが台無し」

 オリバーが伸ばしたままだった指先をアリスの口元に移動させる。尖らせていた唇をつんつん突つかれ、アリスは思わず赤面してしまった。

「あれ? 赤くなっちゃってホントかーわいい。なぁサマンサ、うちのワンダーランドちゃんはどこに出しても恥ずかしくない可愛いお嬢ちゃんだよなー」

「ええ、本当にそう思いますよ」

 サマンサはにこにこと応対している。その一方で、アリスは面白くなかった。

 この執事は無礼だし壊したティーセットは数知れずなのに、なぜか父や母から絶大な信頼を得ている上この屋敷では古株な為、態度が大きいからだ。

 だが。

 アリスにもオリバーの無礼を許す理由が、一つだけ存在していた。

 アリスはその理由のため、先ほどサマンサが淹れてくれたお茶を一気に飲む。レディには相応しくない行為だけれど、オリバーがここに居るのならやってもらいたい事があるのだ。

「オリバー、お茶を」

「へーい」

 オリバーはふざけた返事をして、それから自分の胸元を探った。そのベストの内側からは、くしゃっと丸まった競馬新聞と赤鉛筆が現れる。

「えーと、1-3と3-5かな、次のレース。いや、待てよ……?」

 競馬新聞に赤鉛筆でチェックを入れつつ、オリバーが紅茶を淹れはじめた。調子外れの鼻歌まで聞こえてきて、アリスはテーブルセットに腰掛けたまま溜息をつく。濃緑が今も夏の匂いを運んで来るというのに、自分の執事ときたら。だが、そんな風にいい加減な動作で注がれるオリバーの紅茶は、他の誰が淹れたものより最高に美味しいのだ。

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淡い淡い恋の味 けろけろ @suwakichi

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